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『俺さぁ、結婚するなら料理が上手い人がいいんだよね。お前ってどうなの?』


 頭の中で響きわたる藤野さんの声、私は思わず読んでいた雑誌を壁に向かって投げつけていた。胸がざわついて、呼吸が上手く出来なくなる。私は目を閉じって、じっと彼の声が聞こえなくなるまでうずくまった。


 彼も、MINATO君と同じことを言っていた。あの時の声音も笑顔も、ありありと思い出せる。私は頭の中で何度も念じるように繰り返した、藤野さんとMINATO君は違う、藤野さんとMINATO君は違う、藤野さんとMINATO君は違う……!


***


『家庭の味ぃ? あー、例のやつね』


 後日、優奈から電話がかかってきた。離婚に向けた協議についての報告、けれど、話はそこまでうまく進展しなかったらしい。私よりも優奈の方ががっかりとしているのが声だけで分かる。まだ始まったばかりだし、私は待てるから大丈夫だよと告げると、優奈の声は和らいだような気がした。

 私はアルバイト先の話をした。皆さん優しくて、順調そうだと言うと優奈は喜んでくれた。話は色々移り変わり、私はふと思い出して優奈に聞いてみたのだ。


「そう、家庭の味ってどんなものかなぁって気になって」

『うーん……そう言われたら難しいかも。あ! 肉じゃがは?』


 肉じゃが、うん、良さそうだ。家庭の味の筆頭って言う感じがするし、お肉を多めに入れたらMINATO君も満足してくれるに違いない。そろそろいい時間だねと言う優奈にお礼を言って、またねと告げて電話を切った。


 木曜日のシフトは夕方前まで。私は久しぶりにコンビニではなく、スーパーマーケットまで来ていた。素早く材料を買って、早く支度をしないと、MINATO君が来てしまうかもしれない。私はやや駆け足で材料を買って行く。玉ねぎ、にんじん、そしてメインのジャガイモとお肉。それらをカゴに入れて会計のレジに並んでいると、どこからか子どもの声が聞こえてきた。顔をあげ声の方向を見ると、幼い男の子が母親の足に縋り付いていた。


「おかし買って! 買って!」

「家に帰ったらあるでしょ、我慢して!」

「やだやだ!」


 床に寝転んで駄々をこねる、そんな男の子に向かって母親はため息を漏らした。周囲からは小さく笑い声が聞こえてくる。あたりを見渡すと、色々な人が買い物カゴを持っていた。子ども連れの家族、老夫婦、若い新婚さん……この世の中には、これだけの『家庭』があるのだとしみじみ実感する。あの家に居たままだった、気づかない景色。こんな瞬間に、やっぱりあの家から出てきて良かったと思う。


 飛び出した夜は、不安で仕方がなかった。彼から離れてうまくやっていけるのか、優奈の迷惑にならないか……けれど、今振り返ると、それは正解だった。しかも、アイドルの男の子にご飯を食べに来てもらうなんて! 数か月前の私に教えたら、ついに頭がおかしくなってしまったと思われるに違いない。それくらい、私の人生は大きく変わってきていた。


 また駆け足で自宅に戻り、大慌てで準備をする。野菜の皮を剥いて、手ごろな大きさに野菜を切っていく。にんじんは乱切り、玉ねぎはくし切り、ジャガイモは一口大に。野菜を切り終えてから、お肉も同じように切っていく。肉は豚バラ肉にしてみた。……もしかしたら、MINATO君は牛肉の方が好きかもしれないけど、そこは、お財布の都合という事で。熱した鍋に薄く油を入れて、お肉を入れて火を通す。全体的に色が変わってきたら、切っていた野菜を全部入れて、油が回る様に混ぜていく。


 全体に油がなじんだら、調味料を入れていく。しょう油、みりん、酒、砂糖。それらをすべて入れたら、煮立つまで少しだけ待つ。沸騰したら蓋をして、弱火で煮込んでいく。ジャガイモにスッとつまようじが入りようになれば完成。


 これも母から教えてもらった料理だった。水を使わない【無水肉じゃが】。野菜の水分がにじみ出て、それらで野菜を煮込んでいく。それぞれの旨味が染みわたり、甘くておいしい肉じゃがが出来上がる。お母さんの作る料理の中で、二番目に好きだったもの。

