第29話

「暦部……」


 天文部のフロアを出た凛々花は、エレベーターに乗りながら呟いた。

 天文部の下、陰陽部の上の三階。暦部があるそこに、エレベーターが到着する。


「し、失礼します」


 ふんわりと香ってきたのは、畳の匂いに混じった花の香り。


「……見ない顔ね」


 髪をアップにまとめた吊り目の女性が、手を止めて凛々花をチラリと見る。


「あ、本日から天文部所属になりました。天文得業生の安倍凛々花です!」

「ああ……、そういえば新年度だったかしら」


 女性は立ち上がって、凛々花の前に来た。


「暦権博士の重岡扇よ。一緒に作業することもあるだろうから、よろしくね」

「はい! よろしくお願いします!」


 扇はすらりとした腕を組んで首を傾げた。


「今日はご挨拶かしら?」

「あ、いえ、こちらの資料を届けに参りました」


 保也から預かった資料を渡すと、その場で軽く目を通す。


「……貴女、安倍凛々花って言ったわよね?」

「は、はい」

「こっち、座ってて」


 扇は、先ほど座っていた文机の前に座布団を出すと、どこかに電話をかけ始めた。

 凛々花は固くなったまま、座布団の上に縮こまる。先ほどの陰陽部とはだいぶ空気感が違う。


「……忠幸くん? 今どこにいるの?」


 扇が話し始めたので、自然と意識がそちらに向いた。スマホについた分かれたハートの片割れのストラップが揺れている。


「え? 六階の図書室にいる? なんで? ……資料が足りない? どうして私に言わないの? いいから戻ってきて。お客さんよ」


 そう言って、扇は電話を切った。


「ごめんなさいね、ちょっと待っててくれるかしら」

「だ、大丈夫です」

「暦博士が今戻ってくるわ。ちょっと、この資料の件で聞きたいことがあるの」

「私にですか?」

「そう。蘆屋道満に襲われた安倍凛々花天文得業生って、貴女でしょう?」

「それは私ですね……」

「暦博士も交えて聞いておきたいことがあるの。申し訳ないけど、もう少し待ってもらえるかしら?」

「はい、全然大丈夫です」


 凛々花が頷くと、厳しい吊り目が微かにふっと和らいだ。


「紅茶は飲める? 婚約者が貰ってきたライチジャスミンティーがあるのだけれど、飲める?」

「飲めます!」

「じゃあ淹れるわね」


 扇の表情はほとんど変わらない。ふとした瞬間に柔らかい表情になるようにも見えるが、すぐにすんとした無表情になる。

 手際よく紅茶を入れた扇は、自分の分と凛々花の分、二つのティーカップを持って戻ってきた。


「熱いから、気をつけてね」

「ありがとうございます」


 扇からカップを受け取ると、花のような香りが鼻をくすぐった。

 

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