◆◆ 09. 人魚
人を
梅雨のある日、徳右衛門は噂を頼りに海辺の古寺を訪れた。
なんでも寺には門外不出の御宝が伝わり、年老いた住職が一人で継いでいると言う。
まるで奪ってくれと言わんばかりの宝を知って、徳右衛門の行動は早かった。
深夜、寺の寝所に忍び込み、老僧に
本堂まで案内させ、観音像の後ろの木箱に納めてあると確かめるや僧の胸に刃を刺した。
箱を引きずり出し、鍵を叩き壊して開ける。
現れたのは、綿に包まれた薄汚い干物だった。
「はっ。これが人魚か」
大きさは育った鯉ほど、下半身はまだ鱗がそうと分かる形で残る。
上半身はと言えば、干からびた赤子が近いか。
寂れた裏街道から脇へ踏み入れば、似たような死骸が稀に捨てられている。
「そんなもの……一銭にもならんぞ」
「なんだよ、しぶといジジイだな」
死んだと確信した老僧が言葉を発しても、徳右衛門は焦らず匕首を構えて近づく。
運よく致命の傷を避けたようだが、息も絶え絶えなのは見てとれた。
「不老不死、ってわけじゃなさそうだな。いたぶる趣味は
「お前もそれが狙いか。愚かな噂に踊らされよって」
「己で食う気はなかったが……金にならねえのは困るな」
人魚を食らえば、不老不死の効を得る。
飲み屋の噂話を信じるなら大した宝に違いない。
しかし、僧はその噂を否定した。
「それが本当なら、今ごろお上に召し上げられておるわ」
「誰か食って確かめたのか?」
人魚の干物は、あちこちが欠けて失われていた。何者かが切り取ったような、或いは齧ったかのような跡だ。
試した者がいたのであれば、その効験も明らむはず。
しかしながら、僧はそれにも否と答えた。
「人魚は呪い也。口にするものではない」
「くだらねえ。呪いがあるなら、俺はとっくにあの世へ連れていかれてるだろうよ」
「寺に納めたのは、人魚を封じるためだ。御仏の大慈悲に照らされれば、いずれ……呪いも……」
僧は言葉を詰まらせて、血反吐をぶちまけた。
「死にかけだってのに、喋りすぎだぜ。なんなら今からでも食ってみるか?」
「要らぬ。仏理に背いても、行き着く先は永劫の苦界と知れ」
いかにも抹香臭い説諭を最後に、僧は口を閉じる。
徳右衛門も箱へ戻り、もう死に逝く老人に気を向けることはなかった。
さてどうしたものか――徳右衛門は本堂を出て、寺のあちこちを引っ掻き回す。
めぼしい金を探し集め、ほつれが目立つ帯を取り替え、ともかくも利を得るとまた人魚の箱へ戻った。
抱えて持ち出すには大き過ぎ、売り先にあても無し。
我ながら考えが足りなかったかと少し後悔しつつ、人魚の身を刃でこそぐ。
「そこらのガキに食わせて、試してみるか」
「食うな。決して食っては……」
「うるせえ」
僧のしぶとさに呆れながら、徳右衛門はその喉元を改めて掻っ捌いた。
さすがの老僧もこれで一巻の終わりだ。
一仕事終えた徳右衛門は、惨状を顧みることなく悠々と寺を後にした。
月に照らされた山路を、海から離れるようにと進む。
老いず、死なず。そんなことが実現するのなら、何を躊躇うことがあろうか。
徳右衛門にしても疑わしい噂だったが、試しもしなかった僧は馬鹿だと思った。
「呪い、ねえ」
不老不死も真、呪いも真ならどうだ。それなら呪われたところで、さしたる痛痒にはなるまい。
食わなくても、打ち首になっても死なないなんて、これ以上望むべきものは無かろう。
まさに抜苦与楽の大慈悲だ。
どんな呪いか詳しく聞いておけばよかったか――。
はたと足を止め、徳右衛門は乾いた肉片を懐から取り出す。
『決して食うな』
末期の言葉が心中に蘇った。
他人から命じられるのは何より嫌い、そんな徳右衛門の天の邪鬼が起きてくる。
試すことを恐れるのは馬鹿らしい。子供を見つけずとも、自ら一口食ってみればいいではないか。
薄く笑った彼は、乾物そのものといった欠片を口へ放り込み、もぐもぐと柔くなるまで顎を動かす。
雲のない、月の明るい夜だった。
長く、深く、
「食うなと言ったろうに。今度はまた、悪相極まりない男だのう」
不老不死とは言えないだろう。
人と化し輪廻流転を繰り返すのが、かつて己が身にかけられた呪いである。
長きを過ごしても未だ慣れない二本足で、徳右衛門だった男は寺へと
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