第2話 私

 私がシュトラツブールのリヒン川の近くにある酒場にわざわざ足を運ぶ理由は、あの人が来ているから、だ。

 忘れもしない、十六の時。私は暴漢に遭った。

 シュトラツブール外れの田舎道を歩いていたら、いきなり馬車が荒っぽく停まって、中から男の人が三人出てきて私を押さえ込んだ。そのまま荷物でも放り込むかのように私を車の中に連れ込もうとした。私は女なので力では当然男に勝てない。それも三人。絶望的状況に彼が現れた。

 私を連れ込んだ後、動くはずの馬車が動かなかった。異変には一人が気づいた。

「おい、出せ!」

 叫ぶ。しかし返事はない。

「出せ!」

 すると外から返ってくる。

「お前が出したらどうだ?」

 若い男の人の声だった。挑発的な、でも利発そうな。

 馬車の中の男たちの表情が凍る。でも一番血の気が多そうな人が立ち上がった。

「何者だ、お前」

 荒っぽく、車から出る。その時だった。

 男の頸部に鋭い一撃が飛んできた。蹴りだと分かったのはたくましい太腿が見えたからだ。

 車の中で私を押さえていた男二人の動きが止まる。そこらの小娘を追い詰めたと思ったら、窮地に立たされているのは自分たちの方だったということに今更気づいたのだろう。まず一人が反対側のドアから出ようとした。しかしそれより速く、太い腕が二本、にゅっと伸びてきて男二人を捕まえた。

 文字通り、引きずり出す。

 車の上から田舎の道に叩きつけられた男二人は腰が抜けたように座り込んでいた。この頃になってようやく自分が自由になりつつあることを悟った私は、車から顔を出して外を見た。先程頸部を蹴り飛ばされた男が一人、左手側に。そして馭者と思しき男性が馬の近くに倒れていて、危ないな、馬に踏まれそうだな、なんてことを思った。

「選べ」

 私を助け出してくれた……と思われる……男性が告げた。静かな、だが重みのある声で。

「俺とやり合うか、何もかも置いて逃げるか」

 まず一人が動いた。叫びながら、手近にあった石を掴んで男性に殴りかかったのだ。だが対する男性はまるで泳いでいるかのように鮮やかな手つきでそれをさばくと、男の脇腹に鋭く拳を叩きこんだ。男は唸って動かなくなった。

 残った一人は賢明だった。「何もかも」を財布や貴金属の類も、という意味だと思ったのだろう。ポケットの中身を投げつけるようにして後ずさると、そのまま走って逃げて行った。後にはやたらに大きな黒い馬車と、倒れた三人の男、そして私がいた。

 男性が振り返る。広い背中。たくましい腕。馬車に乗っている私と同じくらいの背の高さ。多分、あまり着るものにこだわらない方なのだろう。ボロボロの半袖のシャツを着ていた。

 私は礼を言った。しかし男性は興味もなさそうに、「親父の修行の成果を試したくてな」とだけつぶやいた。修行、が何を指すのか、私にはさっぱり分からなかったが、しかし私が対処することなく非常事態から脱することができたのは本当にありがたかった。だから重ねてお礼を言った。

「まぁ、放っておけなかったしな」

 よく見ると、男性は少し照れているようだった。

「お名前を」

 私がそう訊ねると男性は「アルベリク」と名乗った。素敵な名前だと思った。

「覚えておきますね」

 そう告げると、アルベリクはやはり照れたような顔を見せて、そのまま去った。彼の背中が遠くなるのを見送った後、私は倒れた男性たちを見た。

 この始末は、しっかりしないと。

 私は倒れた男性たちの首を掴んで強く捻った。軽い音がして、命の絶たれる気配がした。ほんのりと、香り。ああ、私はこの匂いが好き。

 さて。残る一人は。

 アルベリクの警告を受け賢明にも逃げた彼。大丈夫。どこに行ったかくらい、馬鹿でも分かる。だって財布も何もかも、置いていったのだから。


 私の仕事の仕方はちょっと特殊だ。

 獲物に私を狙わせる。そう。殺しにこさせるとか、あるいは男性が女性に抱くよからぬ感情を刺激するとか。とにかく私に危害を加えたい気持ちにさせて、私の巣に入ってきたところを仕留める。方法は色々ある。

