第11話 クロユリ -狂おしい恋-

 小学3年の頃、僕は彼と出会った。

 とは言ってもそれは一方的で、僕の勝手な思い込みで、彼には認識すらもされていないだろう。

 しかしそれは仕方のない事なんだ。

 だって彼とは別クラスだし、僕は何の魅力も印象も無い、かくれんぼをしたらいつまで経っても見つけられないようなくらいに暗くて薄い、すぐに忘れられる存在だから。


 初めて人に恋をした…という訳ではない。

 実は過去にも何度か人に対して好きだ、と思った事があった。

 でもその度に勝手に傷ついて、その傷を埋める為に誰かを好きになっていた。

 そうして自分の心をコントロールしている内に“好き”という感情がわからなくなってしまっていたが、彼との出会いは僕にその感情を取り戻させた。


 彼と出会って一目惚れをしてから、僕は彼の事を目で追う事が日課になっていた。

 とは言っても、彼とすれ違えるのは本当に稀で、すれ違えた日、彼を自分の瞳に映せた日は、心の中で喜んでいた。


 そんな彼と間接的に関われた気になれて夢心地になっていても、すぐに現実に引き戻される。

 親は常に口喧嘩…いつ離婚してもおかしくない家庭環境で、たまにその場にいただけの僕は飛び火をくらう。

 学校はうるさくて、耳障り。たまに変な女子達に絡まれる。無視しても反応しても胸ぐらを掴まれて笑われ、酷い時は殴られる。

 それによって出来た頬の痣は、先生にも他の生徒にも…親にも気付いてもらえなかった。


 そんな生き地獄を生きる中、見るだけで、すれ違っただけで夢心地になれる彼は僕にとって麻薬だった。

 それ故に嫌な事があったら彼を血眼で探した。その時の僕の顔は、麻薬中毒者と同じだったと思う。


 しかしここまで好きな彼に、僕は自分から話しかけたりはしなかった。

 その後も同じクラスになる事が無くて関われる機会がゼロに等しかったのと、突然名前も知らない陰気な女に話しかけられたらきっと彼は僕を嫌って避けてしまうだろう。

 だから怖くて話しかけられなかった。

 …まぁ、彼に罵倒されるのもそれはそれで良いかもしれない。彼と会話できたという事だし、下手をしたら歪んだ性癖に目覚めてしまうかも。


 結局、彼と話す事も無く僕は中学生になった。

 中学生になると、彼を学校で見る事は無くなってしまった。

 どうやら彼はこの中学校に入学していないらしく、僕は絶望した。

 彼のいない学校生活は、僕にとって地獄であり、禁断症状まで出た程だった。

 実際は禁断症状ではなく、ストレスによるものだった。


 そんな、頭痛や眩暈、寝不足等で毎日絶不調の僕に、更に追い討ちを掛けるような事が起きた。


 それは中学2年の冬、空からは雪が降り注ぎ、より一層寒い日だった。

 ザッ、ザッ、と積もった雪を踏む音を立てながら白い息を吐いて独り家に帰っていると。


「雪だー!オラァ!!」

「痛ぇっ!お前めっちゃギュッてやって固めた奴投げただろ!」

「あー!私もやり返しー!死ねぇ!」

「女の子が死ねとか言…ブフォァ!」

「ヘッドショット!」

「まだだ!たかがメインカメラをやられただけだしん!」

「お前人間だろ」


 僕と同い年くらいの男子2人と女子1人が雪合戦を楽しそうにしていた。

 中学2年生が雪合戦なんて…と思っていたが、その男女の中に、彼が居たのだ。


 ああ…彼もあんな顔するんだ。


 その時の彼の姿を見て、そう思った。

 小学で彼を目で追っていた時は、ずっと無表情か怒っているような顔ばかりしていて、僕と同じくずっと一人だったから。

 今遊んでいる友達は僕が知らないだけで小学の時からの仲なのか、それとも中学で知り合った仲なのかはわからなかったけど、私の知らない彼の姿をあの男女二人は知っていると思うと、少し嫉妬してしまう。

 でも、仕方ないのだ。

 僕は可愛くもなければ、あんな風に笑う事も出来ないのだから。


「…嘘」


 僕は驚いた。

 彼と仲良さそうに遊んでいる女子が、僕とそっくりだったのだ。

 その瞬間、目の前の光景が嫌になってその場から逃げ出してしまう。


 確かに僕は彼に話しかけた事は無かった。

 だから友達でもなければ仲良しでもないし、そもそも彼が僕の存在を認識してるのかすらあやふやだ。


 じゃあ僕でも良いじゃないか…!