 煮込んでいる間にお米を炊いて、お豆腐の味噌汁を作り、肉じゃがも出来上がる。しかし、先週彼が来た時間を過ぎても、チャイムが鳴る気配はなかった。


「……今日は来ないのかも」


 今日だけじゃなくても、もうずっと来ないかもしれない。こんな辛気臭い女のところなんて、そう多く通いたくないに違いない。

 エレベーターの動く音が聞こえるたびに私は廊下を覗くけれど、このフロアに降りる人は誰もいない。虚しくなった私は彼を待つのをやめて、一人で食事を取る。食べながら、お母さんが作ってくれた肉じゃがの味を思い出していた。母が教えてくれたレシピ通り作ったはずなのに、全く違う味のように感じる。やっぱり、私が作るとまずくなるように出来ているのかもしれない。

 ネガティブの感情がぐるぐると渦巻いているのを感じながら洗い物をしていると、チャイムが鳴った。私はパッと顔をあげる。鏡を見なくても笑顔なのが分かった。慌てて手を洗い、玄関のドアを開ける。MINATO君は「よっす」と片手をあげていた。


「わるい、遅くなった」

「いや、全然、大丈夫」

「レッスン長引いちゃってさー、明日朝早いのに勘弁してほしいよー」


 彼は我が物顔で私の部屋に入っていく。まだ三回目なのに、すっかりと慣れている雰囲気なのは間取りが似ているからかもしれない。


「腹減ったぁ~。今日は何?」


 この前と同じように座布団を使う彼の前に、出来上がったものを置いてく。今日から使うのはこの前買ったばかりの真っ白なお皿たち。お茶碗は少し大きめなものを買った。


「わー、肉じゃがじゃん。俺好きだよ」

「良かった」

「んじゃ、いただきます」


 ジャガイモに箸を突き立てて、一口でパクリッと食べてしまう。彼の食事をしているところを見るのは3回目だけど、相変わらず気持ちのいい食べっぷり。


「うま~。俺これ好きかも」

「……ありがとう」


 彼がうまいと言ってくれるたびに、私の心が満たされていくのが分かった。


「こんなに旨いもん食えるなら、みんなとメシ行かなくて良かったわ」

「……え?」

「ほら、レッスンで遅くなったからメシ行こうって誘われたんだけどさ」

「みんなと行けば良かったじゃない!」


 思っていたより声が大きくなってしまった。私が慌てて口を噤むとMINATO君は「何で?」と笑いながら言う。


「だって……そっちの方が、うちで食べるよりいいもの食べられるでしょ?」

「アンタが作るのも十分うまいよ? それに、約束破るのはダメじゃん。約束を破ったらアンタに写真ばら撒かれる可能性だってある訳だし。……ご飯、おかわりってある?」


 あっと言う間に彼のお茶碗に盛っていたご飯がなくなっていた。私がおかわりをついでリビングに戻ると、彼の視線はある一点を向いていた。


「あれって、俺ら載ってる雑誌?」

「あ……」


 私が投げ飛ばしたアイドルジャパンが、あの時の形のまま床に転がっている。私は慌ててそれを拾い綺麗に伸ばそうとするけれど、紙に変な癖がついてしまっていた。


「読んでくれたんだ、ありがと」


 彼の肉じゃがの皿が空になりそうなので、「おかわり、いる?」と聞くと「もちろん!」と返ってきた。私は肉じゃがをよそいながら、彼に背を向けたまま話しかける。


「俺の母ちゃんも、よく作ってたなぁ」

「肉じゃが?」

「うん。男と逃げる前にね」

「……え?」


 思わず食器を落としそうになってしまった。MINATO君は笑いながら「気を付けてよー」と声をかけてくれるが、それほどに衝撃的な言葉だった。


「お母さん、男と、に、逃げ……?」

「イメージ悪くなるからあんまり言ってないけど、実はそうなんだよね。俺が小学生くらいの時に不倫していた相手とどっか逃げて、それっきり。父さんと二人暮らしだったんだけど、父さんも仕事忙しい人でさ、あんまり家で手料理食べる機会ってあんまりなかったんだよね。まあ、父さんとも仲いいわけじゃなかったし、別にいいんだけどさ」

「そうなんだ……」

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