EX オリヴィアは、また一歩踏み出す
オリヴィアの実家、バーネット家は、王都に別宅を所持している。別宅とは言え、その豪華さは、周囲の住宅を軽く凌駕する。三階建ての家屋の白い壁には、シミ一つない。周囲に広がる庭園には、整備されつくした芝が美しく並んでいる。正面の門から内部を覗くだけでもその格式高さが思い知れる。
なるほど、流石公爵家の所有物だと王都の人々は口々に賞賛した。
けれどオリヴィアからすれば、こんなものは浪費の最たるもので、無駄の結晶だと思っていた。
せいぜい一年に一度使う程度の別宅。それを維持するためにメイドを雇い、執事を配置し、庭師を働かせている。なんという金の無駄遣いか。その金があれば、いったいどれだけの魔法についての参考文献が買えただろう。
だからオリヴィアは、この美しい別宅が特段好きではなかった。
けれども、一度だけでいいから、メメをここに招待してみたくなった。
きっと、全部明かしてくれた彼女に何か返したかったのだ。大事な秘密を、自分たちを信じて打ち明けてくれた彼女に、自分ができることはなんだろうと考えた。
考えたオリヴィアは、今までそれとなく隠していた自分の公爵令嬢という一面を曝け出したみることにしたのだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ピシッとした執事服に身を包んだジェームズが、恭しく頭を下げる。その様は、公爵家の執事らしく、完璧だ。けれど、幼少の頃から付き合いのある私には分かる。彼は久しぶりの来客に僅かに高揚しているようだった。
「お客様も、バーネット家の邸宅にようこそおいでくださいました」
「そんなにかしこまらなくて結構ですよ。こちらは平民の出です」
朗らかな表情で、メメさんはやんわりと言った。
教養がないなりに精一杯畏まっている。そんな仕草を見せたメメさんに、ジェームズが視線を僅かに柔らかくした。
「私の部屋は使えるようになっていますの?」
「もちろんでございます。ご注文のティーセットも、用意してあります」
「よろしい。私はこれからメメさんと二人きりでお茶会を楽しむつもりです。直ちに準備を」
「承知いたしました」
私の言葉を聞いて、ホールに集まっていた使用人たちが一斉に動き出した。久しぶりに主人がいるからか、彼らの動きはいつも以上に機敏だった。
「メメさん、すぐに準備ができるでしょう。私の部屋まで案内いたします」
「ああ。……なんだか、オリヴィアがこんなに貴族らしく振舞っているのは初めて見た気がするな」
そう言って、メメさんは嬉しそうにはにかんだ。少し前までなら、見なかったような表情だった。
「百年以上観察していてもですの?」
「まあ、四六時中一緒だったわけじゃないからな。それに、いつもオリヴィアは、公爵令嬢としての自分を隠していた気がする。もちろん、君も」
どうやら、私はメメさんとどんな風に出会ったとしても、貴族令嬢としての自分をみせたがらないらしい。
「やはり、気づいていましたか。……大層な理由ではありません。ただ、平民である貴方方に少しでも距離を感じて欲しくなくて、少し躊躇っていただけです」
「ああ、その思いやりは、良く伝わってきていたよ。ありがとう」
また、優しい笑み。ああ、やっぱり彼女は、いつになく素直だ。言葉だけでなく、その顔すらも自分の内心を素直に語っているようだった。つられてこちらの口角まで上がってしまう。
今まで彼女が無意識に作っていた壁が壊れたような、そんな印象を受けた。
さあ、彼女にもっと嬉しそうな顔をしてもらおう。私は気合十分に自室のドアを開けると、メメさんを二人っきりのお茶会へと招き入れた。
「これは……よく整備された部屋だな。それでいて、使いやすいように配置が考えられている。なんというか、オリヴィアらしい部屋だ」
メメさんは私の部屋を一通り見渡したかと思うと、そんな感想を残した。
「……普段私はこの部屋を使わないので、見せかけだけの部屋だけですわ。掃除しているのも使用人ですから」
「そうなのか。……なんか、オリヴィアらしいとか見当はずれなこと言ったかもな」
ポリポリと、メメさんは気恥ずかしそうに頬を掻いた。また、初めて見る表情。
「貴女にも、知らないことがあるんですね」
思わず私は、呟いていた。何を聞いても必ず答えが返ってくるから、いつしか私は彼女がなんでも知っていると思っていたようだ。それはひょっとしたら、底の見えない彼女に勝手な幻想を抱いていたのかもしれない。
「当然だろう。例えば、昔のオリヴィアはどんな子供だったのか、とか知らないな」
なんでもないように言うメメさん。どうやら、恋人になっても私は子供の頃のことは隠したらしい。
「思えば私たちは、長い時間を一緒に過ごしているようで、互いのことについて話す機会がなかったのかもしれませんね」