 一番好きなのはナイフ。小さなナイフだ。食事に使うような。その刃に毒を仕込む。腐った食べ物からとられる特別な毒。楊枝の先より少ない量で人を殺せる。もちろんナイフの刃になんて塗って、その刃が頬をかすめでもしたらそれだけで死んでしまう。扱いは難しい。私の皮膚を傷つけてもいけないのだから。でも私は幼いころからこの扱いについて仕込まれている。誰よりも上手い。

 このナイフの刃をちょっとだけ、いたずらっぽくどこかに添わせるだけでいい。男性によってはこの仕草が色っぽく見えるらしい。喜んでされる人もいる。さる侯爵様の館の、御伽噺にでも出てきそうなくらい煌びやかな寝室で裸になってこの刃を使った時は面白かった。文字通り私は一糸まとわぬ身だ。ナイフの刃が私を傷つける危険性も格段に上がる。その緊張感がよかった。またやってもいいかもしれない。

 何の話だっけ。そう。彼。アルベリクの話。彼は十六の私を窮地から救ってくれた男性であり、私の仕事を横から奪った輩であり、そして私の初恋の相手だった。

 ちょっと非常識的な出会いだったことは自覚している。私は仕事にとりかかろうとしていた最中だったし……あの暴漢は襲うべくして私を襲ったのだ。あの後馬車の中で仕留めるつもりだった……彼は単に自分の腕前、それも武の道を究めている最中だった。男女の出会う場としてはあまり好ましくないことくらい分かっている。分かってはいるが、その、彼の……。

 いや、理由なんて分からない。恋に理由なんてない。ただ私は、私を助けてくれた彼を、純粋に私を思って訳の分からん男三人を相手してくれた彼のことを、考えるようになってしまった。彼がこのシュトラツブールの界隈にいる人間であることは容易に想像できた。それも、どの辺りに住んでいそうなのかも。

 一、匂い。彼からは水辺の匂いがした。汗の匂いじゃない。よく似てるけど、違う。でも澄んだ川の匂いじゃなかった。どちらかと言うと汚染された、おそらく都心の川。私の中の「匂いの記憶」を辿る限りだと、リヒン川かセルヌ川の辺り。あの辺りの川は工場があって汚い。

 二、土地勘。私と別れる時、彼は迷うことなく自分が進む道を決めた。どっちに行けば何があるか、およそ分かっているような足取りだった。多分この辺りに来ることがある人間なのだろう。必然シュトラツブールの人間であることは推定できる。

 三、訛り。シュトラツブールは元々漁師の街だったので、独特の方言がある。バラン国は百年前に西クランツ帝国と中クランツ帝国北部が合併してできた国なので、建国に当たり新しく首都を据えた。それが両国の境にあったシュトラツブール、田舎の漁師町だった、というわけだ。今でこそ都会になり、方言らしいものも見られなくなったが、それでも言葉の端に独特の発音は残る。「まぁ、放っておけなかったしな」と発した彼の言葉は僅かに古いシュトラツブール訛りがあったように聞こえた。最近の人の訛り方じゃない。ということは、多分ご両親が古くからシュトラツブールに住んでいらして、訳あってこの地を離れ、遠いどこかで育ってからまた帰ってきたのだろう。ご両親の世代の古い訛りが保存されているのだ。

 そして名前。アルベリク。これも個人を特定するには十分。

 シュトラツブールのリヒン川かセルヌ川のどちらかの近くに住む、武の道を志している、アルベリクと名乗る男性。探すのに苦労はしなかった。そして見つけて、驚いた。

 私と同業者の家系、それも由緒正しき家系のご子息だったからだ。

 私の家もそうだが、暗殺者の家系は外から人を迎えて後継者にするということをあまりしない。つまり子供を後継者にする。必然、暗殺者の家系というものができ、暗殺者界で名が通るようになる。私の家は毒殺で有名なルー家。問題の彼はルロワ家だった。確かに武骨な一族だ。その場にあるものを武器にして戦う近接戦闘で知られる一族。先代から東洋の武術に関心を持ち、一度そちらに渡って修行してから家業を再開したという話を聞いたが、どうやらアルベリクはその修行を受けさせられた次代のようだ。あの腕なら申し分ない。殺しが目的じゃなかったから一人を見逃すなんてことをしたが、私が気づかないくらい静かに馭者を仕留めた手捌き。男の頸部を襲ったあの鋭い蹴り。石を掴んで殴りかかってきた男を倒したあの美しい手つき。どれをとっても一級品だ。