 僕と同じ顔の女が彼と仲良くしているのはとても不快だった。

 男は女を顔で見る、故に性格は二の次という事を僕は知っていた。

 こんな可愛くないし性格も内気な僕なんて恋人どころか仲良くもなれない、だから話しかけられなかった。

 可愛くないから自分に話しかけられない、可愛くないから自分に自信が持てなくて彼に話しかけられない。可愛くないから見向きもされない。

 そう思って半ば諦めて、遠くから独りの彼を見つめてきたのに。


 同じ顔なのに、どうしてこんなにも違う?

 僕と顔がそっくりなあの女は彼と楽しそうで、あの女と顔がそっくりな僕は今もなお独り。


 何で?


 顔さえ良ければ性格なんてどうでもいいんじゃないのか。

 性格が良くても顔がダメならアウトなくせに…!

 僕とあの女は顔が同じなのに、どうして僕は彼と一緒に笑えなくて、あの女は彼と笑っていられるんだ!

 性格は…二の次…というか、どうでもいいんじゃないの…?


 どうして僕じゃないんだ…。



 また僕は勝手に傷ついた。

 頭を冷やしてよく考えれば、そうだ。

 どんなに同じ顔だったとしても、明るい性格の人と暗い性格の人、どちらを選ぶかと言われれば当然明るい性格の人だろう。

 あの女は見る感じ性格は明るそうで関わったら楽しいだろうな、と思うし、僕の場合仮に友達になれたとしても、何も話題が思いつかないし多分つまらない女だ、と思われておしまいだ。

 枕に顔を埋めていると、両親に呼ばれて僕は無表情で起き上がってリビングへと向かう。

 道中、両親の言い争う怒声が聞こえてくる。


 ああ…誰か助けて。



 それから中学3年生になって、受験生として勉強に励まなければいけない時期になった。

 あの日以来、僕は全てにおいてやる気を失ってしまい、生きる屍のようになっていた。

 

 ああ…彼は今あの僕と同じ顔の女と楽しそうに勉強やらしているんだろうな。

 

 そんな事しか考えられなかった。

 当然、こんな状態で受験勉強なんて捗らず、成績は徐々に落ちていった。

 

 心には後悔しか無かった。

 小学の頃から性格も重要だと気付けていたら…と。

 もしあの時、彼に話しかけていたら、今のあの女の場所…彼の隣には僕がいたんだろうか。

 そんなくだらない、過ぎた事を考える。


 それから意味のない日々が過ぎていく。

 その日々の間にも、何度か彼とあの女とすれ違う。

 たまに、理由もなくストーカーして、会話を盗み聞きする事もあった。

 せめて、あの女がどういう関係なのか、そして彼とあの女の名前が何なのか知りたかった。


 彼の名前はハルカ。

 彼は男なのに、女の子みたいな名前だ、と思った。

 多分漢字は春香では無さそうだ。

 小学の時、せめて名札だけでも見ておけば良かった。


 女の名前はナギハ。

 漢字は多分“凪葉”だろうな、と勝手に思い込んだ。

 僕と同じ顔のくせに、ハルカと慣れ親しんでいるのが憎たらしい。


 そしてハルカ君と凪葉は、恋人同士。

 僕と同じ顔でも、性格の違いでそこまでの関係までいけるのか。


 そんな情報を得るのに、数ヶ月は掛かった。

 だって、凪葉はまだしも、ハルカ君は凪葉の事を名前で呼ばないんだ。いつも“お前”なんだもん。

 更に恋人かどうかなんてのもそういう匂わせはあったものの、決定的な証拠が無かった。

 かなり後に凪葉が“私ってハルカの彼女だよね!?”みたいな事を言っていてそれに対してハルカ君が否定をしなかった事で、この二人は恋人同士だと確定した。


 そんな事をしているうちに気がつくと受験シーズンは終わっていた。

 そして今日は合格安否の日だった。

 

