86 神様気取りの魔王
あの山を越えた先、マルス渓谷には、この世のものとは思えないような綺麗な花が咲く。誰も見た事のないその花を見ることができたなら、願いが一つ叶うらしい。
そんな噂は、周辺地域の村や街の住民なら誰もが知っていた。
けれど、子どもたちはマルス渓谷には行かないように言いつけられていた。周囲の森が深くて、危ないから。川が深くて危険だから。危険な魔物が出るから。大人たちは、口酸っぱく子どもたちに言いつけていた。
しかし、子どもというのは禁止されたことをやりたくなる生き物だ。
その日、エマは孤児院を抜け出して噂の花を見に行った。
エマはみすぼらしい身なりの少女だった。背の丈から察するに十歳ほどか。着ている質素な服はボロボロ。よく見ると、その肌には痛々しい傷跡があった。長い黒髪はところどころが痛んでいる。顔のそこらじゅうに泥をつけていて、それを気に留める様子もない。
「ハァ……ハァ……」
ただ一心不乱に、少女は噂の花を求めて山の中を走っていた。方向すら見失ってしまう程の深い森にも、エマは怯えない。初めて来る場所、初めて見る景色。それに触れる彼女は、危険性など見ていなかった。
奇跡的に、危険な魔獣に見つかることもなく、エマは山を越え、森を抜け、渓谷に辿りついた。
道も知らない少女は、まるで何かに導かれたように渓谷に辿り着いたのだ。
それは、或いは運命の導きだったのかもしれない。
「渓谷の中……花はどこ……?」
少女はうわ言のように呟くと、よろよろと斜面を下り渓谷へと入った。河原の石が、エマのボロボロの靴に踏みつけられ音を立てる。
既に体力が限界に近いにも関わらず、エマの赤い目はギラギラと輝き、噂の花を絶対に見つけようという気迫に溢れていた。──それは、無垢な少女が噂話を追いかけている、というにはあまりにも必死な様子だった。
「どこ? ……私の救いは、どこ?」
もはや体力ではなく気力のみで、エマは足を動かしていた。
河原を歩き、地面に目を凝らす。石だらけのそこには、花なんて咲くようには全く見えなかった。けれどエマは諦めずに川の方へと近づいていく。
やがてエマは、念願の物を見つけた。
「あった……!」
それは、特別美しくもない、ありきたりな花だった。白い花弁と、良く成長した茎と葉。「この世のものとは思えないほど美しい花」とは程遠い。けれど、疲労困憊なエマにはそれこそが救いであるように見えた。
よろよろと近づいていったエマが、花の目の前に跪く。女神像を前にした敬虔な信徒のような、真剣な様子だった。
「願いを叶える花、どうかお願いします。──世界を、滅ぼしてください」
渓谷に、春とは思えない冷たい風が吹いた。少女の耳元を吹き抜けた風は、切実な願いなど知らないように流れていく。エマは黙って手を合わせていた。
当然、どれだけ待っても世界には何一つ変化などなかった。滅びる様子などどこにもなく、渓谷は平和な景色のままだった。
「はぁ……」
エマは、深く深く、溜息をついた。この世界に絶望したような、十歳ほどの少女には不似合いの疲れ果てた溜息だった。
「やっぱり、馬鹿のする噂話が本当のわけなんてない、か」
嫌悪に満ちた言葉には、深い諦観があった。自分の道筋が無駄だったことを知っても、エマはその場から立ち上がることができなかった。もう、自分の人生なんてどうなったっていい。そんな感情が胸中を支配し、彼女の意識を朦朧とさせる。
渓谷に風が吹く。冷たい風は少女の失望など関係なしに吹き続けていた。
「──え?」
ふと、エマは声が聞こえた気がして、顔をあげた。深く沈みこんだ心にも届くような、迫力のある声だった。エマは風の向こうに聞こえた声に、もう一度意識を集中させた。けれど、その声はエマの内側から聞こえているようだった。
『世界を滅ぼしたいという願い、偽りはないか?』
