第19話 根拠⑤ 傷の手当をしてくれる和水さん②


「おいレミ、お前悪い女だな?」

「え~先輩酷い! なんでそんな事言うんですか?」

「仕事全部押し付けたら真面目君が可哀そうだろ?」

「押し付けてませんよ! 馬締君はぁいつもレミのために快く引き受けてくれるんですぅ」

「そうかい、それにしても……ぷふっ、ダメだぁ真面目君って面白すぎるだろ、今度クラスの奴らにも教えねぇとな」


 廊下からはしばらくそんな感じの二人の会話が続いていて、僕は立ち尽くしたまま聞こえてくる会話をただ聞いていた。


 目をつぶって、心の中で自分はけして都合よく仕事を押し付けられたわけじゃないと、必死になって言い聞かせる。


 だって仕方ないことだった。伊刈さんは本当は最後まで一緒に作業をしてくれるつもりだったはずだ。


 なのに先輩が迎えに来たから仕方なく僕に残りをお願いしたわけで、伊刈さんは悪くない。


 先輩との用事があるなら、後輩はそれを優先するのが当然だから伊刈さんの行動は正しいものだ。


 だから僕は仕事を押し付けられたわけじゃなく、困った伊刈さんに頼られたわけだ。そう、いつものことだ。


 伊刈さんは困った時、真っ先に僕を頼ってくれる。それは僕が頼りになると思ってくれているからで、けして僕は都合よく使われているわけじゃない。


 伊刈さんはいつも言ってくれている「馬締君は頼りになるなぁ」と、そう言ってくれている。


 伊刈さんはいい人だ。僕みたいな非モテの童貞にもいつも気さくに声をかけてくれるし、私物だって触らせてくれる。それに僕を頼ってくれる。


 伊刈さんはいい人。


 伊刈さんはいい人。


 伊刈さんはいい人。


「……よし」


 僕はやっと目を開けることが出来た。


 童貞のメンタルは弱い。ちょっとしたことですぐに傷つきそうになるまさにガラスのハートだ。


 危なく伊刈さんのような優しい人まで疑ってしまいそうになったけれど、もう大丈夫だ。


 僕はこれまで通り、優しい伊刈さんのために力になる。差し当たってまずは、今残っている書類の作成だ。


 見知らぬ先輩の乱入によって、思わぬ衝撃を心に受けてしまったけれど、もう大丈夫だ。


 そう気合を入れて目を開けたわけだけど、何故だろう、僕が目を開けてみた光景は、それはそれは奇妙なものだった。


 すぐ目の前に大きな胸が見える。


 というか、胸が大きすぎて、僕の視界には胸しか見えていない。


「なにしてるの?」


 プルンッと揺れた胸が喋った。


「わぁ、すごい」

「……何が?」


 胸が喋ったというのはまぁ冗談で、けれど目の前で特大の胸が揺れる様は壮観だった。


 僕くらいのレベルになると、胸しか見えなくてもその持ち主が誰かはすぐに分かる。


 これも日頃からの訓練のたまものだ。自慢ではないけれど、それくらい僕は常日頃胸ばかり見ている。


 揺れる胸を見て瞬時に目が反応するのは、男としてのレベルが高くないと簡単にできることじゃない――



 ――嘘だ。


 ただ僕が童貞でスケベなだけで、胸の大きい人をつい目で追いかけてしまうだけの変態だからだ。


「本当に申し訳ございません」


 僕は目の前にある大きな胸に向かって頭を下げた。


「だから何してるの?」

「あ、はい、すみません」


 上を見上げれば胸の持ち主の顔が見える。持ち主は和水さんだった。


 もちろん僕は胸を見ただけで和水さんだと分かっていた。


 こんなに大きな胸をしている人はクラスには和水さん一人だ。それだけは自信を持って宣言できる。命をかけたっていい。


 僕の分析ではクラスで二番目に胸が大きい女の子でさえ、和水さんと比べれば明らかに小ぶりだからだ。



 普段は無口で人を寄せ付けない孤高のギャル。そんな和水さんがいつの間にか僕の目の前にいて、今日もまた声をかけてくれていた。


 最近、和水さんは不意に僕の前に現れる。まさに神出鬼没だ。


 ある時は掃除を手伝ってくれ、またある時は危ないところを助けてくれた。


 僕が一人でいるとどこからともなく現れる和水さん。


 今日も少し前までこの教室にはいなかったはずだ。


 伊刈さんたちが帰ってから、この教室にいたのは確かに僕だけだった。


 それから僕が目をつぶっていた数分の間に、和水さんはどこからかやって来たことになる。


「別にたまたま教室に戻ってきただけだし」

「和水さん、僕まだ何も聞いてません」


 考えていたことを先読みされても困る。和水さんはエスパーかもしれない。


「それより、何してたのか聞いてるんだけど?」


 強引な方向転換のような気もしたけれど、それには素直にのっておくことにした。何故なら僕はジェントルマンだから、女の子のプライベートを細かく聞くなんて野暮なことはしないからだ。


「えっと、書類作成をしてました。近々会議で使うらしくて」

「一人で?」

「今はそうですね。さっきまでは伊刈さんがいたんですけど」

「あのチビ何で帰っていったの?」

「あ、見てたんですか?」

「……見てない」

「え、でも今」

「いないから帰ったと思っただけだし、それで、何で帰ったの?」

「そ、そうですか。えっと、伊刈さんは先輩? らしき男の人と用事があるそうで」

「……クソビッチ〇ね」

「ひぇ」


 やっぱり和水さんは伊刈さんの話しをすると般若のような顔になる。


 正直和水さんの前では伊刈さんの話しはしたくなかった。


「で、まだやる事残ってるわけ?」

「えっと、この書類をページ順に重ねて、まとめて全部冊子にすれば終わりです」

「ふ~ん、結構な量あるじゃん」

「まぁ、それでもいつかは終わりますから」


 そう、いつかは終わる。


 伊刈さんと二人でやった方が早いのは確実だけど一人でやっても時間をかければ終わることに変わりはない。


 非モテで陰キャの僕には放課後に予定なんてないし、伊刈さんのために時間を使えるならむしろ有意義なくらいだ。


 なんて考えながら僕はチラリと和水さんを見る。


 ばっちりと目があった。

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