第13話 後日の伊刈さん


「あれ、全部あってる」

「へ?」


それは数学の授業前の休み時間のことだった。


 自分のノートを広げて少し呆気にとられたような声を上げたのは、僕の前の席の小柄なギャル、伊刈レミさんだ。


「ねぇねぇ馬締君、全部あってるよこれ」


僕に数学のノートを広げて見せて来る伊刈さんの表情はいつものにこやかなものではなく、目を見開いて驚きを露わにしているものだった。


 昨日僕は、重要な予定で家に帰れず、宿題をする暇がない伊刈さんの代わりに彼女の分の宿題を引き受けていた。


 他人が宿題をやるのは本人のためにも良くはないことだと思うけれど、今回の場合は事情が事情だから仕方ないと思う。


 伊刈さんの予定は一か月も前から入っていたらしい重要なもの。


 しかも一晩中忙しいくらいのハードな用事で、とても宿題をする暇なんてない。


 そんな仕方ない状況でも、宿題をしてこなければ担任の先生は容赦なく倍の量の宿題を出してくるだろう。


 そうなってしまったら一晩寝れずに頑張った伊刈さんがあまりにも不憫だ。


 それに伊刈さんは、僕のような童貞男子にも優しく声をかけてくれるような聖女。


 力になりたいと僕が思うのは当然のことで、昨日の放課後は精一杯頑張ったのだ。


 遅くまで残ってやった甲斐はあったみたいで、間違いなく全問正解しているはずだ。


 どうして伊刈さんがそんなに驚いているのかは分からないけれど、とにかく僕は安心した。


「当たってるみたいでよかったです。というか伊刈さんすごいですね。ぱっと見ただけですぐ分かるんですか?」

「だってこんな問題簡単だから、それより馬締君って数学苦手じゃなかったの?」

「あ、はい、数学は一番苦手ですね……あれ、伊刈さん僕が数学苦手なの知ってたんですか?」

「うん、それはどうでもいいんだけど、苦手なのにどうして? 全問正解してるよ」

「あはは、なんとか頑張りました。ホントよかったです。はは」


僕の質問は華麗に流されてしまったけれど、とりあえず曖昧に笑っておく。


 決して見栄を張っているわけではなく、僕も伊刈さんの疑問には正直に答えられないわけがあった。


 数学が致命的に苦手な僕がどうして大量にある宿題を全て正解できたかというと、それはひとえに和水さんのおかげだった。


 普段は無口でクールで他人を寄せ付けない和水さんが、昨日も何故か僕に話しかけてくれて、苦戦していた僕に解き方を教えてくれた。


 自力では一つも正解できなかったけれど、一問一問丁寧に教えてくれた和水さんのおかげで僕はなんとか宿題を全てやり遂げたのだ。


 伊刈さんは簡単だと言っていたけれど、僕にとっては超絶難しい問題でとても一人では解けるようなレベルではなかった。


 和水さんがいなかったら全問不正解になっていてもおかしくはなかったと思う。そうなっていたら、僕は今日朝一で伊刈さんに土下座をしていたことだろう。


 だから全問正解しているのは和水さんのおかげで、僕もそれはちゃんと分かってる。


 けれどそのことを黙っているのは、別に伊刈さんにカッコつけようとしているわけではない。


 和水さんから、伊刈さんには協力したことを言うなと止められているからだ。


 なんで和水さんがそんなことを言ったのかは分からないけれど、それが宿題を教えてもらうための条件だった。


 だから僕は、こうして伊刈さんには宿題を一人でやったことにしているわけだ。


「ふ~ん……よくできたね」

「へ、あ、はい」


なんとなく僕を見つめてくる伊刈さんがいつとは少し違う気がした。


 単なる気のせいかもしれないけれど、細められた伊刈さんの視線を浴びていると、なんだか疑われているような気がしてくる。


「本当に馬締君が一人でやったの?」

「はい、そうですよ」

「本当に? 嘘じゃない?」

「えっと、はい」


気のせいではないかもしれない。僕はかなり疑われているらしい。


 ただ、どうして伊刈さんはそんなことを気にしているのだろう。別に宿題を問題なく終わらせていて、しかも全問正解していればそれでいいような気がした。


 例え僕が誰かと協力していたとしても、伊刈さんには何も問題はないはずなのだ。


 なのに伊刈さんは、僕が誰かと一緒に宿題をしたのではと気にしている。


 どうしてここまで疑われるほど気にしているのかは分からないけれど、僕にも和水さんとの約束があるから素直に答えるわけにもいかなかった。


 その時、伊刈さんが不意に立ち上がって僕の後ろに回り込んできた。


「ねぇ、馬締く~ん?」

「ひ、ひゃい!」


何が起きたかといえば、昨日の和水さんと同じだ。


 今僕は、伊刈さんに後ろから抱き着かれていた。


 背中にほんのりとした温かさを感じ、香水なのか分からないけれど、伊刈さんの身体からするいい香りに包まれて脳がフワフワとしてくる。


「ねぇ、正直に教えて欲しいなぁ。馬締君は、本当に一人でこれをやったのかなぁ?」


耳の穴に直接話しかけられたような感覚。


 なまめかしい伊刈さんの声に、僕の身体は情けないくらいに震えてしまう。


 うまく思考することができなくなって、僕は聞かれるがままに伊刈さんの問いかけに答えてしまいそうになった。



「……あれ?」


けれど、幸いなことに僕は理性を取り戻すことができた。


 昨日和水さんに抱き着かれた時に感じていたあの感触を思い出した時、僕はその違いに気が付いてしまったのだ。


 何かが物足りない。


 圧倒的に不足している。


 だって、背中に当たっているものが固いのだ!


 そう、重さと柔らかさがまったく足りない!


「……あの、本当に一人でやりました。その代わりすごく時間かかっちゃいましたけど、はは」


伊刈さんは何も言わない。沈黙が続いて、僕は冷や汗が出そうになった。



「……そっか、頑張ってくれたんだね。本当にありがとう馬締君!」

「は、はい!」


結局は信じてくれたのか、伊刈さんは僕の頭を撫でてから自分の席に戻っていった。


 僕は最後の最後で理性を取り戻すことが出来たけれど、本当に危ないところだった。


 伊刈さんの胸が、あの固さが、僕を現実に引き戻してくれた。


 和水さんの胸と比べてすごく固かったのだ。


 危なく和水さんとの約束を破ってしまうところだったけれど、結果的には事なきを得た。


 安堵してホッと胸をなでおろす。


 それから僕はどうして伊刈さんがあんなに気にしていたのかを考えてみた。


 けれど童貞の僕が女の子の気持ちを推測できるはずもなく、いくら考えてみても分かることなんて一つもなかった。

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