第61話 僕だけの和水さん⑥


 教室中にざわめきが広がっていた。


 クラスメイト達が驚きの声を上げて慌てふためていている。


 その光景は何も知らない人が見れば、ただ返事が返ってきただけで大げさな、と思う事だろう。


 けれどそんな反応もこのクラスの人間なら当然なのかもしれない。


 クラスメイト達は皆、このクラスが始動してから何度となく和水さんに撃退される人達を見て来た。


 和水さんが苛烈なほどに人を寄せ付けない事をよく知っているわけだ。


 そして今回声をかけたのは、目立たずなんの取り柄もない存在の僕。


 しかも僕は身の程をわきまえず、無遠慮に馴れ馴れしく和水さんに近づいた。


 だからこそ皆は、今回も和水さんがキレて追い返すだろうと、そう思って疑いもしていなかったのだろう。


 けれど、その結果がこうだ。


 僕は和水さんから拒絶される事なく、誰も見た事がないような穏やかな顔で返事をしてもらった。


 クラスメイト達が混乱してしまうのも仕方ないと思う。


 そして、僕の後ろでニヤニヤとしていた連中はそれこそ大盛り上がりだった。


 目論見が上手くいった彼らの小さな歓声が聞こえてくる。


 きっと彼らはもう和水さんと仲良くなったと思っているのだろう。


 そんな彼らとは反対に、僕は少し呆然としていた。


 わざと和水さんに嫌われるために、あんなにも不躾な態度をとったのにどうして和水さんは僕を拒絶しなかったのだろうか。


 目の前にいる和水さんからはまったく不機嫌さを感じない。


 なんで……。


 どうして和水さんは、僕だけにこんなにも優しいのだろう……。


「あの! 初めまして! 俺たち真面目君の友達で、隣のクラスの――」


 僕が何も言えないでいると、またピッチャーさんが肩を組んできて、そのまま和水さんに声をかけていた。


 その様子を見るに浮かれきっているのだろう。興奮しているらしい彼はものすごく早口だ。


 今はこうして仲良しアピールをしているけれど、どうせ実際にお昼を囲んだ時、僕はのけ者にされるだろう。


 積極的なこいつらに押されて、もしかしたら和水さんも仲良くなってしまうかもしれない。


 僕だけに見せてくれていた笑顔を、他の男にも見せている和水さん。


 そんな姿を想像して僕は、僕は……。



「……あの、和水さん」

「ん? 何?」

「その…………やっぱりお昼は僕と二人だけで食べませんか、なんて、あはは」


 気持ち悪い独占欲を我慢できなくなった僕は、思わずそんな事を口にしていた。


 口を突いて出た言葉に、自分でも少し驚く。


 けれど、僕以上に慌てていたのは肩を組んでいたピッチャーさんだった。


「おぉい、何を寝ぼけてるんだよ真面目君よぉ、俺たち全員と和水さんで昼飯だろ、大事なところだから間違えんなよ、な?」


 和水さんに背を向けて、僕だけに怒りの表情を見せつけて来る。


 後ろからも他の連中の殺気を感じた。


 それでも、


「……間違えてない」

「あぁ?」


 僕はもう我慢できなかった。


「ぼ、僕は! 本当はお前たちと一緒にお昼なんて食べたくないんだ!」


 今度こそはっきりと言い切った。


 もう後戻りはできないし、するつもりもない。


 僕は誰にも和水さんを渡したくはないという本心に従う事にした。


 喩えその結果、自分がどうなろうとかまわない。


 後からぼこぼこにされるかもしれない。


 いつもなら、痛いのは嫌だと逃げていた。


 けれど、今はもうそれでもいいと思えた。


 それくらい、僕は和水さんを誰にも渡したくなかったのだ。


「て、てめぇ、また鼻血出したいらしいな」

「鼻血くらい出してもいいんだ! 和水さんだって絶対君たちとお昼なんて食べたくないはずだよ!」

「こ、この野郎、言わせておけば!」


 連中の怒気が膨れ上がる。


 ここまで来たら、もう僕には何もできる事はない。


 言いたい事は言った。もう悔いはない。


 僕は歯を食いしばって目を閉じた。


 その時だった、



「じゃ、早く食べにいこうよ直」


 険悪な空気の中、まるでそんな事を気にも留めていないような声が響いた。


 その場違いな程に落ち着いている声色に、怒りに満ちていた全員が呆気に取られて動きを止める。


 声の主は、和水さんだ。


 僕が目を開けると、穏やかな表情の和水さんがゆっくりと近づいてくる姿が見えた。


