シュトラツブールの月

飯田太朗

第1話 俺

「相変わらずしけた酒飲んでるな」

「釣れなかったのかよ」

「なぁ、腕相撲しようぜ?」

 バラン国の首都、シュトラツブールの一角。

 労働者の多い下町。入り組んだ路地や汚れた川、濃い霧が名物の、本当につまらない場所。

 俺の居場所だ。海や大きな川が近いから、職業は適当に漁師だなんて言っているが、実際は魚なんか触ったことさえない。元から色が黒いから、肌の色で職業を疑われることはなかったが、何度か酒場で魚を捌けと言われたことはあった。まぁ、ナイフの扱いには慣れているから、なんてことはなかったが、仕事以外で肝が冷えた経験と言えば、それだろうな。

「なぁ、おい、腕相撲やろうぜ。十スラン賭けるぞ」

「言ったな?」

 俺はバーカウンターを離れ、店の片隅にある樽の方に行く。そこでちんたらフライをつまんでいたデブを顎でどかして、どっかりと肘を置く。俺に腕相撲をふっかけてきたあいつ……この店ではプチなんて呼ばれてる……がどしんと、俺みたいに肘を置く。

 プチはこの店で一番、腕相撲が強い。

 腕っぷしの強そうな男を見つけてはしょっちゅう腕相撲をふっかける。大抵の奴は勝てない。だが稀に、根性を見せてしまう奴がいる。愚かだ。そういう奴は腕が折れる。

 あいつは今まで俺に勝負をかけてきたことはなかった。それは俺が、プチとは明らかに労働者階級が違うから……漁師ってのは街の労働者よりいくらか低く見られるんだ……というのもあったし、単純に俺が人を寄せ付けない風にしていたからというのもあっただろう。ただ今日は違った。プチにはお目当てがいた。

 あの女が来ていたのだ。労働者の酒場に一人でやってくる、肝っ玉のすげえ女。

 一言で言うなら、丸い。デブって意味じゃない。体型が幼い。そこら辺の小娘みたいな見た目だ。短く切りそろえた赤毛で、毛の色艶がいいから何だかリンゴみたいな頭に見える。目もぱちくりしてるし背は小さいし、この酒場の主人は最初、「子供が来る場所じゃねぇ」と彼女を追い返そうとしたらしいが、彼女がこの国の成人であることを示すシュトラツブールの月……ルヴトーっていう毛並みの綺麗な獣の牙を使ったアクセサリーのことだ……を示すと、顔面にパンチを食らったような顔をしたそうだ。


 名前はアドリーヌ。そう名乗っているのを聞いた。本名かは知らない。だが職業は分かる。花屋だ。

 一、手指が荒れている。多少手入れはしているようだが、関節のひび割れを治したような跡がある。水を使う仕事であることは間違いない。この界隈で水を使う仕事、と言えば、料亭か花屋か、もしくは漁師だ。漁師になった女は聞いたことがないし料亭の女なら夜中に酒場には来ない。

 二、花言葉に詳しい。酒場の主人の奥さん、いわゆる女将が着飾って黄色い花のブローチをエプロンにつけていたら「花言葉は『究極の愛』ですね」と微笑んでいた。女とは言え、労働者の住む町にいる女だ。まぁ、この町に住む女の八割は糸紬を生業にしていて、学校に行かせてもらえる者なんて少数だし、とても花のことなんて学ぶ機会はないだろうな。そんな中に一人だけいる、花言葉に詳しい女。

 三、これが俺の中で決定的だった。ある日、あの女のスカートの裾に金色の、きめ細やかな粉がついていたのだ。あれはゼラニウムの花粉だ。この辺じゃまず手に入らない。つまり自然に生えていたものに触れた結果、ついた花粉じゃない。ということは商品として、どこかから仕入れたものに触ったんだ。え? どうして俺が花に詳しいかって? 女がいれば男がいるだろ? 男ってのはそういうもんなんだよ。

 さて、そういうわけで。

 俺の目の前の筋肉男、プチは愛しのアドリーヌの前でいいところを見せようって思ったんだろうな。女にはない馬鹿でかい筋肉を見せれば女はよろめくだろうという浅はかな考え。おっぱい見せりゃどんな女だろうと男はなびくが、上腕二頭筋を見せても女は興味のある男じゃないとなびかない。その辺が分かってない。