悪魔の囁きというものがあれば、こういうものなのだろう、とエマは思った。声は身を震わせるほどに低く、威厳に満ちて、それでいて甘美な魅力を纏っていた。
興奮に震える唇で、エマは言葉を紡ぐ。
「偽りはない。私は、こんな世界を滅ぼしたい」
『なぜ、そのように思う』
声は、エマの本心を知りたがっているようだった。
「人間はみんな、愚かで幼稚で利己的で打算的で愚昧で口汚くて粗野で暴力的で、どうしようもなく愚かだからだ!」
エマは、日頃胸にため込み続けていた悪態を吐き出した。本心をぶちまけたのは、これが初めてだった。
こんなことを言えば、子どもに厳しく当たり、躾けた気になっている馬鹿なシスターに折檻されるに決まっているからだ。寒くて暗い物置小屋に閉じ込められ、一日中何も食べられない痛みを、あのシスターは知らないに決まっている。
同じ孤児院の子どもに言っても無駄だ。彼らは幼稚で、自分の言葉を半分も理解しない。そのくせ背の丈や腕力で自分より優れているから、何かあればすぐに暴力を振るってくる。昨日なんて、エマの顔が気に入らない、という理由だけで面白半分にリンチされた。
エマは、彼らが嫌いで仕方なかった。だから、彼ら人間の生きる世界なんて滅びればいいと思っていた。
『人間の娘よ、貴様は違うとでも言うのか?』
声は、エマの言葉を面白がっているようだった。
「私も同じだ。醜い人間だ。けれど彼らと違い、私は自分が醜いことを知っている」
人間は、どうして自分の心を映す鏡を持っていないのだ、とエマは事あるごとに思っていた。自分の心を鏡で見れたら、きっとその醜さに卒倒してしまうに決まっている。
そして見えていないからこそ、あんなにも醜いのに胸を張って生きているのだ、と確信していた。
「この世界を滅ぼしてあいつらに復讐できたなら、私は死んでいい。私のすべてをなげうってでも、私はあいつらを殺して、滅ぼしてやりたい」
10歳程度の少女にはあまりにも不釣り合いな願い。真っ当な大人が聞けば、きっと眉をひそめて少女と話をしようとしただろう。
けれど、声は。魔族の神、叛逆神は、ただ喜ぶだけだった。
『──善い。その歪んだ魂の在り方、とても善い。人間を巫女とするのは初めてだが、貴様のような魂を持つ者ならば適応できよう。最後に、確認するぞ』
「なんだ」
『魔王となって世界を滅ぼす気はあるか?』
エマは、唇を曲げて笑った。昏い決意の籠った、会心の笑みだった。
「もちろん」
次の瞬間には、少女の姿は渓谷のどこにもなかった。川辺に咲くクレソンだけが、静かにゆらゆらと揺れていた。
◇
『冷酷な魔王様が玉座で吞気に昼寝か? 配下に寝首を搔かれるぞ』
「うるさい」
魔王は、脳内に直接響く神の声に、意識を覚醒させられた。目を開けると、見飽きた魔王城の装飾が目に入ってくる。
ちょうどその時、部屋のドアがノックされた。
「魔王様、定時報告にあがりました」
「入れ」
「ハッ、失礼します」
入って来たのは、六つのギョロ目が特徴的な魔物だった。長い顔の中で六つの眼球が絶えず動き続ける様は不気味で、常人なら気味悪がって当然のものだった。
しかし、人間だったはずの魔王に動揺はない。そんなもの、見慣れているからだ。
「第一部隊は壊滅。それに伴い、後方支援を担う第三補給部隊も半壊しました。これで東部戦線は敗北。魔王軍は後退を余儀なくされました」
「そうか」
悲惨な戦況にも、魔王は眉一つ動かさなかった。今更魔物がいくら死のうと知ったことではなかった。
「……あなたの指揮のせいで、仲間たちは死にました」
「そうだな」
六つの瞳が、魔王を責めるように睨みつけた。けれど、無表情が少しも揺らぐことはなかった。
「ッ! やはり、貴様なんかに魔王軍を任せるわけにはいかない! 貴様に任せていたら、魔王軍は負けてしまう! おい、入ってこい!」
