◆◆ 07. 水泥棒

 曾祖父の代から継いできた家には、小さな前庭があった。

 庭いじりが好きな性分ではないし何も植えずに放置していたところ、妻が花を植えたいと言う。

 子供も成長して手がかからなくなった頃合い、専業主婦の妻が暇を潰せればいいと好きにさせた。


 シュウメイギクとかイワブキだとか、名前を教えられても今ひとつ関心が持てない。

 ただ、帰宅した際に季節の花が迎えてくれるのは意外に風流なものだなと思った。

 自分の家の庭だからか、他所より映えて見えるのは現金なものだ。


「あのピンクの花、面白いな」

「ホタルブクロね。うちの花は立派だって評判いいのよ」


 食卓の話題でも、花について話すことが増えた。悪い傾向ではあるまい。


 とある金曜の夜、仕事が立て込んでいつもより遅く帰ったときのことだ。

 家の庭先から、老人らしき人影が立ち去るのに出食わした。

 乳白色のポリタンクを抱え、よろつきながらも結構なスピードで離れていく。


「おいっ!」


 呼び掛けに振り返ることはなく、老人はすぐに夜陰に紛れた。

 庭を荒らされた様子は無い。

 家の中に入り、上着を脱がせてくれる妻へ報告する。


「花泥棒みたいな奴がいたぞ」

「え? イヤねえ」

「何のつもりか、ポリタンクを持ってた」

「ああ、じゃあアレかしら。多分、盗っていったのは花じゃないわ」


 うちの庭花は、近隣の花好きが羨むほど咲き具合が素晴らしいそうだ。

 近所の詮索婆さんが、その秘訣を探ろうと妻を質問攻めにしたとか。


 育て方はマニュアル通りだし、種も苗もホームセンターで購入したもの。

 なら土が違うのかと、強引に鉢植えに使える量を持っていかれたらしい。

 しかし、庭と同じ土を使おうが、何なら株を分けて育てようが、庭の花ほど美しくは咲かない。


「もしかして、水が原因なんじゃないかって」

「水って庭の水道栓を使ってるんだろ?」

「違うわよ。あなたったら、ほんと興味が無いことには疎いのね」

「水道じゃないのか。蛇口があったと思うんだが」

「小さいけど、手押しのポンプよ。地下水を汲み上げて使ってる」


 それはまた地震でも起きた時に便利だな、と感想を口にすると、妻には呆れた顔で笑われた。

 最近じゃ珍しいポンプの使い途はともかく、ポリタンクで盗みたいものと言えば水だろう。

 妻の推理に自分も首肯する。


 犯人は花を羨んだ近所の誰か。

 紛うことなき犯罪行為ではあるが、警察を呼ぶほどかと言えば躊躇う。

 精々、町内会に知らせて警告を回すくらいで様子を見たい。


 良い自衛策も思いつかない。ポンプを使えなくしては、妻の水遣りに支障が出る。

 チェーンか何かでハンドルを縛り、南京錠でも付けるか……。

 これまた面倒な話だが。


「まあ、私は少しくらい構わないと思うけどね」

「実害が出てるのに?」

「どうせ無料だし、年寄り一人が運べる量なら知れてるでしょ。花木に活力を吹き込む“魔法の水”だなんて宣伝されたら、欲しい人が出ても当然よ」

「それ、また隣の婆さんが言い触らしてるのか」

「本当に水で育ちが変わるかなあ。効果が無かったら盗らなくなるって」


 そうは言うけど、という反論は遮られて、夕飯の話題へと切り替わる。

 水泥棒は、その後日も続いたのかどうか分からない。

 以降、盗む現場に出会うことは無かったが、おそらく何日も水を盗られたのではないか。

 三日、或いは四日。ひょっとすると一週間くらいは。


 そう考えたのは、山手にいくらか行ったところに住む老人が自殺したニュースを聞いたからだ。

 これもまた隣に住む町内スピーカー経由で仕入れた情報である。


「旦那さんが亡くなって、後追い自殺したらしいわ」

「へえ。歳は?」

「八十二歳だって。その歳でも、死にたくなるものなのね」


 不穏な話ではあっても、ことさら騒ぐ事件ではない。

 問題は、亡くなった家の様子だった。


「旦那さんは一週間前に亡くなってたみたい。蒲団に寝かされてて、回りにいくつもポリタンクが置いてあったって」

「ポリタンクが……」

「蒲団も遺体も、水浸しだったそうよ」


 やりきれない――そう感じたのは、自分も妻も同様だった。

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