 多分、殺しの目的以外で男性に興味を持ったのは初めてだったと思う。

 彼とはどうやら同い年らしいことを知った。母が知っていたのだ。ルロワ家の長男とあなたは同い年よ、と。俄然興味も湧く。

 十八の成人まで二年間、私は淡々と仕事をこなしながら……私のやり口上、若い内の方が仕事がしやすい……彼のことを深く知っていった。ルロワ家は成人と同時、十八歳で世代交代の準備をするらしい。つまり先代と共に暗殺の仕事をするようになるのだ。仕事、という意味では私は彼の先輩にあたるわけだが、私にあんな鮮やかな格闘は到底不可能なので、あまり偉そうな態度はとれない。それに、私は。

 表向き、ルー家は代々花屋の家系ということになっていた。いつだったかアルベリクには「父が医者だ」なんて言ったがあんなのは嘘だ。町はずれの小さな花屋を経営するちっぽけな家。そういう家系という設定だった。

 労働者の階級的に花屋がどこに当たるのか分からないが、多分この国の労働者の中には「肉体労働が正義」みたいなところがあるからきっと、花屋は下の方になるのではないだろうか。もちろん、花屋にだって肉体労働はある。花の仕入れや荷だしは重労働だし、配達だってする。でも工場での労働に比べたら確かに程度は軽いかもしれない。それに漁師さんのように魚や網を引っ張るような腕力もない。

 つまり表向きの社会的地位が私は低かった。ルロワ家は世代によって職業を変えているらしく……と、いうことはそれなりに自由度のある地位なので、貴族の次くらいに高い身分になるわけだが……先代は本屋をやっている設定のようだった。アルベリクは何を思ったのか町はずれで漁師……のフリ……をすることにしたようだが、それでも表向きの社会的地位は私の方が下だ。つまり偉そうな態度はとれないどころか、仮に私が暗殺者の家系じゃなかったとしても、労働者の階級、社会的階級の差で恋など叶わない。そんな存在だった。

 シュトラツブールの北にある山には野生のルヴトーがたくさん住んでいて、その牙は装飾品としての価値が高かった。バラン国はルヴトーを国を象徴する獣とし、その牙を成人の証とした。十八の夜、両親から送られるルヴトーの牙、通称シュトラツブールの月は生涯身に着けることになる装飾品だ。私はこれが似合わないとよく言われる。

 私の体は小さい。私の家系の女は代々そうなのだ。叔母なんて未だに童女に見える。男というのは常に女の若芽を摘みたがるので、私の家系のこの体格はとても仕事に使いやすい。大人しそうでか弱そうな女の子が毒の塗られたナイフで人を殺すなんてことは誰も考えないのだ。むしろ可憐な娘を視界に入れられることに無上の喜びを感じる男さえいる。可哀想な人だと思う。

 ま、とにかく。そんなわけで。

 私は仕事をしながら、アルベリクの家を割り出し、彼の仕事ぶりを知り、そして彼を眺めに行くようになった。すなわち労働者の集まる臭い酒場にわざわざ顔を出してそこの女将と仲良くなり、脳みそに筋肉でも詰まっていそうな馬鹿な男たちの馬鹿騒ぎを聞きながら、愛しの男性が静かにお酒を嗜む姿をただ愛でるという、そういう趣味を持つようになった。もちろん仕事は続けた。だがアルベリクへの忠誠心として、殿方に肌を見せることはあれども最後まで至らせることはしなかったし、至らせる前に大抵の男は果てた。寝室に入るのより先に死んだ男だっている。


 昼間は花屋。仕事の依頼も大抵昼に来る。

「イチイの実は売ってるかな?」

 これが合言葉。イチイの花言葉は「死」だ。

「ありますが、いかほど?」

 これは「仕事は請ける。料金は?」という意味。

「そうだな、二十ほどもらおうかな」

 この時口にされた数字の十倍スランが報酬額。つまり今回の場合は二百スラン。

「どのようなご用途でしょうか?」

 これは殺しの目標の特徴について訊ねている。

「この近くで漁師をやっていてね。こう、武骨な感じなんだが……彼に送りたくてね」

 この「~に送りたい」が「そいつを殺して欲しい」の意味。

 しかし実を言うと、この時既に嫌な予感はしていた。

「と、言いますと?」

 これは「もっと具体的に言え」の意味。

「川の近くの酒場で一人で飲んでいる。労働者の多い酒場で、漁師一人で飲んでいるんだよ」

 嫌な汗が流れた。

「今すぐ用意するのは大変だろう。後で使いの者に取りに来させるよ」

 この後客から口にされる使いの者の名が、殺しの目標。

「アルベリクという者が来る」

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