 一切の躊躇なく近づいてくる和水さん。


 まるで目の前のやり取りが見えていないかのようだ。


 いや、実際にその瞳には、僕の姿しか映っていないように見えた。


 なんとなく迫力すら感じるその姿に、隣のクラスの連中も何も言えないらしく、全員が僕と一緒に固まっている。


 和水さんはそんな連中には目もくれず、遂には僕の目の前までやってきた。


「どうしたの直? 早く行こ」

「ぇ、いや、でも、この人たちは?」

「え? あぁ、もちろん直だけしかいらないけど?」


 不意に手を引かれ、唖然としていた僕は無様に倒れ込んだ。


 倒れ込んだ先は和水さんの柔らかい胸。


 豊満な谷間に顔を埋めた僕は、そのまま和水さんに優しく抱きしめてもらえた。


 大胆な行動を見せつけられた隣のクラスの連中。


 彼らが動揺しているのは、見えなくても聞こえてくる声で理解できた。


「あ、あの! オレたちも一緒に!」

「は? 直だけでいいから、あんたらなんていらないっての」

「そんな!? なんでそんな奴、俺たちの方が絶対に――」

「黙りなよ。直を馬鹿にすんなカスども」


 和水さんの怒りのこもった声に連中が凍り付く。


 それでも和水さんは勢いを緩めるつもりはないらしい。


「そこのあんた!」


 指されたピッチャーさんが、和水さんの鋭い声を聞いて可哀そうな程に震えていた。


「女の子とキスしたことないでしょ?」

「ぇ、な、なんでそんな事」

「お前口臭いんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、彼は膝から崩れ落ちた。


「んで? キスした事あるの?」

「そ、それは……」

「はっきり言いなよ。もしいるなら相手の子連れて来て。絶対口臭いと思ってたから証言してもらうからさ、ほら、いるなら早く連れて来なよ」


 もはや彼は砂になって風化してしまいそうだった。


 あまりに苛烈な言葉を聞いて、他の連中も及び腰になる。


 それでもどうしても諦めきれなかったらしい、

 

「でも、そんな男らしくない奴なんかより……」


 そんな負け惜しみ感たっぷりのセリフが、連中の最後の言葉になった。



「何言ってんのあんた? 直のあそこ、見たことある? 私はあるけど、すっごいおっきくて男らしいんだよ、アハッ!」


 笑う和水さんにきつく抱きしめられる。


 左右の頬にオッパイの柔らかさを感じてトリップしそうになった。


 そして一瞬の思考停止ののち、僕は和水さんがとんでもない事を言っている事に気が付いた。


「ちょ!? ちょっと和水さん何言ってるんですか!?」

「なにって、直のあそこの大きさの話を」

「分かってますよ! ていうか適当な事言わないでくださいよ!」

「適当じゃないよ。一緒にお風呂入ったじゃん」

「……は!?」

「あの時、服を着せてあげたのは誰だったっけ?」


 そうだった。


 昨日和水さんとお風呂に入り、途中で気絶した僕は、気が付けば服を着ていた。


 あの時は深く考えていなかったけれど、和水さんが着せてくれたなら当然僕の大事なところは完全に見られている。


 そして、あの時僕のあそこはあまりの気持ちよさに反応していたはず……。


「昨日の直、すっごく逞しかったよ」


 艶っぽい声色で囁く和水さんに頬ずりをされ、僕はもう完全に放心していた。


 飛びかけた意識のすみで、隣のクラスの連中が泣きながら帰って行く姿が見える。


 当然だろう。自分たちが眼中にないという事をまざまざと見せつけられたのだから。


 その哀愁漂う後ろ姿から、彼らがもうしばらくは立ち直れないだろう事は理解できた。


 まぁ自業自得だ。和水さんに手を出すとこうなるのだ。


 そして僕も、もうお終いかもしれない。


 僕は今、クラス中から恨みがましい視線を感じていた。


 今まではただ目立たなかった僕は、これからは嫌な意味で注目を集める事になるかもしれない。


「あの、ただ見ただけですよね?」

「ん〜、直の想像にお任せしておこうかな」

「ちょっ、和水さん! はぐらかさないでくださいよ!」

「ふふっ、それより早くお昼行こ」


 和水さんの胸に埋もれたまま、僕はこれからの学校生活が平穏に過ごせるよう、心から祈りをささげただった。

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