笑顔の色は

ささたけ はじめ

赤は情熱の色

 現在、僕の心臓が高鳴っているのは、部室まで走ってきたからだけではない。このドアの先に、僕の想い人がいるからだ。

 

「やあ――遅かったね」


 ドアを開くと、向かい合って並べられた机の向こう側に、文庫本を読みながら座る女性がいた。彼女こそが、僕の片想いの相手であり、ミステリー研究部部長でもある女性ひとだ。


「担任に少し、野暮用がありまして」


 彼女の対面の席いつものせきに腰を掛けながら、僕は答えた。


「用事、ねぇ――どうせ授業中に居眠りでもして、お説教を食らっていたんだろうが――せいぜい気をつけたまえよ。部員の恥は、部長である私の恥にもなるのだから」


 本から視線を上げずに彼女は言う。


「努力します、ははは――ところで」


 僕は乾いた笑いを発しながら、あることを尋ねる。


「先輩、お湯は――?」

「もちろん沸かしてあるさ」


 ミス研ここは、僕と彼女の二人だけの部活である。そのため二人で過ごしているうちに、いつからか僕らの間には「先に部室へ来た人間が、お湯を沸かしておく」という暗黙の了解ができていた。


「ほら、使いたまえ」

「ありがとうございます」

「しかし、君はいつもそれだね。よほど好きなんだな」

「そうですね、好きですよ――」


 思わず言った言葉が告白のようになってしまい、慌てて僕は言葉を続けた。


「――『緑のたぬき』が」

「そうかい」


 僕の動揺をよそに、先輩はそっけなく言う。

 肩を落としながら僕がポットを渡すと、彼女はそれを受け取った。見ると彼女の机には、読みかけの文庫本と赤い器が並んでいる。


「なんだ――先輩だって、今日も『赤いきつね』じゃないですか」

「――確かに。私も他人ひとのことは言えないか」

「そうですよ。お互い様です。僕らは同じ穴のですよ」

「緑のだけにな」


 彼女はニコリともしないで、解りにくい冗談を口にした。

 しばらくして、僕は先輩よりも先にカップ麺のフタを開けると――湯気とともに、醤油や出汁だしかぐわしい香りが立ち上った。三分経っていないので麺が少し硬いが――なんの、ほぐれさえすれば十分だ。

 早急に食事を済ませたい僕は「いただきます」も言わずに麺に食らいつくと、それを見た先輩が怪訝な表情で尋ねてきた。


「いつも思うんだが――君は早食いが過ぎるね。もう少し、ゆっくり噛んで食べてはどうだい?」

「いやぁ、我慢できなくて」


 本当は、ゆるがせにできない理由があるのだが――それは彼女には内緒なので、僕はあいまいな言葉で答えた。

 ところが彼女は納得せず、相も変わらず険しい顔でこう言った。


「しかしな――早食いは消化に良くないぞ。よく噛んで食べないならば、せめて柔らかくしてから食べるべきだ。健康のためにもな」


 その口調は、まるで――年下の弟に対する姉の注意のようで――僕に対する彼女の思いが透けて見える気がした。


「わ、解りましたけど――先輩、もう三分経ちましたよ。麺が伸びちゃいます」


 いたたまれなくなって話題を変えると、彼女は小首をかしげて言った。


「む、君は知らんのか? 赤いきつねの調理時間は三分ではなく五分なのだ。それゆえに麺が柔らかく、食べやすいのが私が赤いきつねを好む理由だ。覚えておきたまえ」


 ――知っています。

 そう思いつつも言葉にできないもどかしさを感じていると、彼女のスマホのアラームが鳴った。几帳面な先輩は、お湯を入れてからきっちり調理時間を計って待つのだ。


「どれ――いただきます」


 きちんと姿勢を正して手を合わせ、食前の挨拶を口にする先輩。行儀の悪い僕とは大違いだ。

 その所作ルーティンが済むと彼女は箸を持ち、静かに麺を口に運び始めた。

 ほんのりと薄い桜色の唇をすぼめ、白い麺をそっと静かにすすり込む。その仕草を目にするたび僕は、彼女の艶めかしい唇に背徳的な魅力を感じてしまい、いつもくぎ付けになってしまう。


 ――よかった、間に合った。

 安堵の想いが胸をよぎる。


 白状しよう。僕が食事を早く済ませるのは、この光景を拝むためだ。『緑のたぬき』を選んで食すのも、『赤いきつね』よりも調理時間が二分ほど短いからである。

 僕がうっとりと至福のタイムラグを満喫していると、こちらの視線に気づいたらしい先輩が、食事の手を止めて顔を上げた。


「ん――どうかしたのかい?」

「い、いえ。なんでもありませんよ」


 しまった、なんたる失態だ。

 普段この時は本を読むふりをしているのだが――今日はすっかり擬態カモフラージュを怠ってしまった。


「いくら君でも、食事の姿をまざまざと見つめられるのは、少々気恥ずかしいのだが。私もこれで一応、女子なのでな」

「す、すみません」

「――ははぁ、なるほど。さては」


 一人で何かを合点したかと思いきや、先輩は急にこちらへ赤い容器を差し出してきた。


「お腹が空いて、カップ麺一つじゃ足りなかったんだろう? 仕方ない、少しだけなら分けてあげよう。ほら」

「え? あ、いや――」

「遠慮することはないさ。あ、お揚げは駄目だぞ? 私はこれが一番好きなんだからな」


 なおも彼女は執拗にこちらへ勧めてくる。

 ありがたい話だが、これは間接キッスでは――?

