53 人魚の末路

 セレネレーンはあてもなく放浪していた。母の死んだ今、人間の足を持つ彼女にとって深海で生活する意味はなくなった。母のいない海の生活は実に退屈で、何の意味もないものだった。

 地を踏みしめて、歩く。その新鮮さは彼女を高揚させた。


 既に先ほど食い尽くした村からは遠く離れただろうか。血生臭いげっぷを一つして、少女は空を見上げる。海と同じ色をした青空は、ひどく新鮮に映った。


 少女は母親の言葉を思い出す。愛を見つけて欲しい。そして、子どもを産んでほしい。それが母の願いだった。人間との愛。それを口にした母は、人間に騙されて殺された。


 彼女の最期を考えると、それは滑稽な望みだったのだろう。それでも、少女には母親の託してくれた願いの他に何も持っていなかった。富も、栄誉も、快楽も、少女には興味のないことだった。ただ唯一、愛だけを求めて、少女は歩き続けた。


 歩き続けた少女は様々な人間に会った。善人がいた。身寄りのない少女を気遣い、食事と居場所を与えてくれた老婆がいた。でもその人間は女だった。きっと彼女と愛を見つけることは、子どもを作ることはできないのだろう、と少女は老婆を食った。

 悪人がいた。見目麗しい少女を捕まえて、犯そうとした。少女には情欲に滾った男の様子に愛を少しも感じられず、男を食らった。


 しばらく人間の世界を彷徨って、少女は困惑した。一向に愛を見つけられない。男たちは揃いも揃って見目麗しい彼女に下卑た目を向けるばかりで、純粋な愛を見つけられる気配はなかった。

 愛を見出すことができなかった人間たちを、少女はことごとく食らっていった。歌で人間を操れるセレネレーンにとって、人間を殺すなど造作もないことだった。不要な人間など殺せばいい。少女にとって人間はその程度の価値しかないものだった。


 結局のところ、人間と対等に愛をはぐくむことを望みながら、少女は人間を自分よりも下等な生物とみなしていた。自分の歪みも理解できないままに放浪を続けていた彼女は、ある時小さなカルト集団に出会った。


 その集団は、海辺の洞窟でひっそりと祭事を行っていた。セレネレーンの故郷、海の近くのロケーションが気に入った彼女は、その人間たちを食うのを止め、こっそりと観察を始めた。

 彼らは奇妙な集団だった。身なりも年代も異なる彼らは、決まった日になるとひっそりと集まり、何やらもごもごと祈りの言葉らしいものを唱和していた。神とやらもそんな陰気臭い祈りは嫌だろう、と少女は思った。


 暗い雰囲気の彼ら大神教の信者たちだったが、しかしその祈りは真摯だった。観察して、やがて参加するうちに、少女は気づいた。彼らの示す、信仰。これはすなわち、愛なのではないか。


 確信した少女は必死に考えた。どうすれば信仰を、愛を得られるだろうか。必死になって考えた結果が、大神の預言者という立場を得ることだった。


 まず、少女はそこにいた数十人を歌で操り、一人一人に中毒性のある薬物を嗅がせた。薬物は以前少女の誘拐を企んだ人間が使っていた物だ。彼らならず者の根城を制圧した彼女は、それを大量に持っていた。

 思考力を失った彼らに、少女はもったいぶって大神の言葉を告げた。あっさりと彼女の言葉を信じた彼らは、彼女の預言を泣いて喜んだ。すっかり彼女の手足となった彼らに信徒の獲得を命じると、教団はすさまじい勢いで規模を増していった。


 数年後、教団は行き場のない浮浪者などを中心に信徒を獲得していった。少女から女に成熟したセレネレーンは満足だった。皆が自分を仰ぎ、拝む。皆が自分を見て、自分のために尽くしてくれる。

 これこそ、愛に違いない。少女はそう思おうとしたが、何か違和感があった。しかし人ならざる彼女には、その違和感の正体が分からなかった。


 ある時、成熟した女性となった彼女の元を、魔王軍からの使者を名乗る者が訪れた。その姿は人間のものだったが、気配は魔物のそれだった。

 要件は、自分たちの存在を露わにして、王国への攻撃を行ってほしい、という頼みだった。女は最初それを一蹴した。女にとってそれに何の益もないと思ったからだ。しかし、使者は言葉巧みに女を煽った。