 それに、だ。

「ん……? あれ……?」

 プチの困惑した声。そりゃそうだろうな。腕相撲しているはずなのに、俺の腕の力が、全く感じられないんだから。

 腕相撲って言うのは、握った手と手、机上についた肘と肘、そういう点と点のぶつかり合いだ。ではこのぶつかり合い、つまり衝突を失くしたとしたら? 相手が押してきた分引いてみて、逆に相手を飲み込んでみたら? 引く、っていうと「負けるじゃないか」って思うかもしれないが、腕相撲って言うのは「倒れるか、倒されるか」の平面的なやり取りじゃない。握り合った手、引き合う手、そういう立体的なやり取りもある。つまり同じ「引く」でも手前に引くのと横に引くのとじゃ意味が違う。そういうことだ。

 まぁ、この辺は理屈じゃ理解できないだろう。俺が使ってるのは東洋の体術だ。あっちの連中は体が小さい。でも自分の身長の二倍はある石を易々と動かす。どこにそんな力があるのか、どうやってその力を出すのか、その魅力に憑りつかれた親父に連れられ、俺は六歳の頃から十年以上、あっちで学んできた。毎日荷物の入った箱を上げ下げしてついた筋肉を見せびらかしているような労働者に負けるわけがない。

「あれっ、あれっ」

 プチの体がよじれる。あいつは俺の腕にしか力をかけていない。俺はあいつの体幹に力をかけている。その違いだ。

「おい、嘘だろ……」

 プチの仲間たちが騒然とし始めた。この酒場には俺以外漁師を名乗る男はいないので、必然俺以外の男全員が騒ぎ出したことになる。

「あれっ、えええ……」

 転がされたクソガキみたいな声を出して、プチが倒れた。当たり前だが腕も倒れる。俺の勝ち。さて、十スランだ。

「インチキだ!」

 野次が飛ぶ。俺はプチのいた方を示す。

「やるか?」

 黙る。まぁ、口だけなら誰でも。

 どしん、と樽が叩かれる。

「十スランだ。持っていけ」

 俺はにやりとプチを見る。意外と負けっぷりはいいんだな。

「男に二言はねぇ」

 俺はあいつの首から下がったシュトラツブールの月を見た。ま、あいつもバランの紳士ってことだ。子供の掌くらいの大きさの、頂角の鋭い三角形をした牙。内側に湾曲していて、縁が鋭いからナイフの代わりに使う市民も多い。ものを刻むのには向かないが、封筒を破いたり、指で触るのは危なさそうなものを触ったり、そういうのに使う。プチみたいに首から下げてる奴もいれば、俺みたいにポケットにしまってる者も、腰からぶら下げたり、腕輪にしたりしている人もいる。

「まいどあり」

 俺は樽の前を退くと、フライを手に突っ立っているデブに「何ぼさっとしてんだ。食え」と樽を示した。デブはおずおずと樽の上にフライの乗った皿を置いて、食べ始める。この店のフライは油が濃いからあんまり好きじゃないんだ。女将には悪いがな。

 元の席に戻って、俺は酒を呷る。普段なら、こんなことしないのにな。プチからもらった十スランを見て、ふと自嘲する。俺があんな下らない勝負に乗った理由は他でもない、アドリーヌだ。


 恋、なんて言うと臭いか。

 より正確に言うなら、俺はあの女に、俺以上に幸せになってほしいと願っていた。いつからそう思っていたかは思い出せない。だが覚えている光景がある。

 その日はフラフラだった。多分ほとんど死にかけていたと思う。体に溜まった毒を薄める必要があった。俺が仕事を終えた場所から、水が飲めるような場所はこの酒場以外になかった。酒を飲む余裕はなかったが、店主にこの顔を見せれば水の一杯くらいくれるだろうとおぼつかない足取りで店に向かった。そこでアドリーヌと出くわした。