 ――そう思ったが最後、平常心を保てなくなってしまった僕は緑色の容器を手に取って、どうでもいいことを話し始めた。


「そそ、そういえば――どうして『赤い』きつねと『緑の』たぬきなんでしょうね? 先輩はご存知ですか?」

「ん――? それはだね」


 うまく彼女の気をそらせたようで、先輩は箸を置いて得意の蘊蓄うんちくを披露してくれた。


「赤いきつねは本来、『熱いきつね』という商品名で発売される予定だったらしいな。それが様々な事情で使えなくなり、当時流行していた曲の『真っ赤な』というフレーズから、赤イコール情熱イコール熱さという発想で赤になったのだとか。たぬきが緑なのは、緑が赤の対照色だからだ」

「え――赤の反対の色って、白じゃないんですか?」

「君は本当に無知浅学な男だな。赤と対になる色といえば、緑に決まっているだろう」

「何故です?」

「故事に『万緑叢中紅一点ばんりょくそうちゅうこういってん』という言葉がある。『一面の緑の草むらの中に、ただひとつ赤い花が咲いている』という意味だ。たくさんの男性の中に唯一女性が存在することを『紅一点』と称する語源だな。つまり、赤い花の対義は緑の草なのだよ」

「へぇ――なるほど。さすが先輩、博識ですね」

「君が不勉強すぎるだけだと思うがね、私は。来年は受験の身だろうに――」

「じゃあ、またこうして、先輩が教えてくださいよ」

「そうは言うが――私もまもなく卒業だ。そうなれば、いつまでも君にものを教えることはできんよ。私は私でがあるし――」


 聞き捨てならない言葉に、思わず僕の肩がピクリと震える。しかし先輩は気付くことなく、そのまま無神経に言葉を続けた。


「だから、来年以降はやっていけるように、せめてもう少し学業には励んでほしいのだよ。ミス研の次期部長として――」

「大丈夫ですって!」


 僕は耐えきれず、つい強い調子で打ち消してしまった。


「大丈夫って――」

「大丈夫です。僕も先輩と同じ大学に行きますから」

「なっ――」


 残ったつゆを味わっていた先輩は、僕の言葉を聞いて危うく吹き出しそうになった。

 ごほごほとせき込みながら、彼女は言う。


「へ――変な冗談を言うなよ」

「冗談じゃありません。本気です」

「私の進学先のランクを知っているのか? 故事成語のひとつも知らない君では、同じ大学など夢のまた夢だぞ」

「もちろんですよ。だから僕は今、毎日必死で勉強を頑張っているんですよ、これでも」


 さっきは言わなかったが――今日遅れたのだって本当は、進路そのことについて担任に相談していたからだった。


「じゃあ、首尾よく同じ大学に入れたとして、その先は? まさか同じ会社へ就職とはいくまい。いつまでも一緒ではいられないんだよ――残念だが、それが現実なんだ」


 聞き分けのない僕をさとすように、先輩は正論で追及してくる。それは確かに、彼女の言う通りだ。

 しかし――。


「――でも、ずっと一緒にいる方法はありますよ」

「そんな方法があるのなら言ってみたまえ」


 信じられないと、肩をすくめながら言う彼女に向かって、僕は告げた。




「僕と結婚してくれればいいんですよ」




「け、けけ――けっこん!?」


 目を見開いて、奇声を発する先輩。語尾の「ん」は彼女らしくない、裏返った不協和音だった。


「本気です。本心です。お願いです、先輩――来年、もしもあなたと同じ大学に入れたら、僕と結婚してください」


 それは本当は、心の中にしまっておくはずの気持ちだった。彼女がこの学校を去るまで、ずっと蓋をしておくはずの、厳重に封印された秘密だったのだ。

 しかし一度蓋が開いてしまった以上、もはやそれを留めておくことは不可能だった。


「そ、そ、そ、そんな、急に――」


 僕の想いの奔流を受け、彼女は身体をちぢこまらせた。緊張で硬くなったその様は、お湯を注ぐ前の即席麺のようだった。

 それでも僕は止まらなかった。むしろ、いっそこの熱い気持ちで彼女の頑なな態度をほどくべく、言葉は加速する一方だった。


「急じゃありません。ずっと前から好きでした。先輩、好きです。大好きです。だからどうか、僕とずっと一緒にいてください――!」


 息を切らして、僕はすべてを言い切った。あとは相手の返事を待つだけだが、彼女はうつむいたまま口を閉ざしてしまった。

 先輩が黙ったまま無音の時間が過ぎる。やがてその静寂を予鈴が打ち破ると、やっと先輩は口を開いてくれた。


「――まったく。本当に君は、聞き分けのないやつだな」


 表情は変わらず見えない。


「そもそも、告白より先に求婚プロポーズする馬鹿がどこにいる。そんなのを受けるのは、君と同じくらい馬鹿な奴だけだぞ」


 口調もいつもどおりそっけない。


「だから、同じ馬鹿むじなの――」


 声量はどんどん小さくなり――。




「私で、よければ」




 蚊の鳴くような声でそう言い、やっと上げた彼女の顔色は――手に持つ容器と同じくらい、耳まで真っ赤に染まっていた。

 それは僕が初めて見た、彼女の笑顔の色だった。

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