「どうやら、貴女は現状を良しとしつつも何やら満たされていない様子ですね?」

「……なぜそれを?」

「人間の表情を読むことなど私にかかれば容易いことです。たとえ中身が魔物でもです」

「……ふん。それで?」

「貴女のその欲求を満たしてくれる相手がいるとしたら、興味がありませんか?勇者、という名前は、遠い地にいる貴女でも聞いたことくらいあるでしょう」

「その勇者という者が、私の欲求を満たすと?」

「勇者の体は女神に愛された特別製です。彼なら、貴女のその能力に抗えるかもしれない」

「……なるほど」


 それは確かに面白い話だ。思えば、彼女は歌に抗える人間に一度も会ったことがなかった。その表情を伺いながら、使者は畳みかける。


「貴女の欲求がなんなのか、私は知りません。しかしながら、魔物の欲求をぶつける相手がただの人間では、弱すぎて耐えられないでしょう。そういう意味で、勇者という相手は適当でしょう」

「その話を持ってきて、お前は私に何を願う」

「ただ、王国への攻撃の時期について私たちの言う通りにするだけでいいのです。簡単でしょう?」

「……いいだろう」


 勇者といえどたかが人間。そう甘く見た結果、女は今、勇者によって追い詰められていた。



 ◇



「歌が全く効かない!?私が、人間などに……!」


 数度歌による洗脳を試みたが、勇者パーティーには何故か全く効果がないようだった。

 セレネレーンはここに来てようやく自分の慢心を悟った。あまりにも危機感のないその様子は、生まれながらに人間相手に絶対有利だった人魚という種族ゆえか。追い詰められ、焦燥した彼女は、使者から受け取っていた丸薬を懐から取り出した。


「『命の危機を感じた時には使ってください』」


 あまりに怪しい代物だった。薬物を使って人間たちを意のままに操っていた彼女すら見たことのない、未知の薬。しかし、もう頼るべき人間もいない。意を決し、丸薬を飲み込む。その瞬間、女の思考能力は吹き飛び、彼女の馬鹿にし続けていた薬物に自我を崩壊させられた人間と変わらぬ姿となった。



 ◇



 懐から取り出した何かを口にした瞬間から、女の気配が明らかに変わった。超然とした様子はすっかりなくなり、代わりに獣の如き荒々しい気配を纏う。

 人のようで人ならざるその五体に力が籠る。飛んだ。そう認識した次の瞬間には、俺の視界いっぱいに肌色が広がっていた。


「ガッ……!」


 単なる掌底。いや、張り手とでもいうべき拙い攻撃。攻撃の稚拙さも関わらず、その右手にはとんでもない威力が籠められていた。

 巨大なハンマーにでも打たれたような衝撃を顔面に感じる。耐えきれずに背中を地に打ち付けると、すぐさま彼女が俺に向かって跳躍してきた。──潰される。


「オオオオオ!」


 しかし、オスカーが、その砲弾のような突撃を受け止める。雷鳴のような轟音。暴風が俺の頬をなぞった。


「メメ、立てる!?」


 オスカーの切羽詰まった声。その背中は、いつの間にかひどく大きくなっていた。頼もしい。素直にそう思う。

 ──しかしそれ以上に、俺は腸が煮えくり返るような怒りを覚える。何故俺が守られている。お前を俺が導くのだ。お前に、お前に守られる俺ではない!