私も、知らない。メメさんがどんな子供時代を過ごしたのか。どんな両親だったのか。どんなものが好きだったのか。
彼女はずっとそういうことを話すことを避けているようだった。だから彼女はミステリアスなまま、底の見えないままだった。
でも、話してくれた。どうしてあんなに強いのか。どうしてそんなに賢いのか。どうしてそんなに辛そうに生きているのか。
だから私は、もっと知りたいと思った。
「紅茶でも飲みながら、貴女について教えてください。今日は、そのために呼んだのですから」
「もちろん。でもその分、君にもいっぱい話してもらうからな」
私が笑いかけると、メメさんはいたずらっぽい顔で笑った。
紅茶を注いだ使用人が退室していく。残されたのは、私とメメさん、湯気を立てる紅茶が二杯。茶菓子が少々だ。
どちらからでもなく、カップに手を付けて一口。美味しい。平民の暮らしも面白いが、やはり嗜好品の質は実家が勝る。
紅茶で湿った唇を動かして、私はまず一番気になっていたことを聞いた。
「本当に、オスカーさんたちの里帰りに付いていかなくて良かったんですの?」
オスカーさんとカレンさんは、一度近況報告も兼ねて故郷の村へと帰っていった。メメさんも、両親の顔だけでも見ないか、と誘われたのだが。
『いいや、俺にはもう必要のないことだよ』
微笑を浮かべて、メメさんはただ静かに言った。その時の顔を見ていたら、なんだかメメさんが再び遠いところに行ってしまった気がした。
「ああ。今の俺とはもう関係ないんだ。あそこにいるのは、他人で、知らない人たちだ」
目を閉じて紅茶を味わいながら、落ち着いた様子で応えるメメさん。家族に対する情のようなものは、もう残していないのだろうか。やはりこの話題になると、メメさんは達観した態度を見せる。遠くの人に見えてしまう。
メメさんに他の表情を見せて欲しくて、私は話題を変える。
「そうだ、私と恋人になった後、最初に何をしたんですの?」
「なんか話しづらいけど……そうだなあ……」
メメさんは本当に優しそうな顔で、思い出を語り始めた。きっと五十年以上昔の記憶のはずなのに、メメさんの虚空を見つめる瞳は、昨日の出来事を見つめているようだった。
私は熟考していた。机上には、既に中身のなくなった紅茶のカップが二つ置かれていた。私の対面には、豪華で大きな椅子には少し不釣り合いなほどに小さな体つきをした少女が座っていた。
眠っている。メメさんは瞼をぴったりと閉じて、すぅすぅと寝息を立てていた。
「……リラックス効果があるとはお伝えいたしましたが、睡眠薬の類はいれていませんよ」
返事は当然なかった。
もしや彼女は、疲れていたのだろうか。あの戦いの日から随分経って、傷は完治したはずだ。でもメメさんは、オスカーさんに稽古をつけたり、魔術の研究をしたりしているようだ。
そんな日々の疲れが、このお茶会で出てしまったのだろうか。だとしたら、少し申し訳ないことをした。本当なら彼女は、自室でゆっくりしていたかったのだろうか。
「……柔らかくなったとはいえ、無茶するところは変わらないんですね」
メメさんの新雪みたいに真っ白な頬をそっと摘まんで、少し伸ばしてみる。柔らかい。
額にかかっていたひと房の赤髪を払って、いつになく穏やかな顔を見つめる。
とても無防備なその姿は、今までの彼女ならきっと晒してくれなかっただろう。
メメさんの眠った顔は、いつも険しくて、何かに耐えているようだった。いつだって、ボロボロになって帰ってきて、気絶するみたいに眠っていた。
今は違う。平和な日常の中で、彼女はふいに眠りについてしまった。
私はそこに、今までの彼女とは決定的に異なる何かを感じていた。そしてきっと、それはいい変化だ。
彼女のあまりにも穏やかな寝顔を見ていると。私は彼女が語った彼女の過去について思い出した。
勇者として戦いの日々を送っていたこと。様々な出会いと別れを経験したこと。何度も失敗したこと。そして。
「メメさん、貴女は男の子、なんですの?」
返事は当然ない。ただ、小さな口から漏れ出る呼吸音だけが、静かな部屋に流れていた。無言でしばらく待って、私は彼女が起きないか観察する。
……やはり、熟睡している。それをいいことに、私は一人で話を続ける。
「貴女が男の子だとしたら、私のこの胸の感情にも、明確な名前が付けられそうです。そして、許されそうですね。ねえ、メメさん」
心配というには自分勝手で、憧れというには切実すぎる、胸を焦がすこの感情は、きっと。
返事はない。彼女の意識はない。だから私は、一人静かに宣言した。
「過去の私になんて。貴女の恋人だった私になんて、絶対に負けてあげませんからね」
今は、このままでいい。
けれど、この戦いが終わった後でも彼女と一緒にいたい。そう、願ってしまった。
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