六つ目の魔物が叫ぶと、途端にドアから魔物が雪崩れ込んできた。その数は十を超え、皆殺気に満ちていた。先ほどまで昼寝できるほどの静けさだった玉座は、一瞬にして熱気に包まれた。
「絶対者なんてもういらない! 今から魔王軍は、俺たちの合議で動かす! 貴様には玉座から退場してもらう!」
「ハッ、貴様らが何百匹集まろうと私よりも良い策が思い浮かぶとは思えんがな」
「くっ……とことん見下しやがって! おい、やるぞ! ここで魔王の首を獲り、俺たちが玉座につくぞ!」
「おう!」
六つ目の魔物に扇動された魔物たちが、得物を構えた。それに対して、魔王はただ静かに立ち上がり、腰の魔剣に手を当てた。
「一つ忠告すると、私と貴様らの戦力差すら理解できない貴様らに、戦略を考える王の座は無理だぞ?」
「うるさい! 貴様に仲間を無意味に殺され続けるよりも、ずっとマシな結果を出してみせる!」
「そうか。……正直、興味ないな」
お前ら魔物がどれだけ死のうと、最終的に人間が滅べばそれでいい。魔王の本心は、突き詰めればそんなものだった。
「はああああ!」
魔物の鋭い爪が迫るのを一瞥すると、魔王は軽く剣を振るった。瞬間、玉座の間に暴風が吹き荒れた。ただ剣を振っただけとは思えない、嵐のような風だった。
「がっ……」
まっさきに襲い掛かった魔物は、あっさりと崩れ落ちた。屈強な体には巨大な切り口が出来ていて、そこから緑色の血液が流れ出していた。
「なっ……」
魔物たちの間に、動揺が走った。覚悟はしていたはずだった。魔王は頭脳だけでなく戦闘においても最強の魔物。そう認識したからからこそ、志を共にする精鋭を十体以上集めた。準備を整えて、殺すつもりでここに来た。
しかし、ただの一太刀を見ただけで自分たちの足は震え、本能がここから逃げ出すことを訴えかけてきている。
「う、うおおおおおおおお!」
己の中に湧き出た恐怖を誤魔化すように、魔物たちは咆哮した。同時、十を超える魔物たちが魔王へと殺到した。
どのみち、反乱を起こした自分たちを待っているのは冷酷な魔王による処刑だ。引けない。引くわけにはいかない。
そんな雄々しい突貫に、しかし魔王は冷静だった。
「『粘性の闇よ。荒れ狂い、破壊せよ』」
重々しい詠唱に呼応して、魔王の手のひらからは真っ黒な泥が湧き出てきた。それは意思を持っているかのように独りでに蠢くと、反乱分子たちに襲い掛かった。
「くっ……『今は亡き水の神よ、世界の穢れを浄化したまえ』」
後方に構えていたダークエルフが詠唱すると、大量の水が泥へと襲い掛かった。しかし、魔法を放ったダークエルフはすぐに驚愕することになる。
「馬鹿な! 水の効き目がない!?」
蠢く黒い泥は、水と接触すると、ジュッという不気味な音を立てて水を吸収し始めた。
泥、土を扱う魔法には水をぶつける。そんな魔法のセオリーを覆された衝撃は凄まじかった。
やがて、不気味な泥が魔物たちに襲い掛かった。獣のごとく飛び掛かった泥は、魔物の口部分に入り込むと、呼吸する隙間を完全に奪った。
「──ッ! ァ……」
声にならない悲鳴をあげて倒れ込む魔物たち。正体不明の、魔法に長けたダークエルフすら知らない魔法に、反乱分子たちは抵抗する術を持っていなかった。
「ハッ……ハッハッハッハ! 先ほどまでの勇ましい態度はどうしたのだ!」
もはや魔王の挑発に応えられる魔物など、一体たりとも残っていなかった。物言わぬ屍と化した魔物達が、玉座の床を汚していた。
「ふん、もう死んだか」
魔王は一人ごちる。
「私に任せていたら魔王軍は負けてしまう、か」
先ほどの愚かな魔物の言葉を思い出す、自然、魔王の頬は吊り上がっていた。
「何を言うか。私がいる限り、負けるわけがないではないか」
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