 僕の成績はあまり良くなかった為、ギリギリではあったがなんだかんだで合格していた。

 しかし、合格安否表の場所にあの二人は…ハルカ君は居なかった。

 という事は、僕の入学する高校にハルカ君は来ないという事だ。


 受かったのにため息を吐きながら帰る道中、何やら楽しそうに会話をするハルカ君と凪葉が目の前を通り過ぎていった。

 あの様子だと、恐らく二人とも受かっているのだろうか。

 僕はいつものようにストーカー行為をしようとした、その時だった。


「…あ」


 トラックが、物凄い速度であの二人に向かってきている事に気付いた。

 助けないと、そう思った時はもう遅かった。

 大きな衝突音が響き渡った。

 どうやら、轢かれたのはハルカ君ではなく、凪葉のようだった。

 その後、僕は救急車と警察に電話をかけ、事故現場の位置を知らせる。


「…あはっ」


 僕は、久々に笑った。

 人の死を笑うなんて不謹慎だと分かっていても、心の底から嬉しいという感情が湧き出てきて口角が吊り上がってしまう。

 

 凪葉が轢かれ、尻餅をついていたハルカ君はまるで、絶望しているような顔をしていた。

 多分、凪葉が死んだ事を悟って、心に深く傷を負ったのだろう。

 その後、警察と一緒にパトカーへ乗っていく様を見て、僕はその場を後にして、家に帰った。


「あははははは!!!!あはははははははは!!!!」


 家に帰り、家に誰も居ない事を確認すると、僕は堪えていた笑いを解放する。

 しかしこの笑いは、凪葉が死んだ事に対して笑っていたのではない。

 これから自分のする事が、楽しみで仕方なかったのだ。


「ハルカ君…彼女が居なくなって、辛いよね…心に深く傷がついただろうね…」


 僕は今まで嫌いだった自分の顔に触れる。


「君は昔、僕を助けてくれた…だから今度は、“凪葉と同じ顔の僕”が、君の心の傷を埋めてあげるね…?」


 凪葉が死んだ事によって、ハルカ君の隣は空席になっている。

 多分、本来ならこの席は誰も座る事ができない。

 でも唯一僕だけは座れる。だって、凪葉と同じ顔だから。

 僕はこの身で学習した。性格は大事だと。

 だからこれからの僕は、もう黒月優璃じゃなくて、“凪葉”だ。


 では、これからは演じ続けよう。


 僕ではなく凪葉を選んだのなら。

 僕と凪葉の違いが性格なのであれば。

 僕は僕自身を捨てて、凪葉と似た性格になれば、それはもう凪葉と同じだ。

 普通の人ならいきなり性格を変える事は難しいかもしれない。

 でも僕は自分の心をコントロールする事ができる。


 僕は凪葉。僕は凪葉。僕は凪葉。



 僕は凪葉なのに、どうして初めて会話して自己紹介した時に僕は自分を黒月優璃と名乗ってしまったんだろうか。

 苗字がわからないから?


 ううん、違う。

 多分、僕は自分の心をコントロールし切れていないんだ。

 だから、凪葉ではなく“僕自身を好きになってほしい”なんて欲望が邪魔してしまうんだ。

 ハルカに好かれる為に、もっと凪葉にならなければ。

 

 ああ、僕って一人称も変えないと。

 だって凪葉わたしは自分を私と呼んでいたから。


「真似てるだけじゃ代わりなんて…そもそも人の代わりを他人が務める事なんて無理なんだ」


 何を、言っているの。私は凪葉だよ?

 だって、凪葉しかハルカは見ていなかったじゃん。

 だから凪葉になったのに、ふざけないで。

 他人の代わりをするのが無理なんて、そんなのわかってる。

 でもこうでもしないとハルカ君は僕を見てくれなかったじゃん!!


「…じゃあハルカは私に凪葉としてじゃなくて、あくまで黒月優璃として接してほしいって事?」

「ま、まぁ…そうだな…」


 嘘つけ。

 私が黒月優璃の時は凪葉ばかりで僕には見向きもしなかったくせに。


「…せっかく、私がわざと生かしてあげたのに…」


 そうだ。あの事故の一部始終を見ていた私はハルカ達の生死を握っていたも同然。

 凪葉と一緒にハルカも巻き込ませる事だってできた。

 まぁ、その場合私も死んでしまうけど。


「は?」

「私より、黒月優璃を選ぶの…?」

「いや、優璃はお前だろ…」


 今更私を黒月優璃と認識しても遅い。

 だったら小学の時から認識してほしかった。

 というより、もう黒月優璃は居ない!