 俺の顔を見るなり彼女の顔色が変わった。彼女はすぐさま女将を呼んできた。店主じゃなくて、気の利く女将だ。

「水、水を……! 塩も少し溶かして!」

「塩水だね? お待ち!」

「桶五杯分! それでも足りないかもしれない! あと、漏斗を……!」

 おいおい、馬じゃねぇんだからそんなに飲まねぇよ……とは言えないほど、俺は弱っていた。

「今からすごい量を飲ませます。気持ち悪くなったらその時点で全部吐いてください。女将さん、彼の体を押さえて」

 彼女の言葉は嘘じゃなかった。漏斗を俺の口に突っ込むと無理矢理桶の水を全部飲ませた。当然、限界が来て吐いた。それを何度も繰り返した。

 店の前が俺の吐瀉物でまみれた頃、俺の頭も大分さっぱりしてきた。ようやく持ち上げられた頭で、彼女の顔を見た。心配そうな顔をしていた。

「あんた、どこでこんな知識を……」

 俺の問いに彼女が答えた。

「父が医者なんです。大嫌いな父でしたが」

「ああ、なるほど」

 俺は女将の方に向かって手を振った。

「店の前の掃除はする……ありがとうよ、女将さん」

 そういうわけで。

 アドリーヌ。彼女は童顔の花屋で、このしけた酒場にやってくる意味の分からない女で、そして俺の命の恩人だった。

 最高の皮肉だ。普段人の命を奪う仕事をしている俺が、か弱い女に、命を助けられたのだから。


 彼女に命を助けられたあの日、俺は五人の政府要人の暗殺を命じられていた。

 うち三人は訳なかった。警戒心なんてリスの尾の毛先ほども持ち合わせてない馬鹿しかいなかったから三人とも無防備に同じ馬車に乗っていた。まぁ、車の構造を考えれば、長い棒で二突きすれば事足りそうだな。俺はそうした。馭者は俺だから殺す必要はない。

 だが残りの二人が問題だった。

 元軍人の政府関係者だった。それも諜報活動を中心にしていた人間だ。つまり俺の存在に勘づいた。不意打ちを仕掛けたつもりが、逆に誘い込まれ、二人に挟まれる形になってしまった。

 俺も仕事人だ。不測の事態には慣れてる。瞬きし終わるのより先にどっちが相対的に弱いかを把握し、先に弱い奴を潰し、そして残った強い奴に取り掛かることにした。そういう算段で動いた。

 実際殺し自体は、不測の事態はあったとはいえすぐに済んだ。だが問題はその後だ。依頼主から報酬を受け取る時。彼は受け渡しの場所に都心のレストランを選んだ。俺はおめかししてそこに行き、報酬をもらって軽く食事をした。仕事終わりの一杯だと思って、ワインを少しだけ飲んだ。

 異変に気付いたのは、依頼主と別れてしばらくしてからだ。まず視界に黒い染みが出来た。次に平衡感覚がやられ、そして足がもたつき始め、関節に力が入らなくなり……やっとのことで酒場の前に行きついた。それからはさっき話した通り。

 依頼主は俺を殺して全てなかったことにしようとしたのだ。俺が甘かった。常連だから、と気が緩んでいた。

 そういうわけでアドリーヌの手によって胃の洗浄を受けた俺は一命をとりとめ、俺に毒を盛った愚かな依頼主の寝室にお礼のご挨拶に行くまでが、俺の小さな恋物語。ほとんどアドリーヌは出てこないじゃないかって? 想像してくれれば分かると思うんだが、死にかけてる時に手を差し伸べてくれる人間って神様みたいに見えるだろ? 俺にとってアドリーヌは女神だったんだよ。


 つまり、俺はアドリーヌの前でかっこつけたくてプチからの勝負を受けた。筋肉を見せなくても技巧を見せればなびく女はいるかもしれない。まぁ、腕相撲の技巧を見せたところで何だという話はあるのだが。少なくとも俺に自信はつく。

「勘定」

 店主に五スランを渡す。去り際、何となくアドリーヌの方を見る。彼女は女将と何やら楽しそうに話していた。が、一瞬、こっちを見る。目が合う。ほんの僅かの間。期待する。何に、というわけではないが。

 しかしすぐに彼女の目は逸らされる。俺はため息をついてその場を去る。


 仕事の依頼は基本的に伝書鳩でしか受けていなかった。俺の居場所を知る伝書鳩はバラン国に四羽しかいない。内三羽は今、俺の家で羽を休めている。つまり残る一羽からしか依頼は来ないのだが……家に帰ってみると、その一羽が窓辺にいた。俺は鳩の脚から依頼書の入った筒をとった。

 俺に依頼をする時の条件は二つ。

 ひとつ、顔の分かるものを依頼書に添付すること。絵でもいい、人相書きでもいい。何でもいいから目標を特定する方法を提示すること。

 ふたつ、前払いで報酬の一部を寄越すこと。俺は良心的だから報酬の三割、前払いしてくれれば仕事は受ける。

 そういうわけで、鳩の脚には丸められた手形が一枚、百スランと書かれていた。そして依頼書が一枚。どうやら絵だった。

 月明かりの下、俺はその絵を見る。

 夜風は冷たい。俺は凍り付く。

 それはアドリーヌの、絵だった。

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