「オスカアアア!代われえ!」


 手足が震え始めた彼に代わって、女に斬りこむ。素手に大剣を叩き込むと、まるで鉄板にでも剣を叩きつけたような硬くて重い感覚が返ってくる。大神教の教祖、セレネレーンの俺の知らない姿。こんなことは一度もなかった。初めての経験。そして脆弱な体。──上等だ。


「見てろオスカー!俺を守るなんてふざけたこと二度と言えなくしてやる!」


 絶叫が洞窟を反響する。極めて感情的で不合理な叫びは、しかし不思議と俺の四肢の力を復活させた。力づくでセレネレーンの体を突き飛ばす。彼女は空中で半回転すると、器用に両足で着地を決めた。ダメージはなさそうだ。


「ああああああああ!」


 美しい歌声を響かせていた女は、見る影もない金切声を上げながら再び突っ込んでくる。その動きに合わせて突き出した大剣は、しかし女の獣じみた機敏な動きの前にあっさり空を切った。

 行き違い、背後に回った女に向き直り剣を構え直すと、視界がぐにゃりと歪んだ。ああ、頭がクラクラする。先ほどのダメージが思ったよりも響いている。この体調、油断すれば倒れてしまいそうだ。でも、倒れるわけには、オスカーに任せるわけにはいかない。合理とか信頼とかそういう問題じゃない。俺のプライドの問題だ。


「メメ、無理はしないで!」

「メメちゃん、今私が──」

「カレンとオリヴィアは近づくな!動きが速すぎて守りきれない!」


 治癒魔法のために近づこうとするカレンを制止する。そして、オスカーがこちらを気遣う言葉をかけてくる。ああ、なんて惨め!あんな未熟なやつに心配されるなんて!


 そんなことを思っているうちにも、女は体勢を整えて、猪のように突っ込んできた、その動きは先ほどと変わらぬ速さで、目で追うので精一杯だ。今度は標的をオスカーに定めたらしい。彼の反応が僅かに遅れる。女の突き出した拳が、オスカーの脇腹のあたりにめり込んだ。オスカーが呻きながら転倒する。


「どけええええ!」


 オスカーに追撃をかけようとする女の頭蓋へと、大剣を振り落とす。しかし女は猿のように機敏に飛びのいて、攻撃を回避してみせた。


「ありがとうメメ、助かった」


 素早く立ち上がりながら礼を言ってくるオスカー。


「オスカー、あいつの動きは速いが直線的だ。うまく誘導すれば叩けるぞ」

「うん」


 大声で作戦を話すが、セレネレーンはそれすらも聞こえていないようだった。完全に理性を失っている。しかし、だからといって恐れる必要のない敵とは言えないだろう。先ほど攻撃を食らって分かったが、腕力など身体能力が軒並み向上している。どんなトリックを使ったのか分からないが、その破壊力は勇者の体すら突き破り得るだろう。


 でも、負けられない。俺の憎かったセレネレーンは、もうそこにいないようだった。目の前にいるのは、ただ人間の形を模しただけのケダモノだった。どれだけ力が優れていようとも、あの悪辣な人魚モドキよりも怖くはない。


 セレネレーンの肢体に力が籠る。


「来るぞオスカー!お前の方だ!」

「アアアアア!」


 赤布に突撃する猛牛の如く突っ込んできた女の拳を、オスカーが紙一重で躱す。顔面すれすれを通った拳が、彼の頬に浅く傷をつける。しかし女の行動を予測できていたオスカーは、既に反撃の準備を整えていた。


「フッ!」


 短い裂帛と共に、女の腹部に膝を押し付ける。自身の突撃の勢いのままに、女は膝蹴りをもろに食らった。


「──カハッ!」

「メメ!」

「任せろ」


 吹き飛んだ女に素早く迫り、大剣を振るう。今度こそ、剣は違わずに女の首を撥ねた。かつて冷徹な理性を灯していた瞳は、狂乱した様子のまま二度と動かなくなった。──ようやく、終わった。


「やったあ……」


 オスカーは疲労困憊といった様子でその場に座り込んだ。


「よくやったな、オスカー」

「ありがとう」


 オスカーに近づくと、その額に大量の汗が流れているのが分かった。余裕そうに見えたが、こいつなりに必死だったらしい。──ああ、良かった。

 浅ましい思考を断ち切って、自分の額の汗を拭う。見ると、カレンがオスカーに治癒魔法をかけているところだった。処置が済んだらしい彼女がこちらに向く。


「さあ、今度はメメちゃんの番だよ。怪我を隠すとかなしだからね」

「いや、カレンには悪いが、早いところ王国に戻ろう。──俺の予想が正しければ、魔王軍が、来る」

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