 今ここにいるのは、私は凪葉だ…!!


「私以外の女を選ぶなんて…許さない…」

「優璃…お前さっきから何を言って」

「ハルカぁ!!私を捨てないでよぉお!!」


 僕はナイフを取り出してハルカを殺そうとする。

 私は凪葉。私は凪葉。私は凪葉。

 黒月優璃は私じゃない。もう別人だ。


「お、おいマジかよ!?」

「ハルカはぁ、私のモノなんだからぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


 黒月優璃にハルカは渡さない。

 ハルカは私のモノ。ハルカの隣には私こそが相応しい…!


 その瞬間、目の前が真っ暗になった。

 後にわかった事だけど、ハルカ君の友達に気絶させられたらしい。

 しかしそれを知らない当時の私は、その暗闇がまるで牢獄に連れていかれたような気分だった。


 牢獄というのは、自分を見つめ直して今までの行いを反省する場所だと思っている。

 僕は恵まれているのかもしれない。

 どんなに悪い事をしても、どんなに辛い事があったとしても、それを見つめ直す時間を与えられる。

 

 僕はただハルカ君の隣に居たかったから、ハルカ君の心を埋め、ついでに僕の長年の欲求を満たす意味で、凪葉を演じた。

 その結果、ハルカ君に真実を突きつけられてしまった。

 僕は凪葉になれない。

 でもそれだけではない。

 ハルカ君に問いかけた時、ハルカ君は凪葉わたしではなく優璃ボクを選んでくれた。

 

 あの時の僕は自身を凪葉だと思い込んでいて、自分でもわかる程狂っていた。

 もはやあそこに自分の意思はなかった。

 優璃じぶんがそうしたい、ではなく凪葉だったらどうするだろう、という事ばかりだった。


 でも、心の奥底…自分でも自覚出来ていなかったけれど、多分嬉しかった。

 

「…うん、嬉しい」


 今更僕を認識しても遅い、なんて言ってしまったけど、逆を言えば“ようやく僕を黒月優璃として見てくれた”という事だ。

 …皮肉だ。

 僕を見て欲しかったから凪葉を演じて今までの優璃じぶんを捨てたのに。


 ペットショップに売っている猫よりも、捨てられている猫の方が“可哀想だ、助けてあげよう”と思うのと同じか。


「僕は…バカだ」



「う、うぅ…」


 目を覚ますと、僕はナイフを手にしたまま道路に倒れていた。

 でも、あんな事しちゃったからもう斗君には嫌われてしまっただろうな。

 結局、振り出しに戻ってしまった。


「コイツ回復すんの早…!?」

「うーん…えっ、え、何で“斗君”が“僕”の目の前に…っ!?」


 何で…どうしてまだいるの?

 僕は…あんなに酷い事をしてしまったのに。

 まぁ、斗君の友達はまだ僕を警戒しているみたいだけど…というかその反応が正解なのに、どうして斗君はまだ僕を嫌わないの…そんな目で僕を見るの。


「コイツ…本当にさっきの黒月優璃か…?!」


 違う。今までの黒月優璃…いや、凪葉じゃない。

 僕はもう、自分を偽らない。


「ふぇええっ!?何、このナイフ…!?僕知らない…知らないこんなの!!」


 過去の…凪葉になりきっていた頃の自分を捨てるように、僕はナイフを捨てた。

 でも、このナイフを知らないフリをしてしまったのは、僕はまだ悪い奴だから、今までの悪い事を全て凪葉のせいにしようとしていたのかもしれない。

 …うん、そうしよう。

 今までの行いは、全て凪葉のせい…そういう事にしておこう。


 でもいつか…真実を話そう。

 それで君が僕を嫌っても、仕方のない事だから。

 でも今まで我慢してきた分だけは、君の隣に、黒月優璃として居させてほしい…。



 初めて“黒月優璃”として斗君の家に行って、自分からとはいえキスをしてしまった。

 もう、死んでも悔いはない程に嬉しかった矢先に、それは起こった。


「凪葉?」

「…え?」


 突然、知らない人に声を掛けられる。

 40代…若く見ても30代後半の男の人と女の人。

 少しだけ僕にも似ているような気もするけど、僕の両親とは全く似ていない。


「やっぱり凪葉だ!帰ってきたんだ!娘が帰ってきた!」

「え…違っ…」


 僕は男の人に腕を掴まれ、家に引き摺り込まれる。


「あら、何で抵抗するの?貴女は私たちの娘でしょう?」


 まさか、この二人は…凪葉の両親?

 そうか。僕は凪葉とそっくりだから、凪葉の両親からすれば我が子が帰ってきたと間違えてもおかしくはない。

 でもこの二人、目がイってる。

 何をされるかわからない事の、底知れない恐怖が僕を襲う。


 なんなの…一体何なの!?

 黒月優璃を捨てて凪葉として生きていると優璃として生きろと言われ、その通りにして黒月優璃に戻ったらまた凪葉として見られる!

 

 でも、この両親の前では凪葉として接すればいい…。

 少し前までしていた事をすれば良いだけ。

 そうすれば何事もなく帰れるかもしれない。



「違う!娘はそんなんじゃない!!」


 僕は父親と思われる人物に頬を殴られる。

 どうして。何も間違った事はしていない筈なのに。

 いや、僕も斗君も、外での凪葉しか知らず、家での凪葉を知らない。

 だから斗君には…いや、よく考えれば僕はただ、凪葉としてではなく黒月優璃として接していたのかもしれない。


「ちょっとやめてよあなた!せっかく帰ってきたんだから、暴力はダメ!」


 凪葉の母が僕に寄り添う。

 違う…僕はもう凪葉じゃない。

 凪葉を想う腕で僕を守らないで。


「う…そうだな。すまない、凪葉」


 凪葉の父が僕の頭を撫でる。

 凪葉に対する優しさを、僕に押し付けないで。

 凪葉ではない僕からすれば、ただの恐怖でしかない。


 その後、手が出そうになる事はあっても暴力は振るわれる事はなかったが、こっそり抜け出せそうな隙もなく、凪葉の部屋で一晩明かす事となった。

 とはいえ、恐怖でほとんど一睡も出来ずに夜が開けてしまった。

 僕は早起きしてさっさと着替えて家を出ようとする。時間はまだ6時前。

 

「こんな朝にどこ行くの、凪葉」

「ひっ!!お、お母…さん」


 僕は振り返り、凪葉の母親を見つめる。

 本当に、隙がない。

 

「まだ6時前でしょ?学校空いてないでしょ」

「ぶ、部活!朝の部活が早いからさ!」

「あら、何の部活?」

「…び、美術部!うちの高校、文化部なのに朝練あるの!ヤバくない?」


 その場凌ぎの嘘を言ってみる。

 まぁ、ヤバいのはこの家だけど。


「あら、そうだったの。今度凪葉が描いた美術部の作品見せてね」

「うん!すっごいの描くから!楽しみにしてて!じゃあ行ってきます!」


 そう言うと、僕は逃げるように家から出ていった。

 本当は斗君の家に寄ろうかと思ったがまだ6時前でいくら緊急事態とはいえ流石に迷惑かな、と思い、普通に僕の通う学校へと走った。



 そして帰り。

 僕は凪葉の時のように、斗君と隣同士で一緒に帰ろうと思って、学校へ行ってみる。

 初めて斗君の通う高校に行った時、どこの高校にいるのかわからなくてとりあえず近くの高校に出向いてみたら本当にその高校に斗君がいて、ラッキーだと思ったのは良い思い出。

 斗君を見つけた時、誰かと電話してるの見てヒヤッとしたけど。


 そして少しの会話をして、凪葉の時のようにどこかへ一緒に行こうとしたら。


「なぁ…その痣なんだ…?」


 僕は、自分の頬の痣を指摘された。

 昔から頬の痣はあった。

 治ってはまた作られ、治ってはまた作られを繰り返して、ずっと頬の痣が消えることがなかった。

 でも、誰にも気付いてもらえなかった。

 頬の痣に初めて気付いてくれたのは、斗君だった。


「あっ…これは…」

「誰かに何かされたのか?」


 とても嬉しかった。

 でも、“凪葉の父親に殴られて出来ました”なんて言える訳がなかった。


「ち、違うよ!実はさっき転んじゃって…はぁ…見られちゃったかー…」

「そ、そうか…?」


 もう斗君に嘘はつきたくないと思っていたのに、どんどん僕という存在が嘘で塗り固められていく…。


 まぁ、転んだのは本当だけど。

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