5-7 陳腐

 翌朝、卯月はこの家を出た。

 既に色々と吹っ切れていたのか特段湿っぽくなるようなこともなく、卯月はじゃあまたねとだけ言い残していった。


 あらかじめ前日の夜に衣類などの荷物はまとめてあったので、昼過ぎに伊織さんがそれを回収しに来た。


 伊織さんに卯月のことで何か言うべきか迷ったが、今さら俺の口から伝えることなど何もなかった。車に荷物を運ぶのだけ手伝い、二、三他愛もないことを話して終わった。


 ベッドに身を投げ出して、天井を眺める。

 今になってようやく、卯月との同居生活の終わりを実感する。

 狭い六畳間と一人用のシングルベッドがやたらと広く感じた。


 それから年が明け、二月と三月の繁忙期にはひたすら仕事に打ち込んでいた。


 三月七日の夜、卯月が家を出てから初めて連絡があった。誕生日だったらしい。そういえば、俺は卯月の誕生日も知らないままだった。知ろうともしていなかった。そんなんでよく彼氏という役割に徹しようなどと思っていたなと自分自身に呆れる。


「最近、家ではどうだ」


『うーん、何か父と母にめちゃくちゃ気を遣われてて、この関係キショいなぁって感じ』


 実にこいつらしい感想だなと思う。


『前なら怒られてたようなことでも、怒られなくってさ。ウケるよね。楽っちゃ楽だけど』


 何だかんだ元気そうで何よりだった。

 他愛のないことをいくつか話して、その日の通話はそれで終わった。


 春。

 卯月は三年に進級したが、俺は変わらない日々を生きていた。始業式があった日の夜、卯月が久々に家にやってきた。


「わー、何か既に懐かしいよ、この狭い家が」


 部屋に入るや否や、卯月がベッドに身を投げ出す。


「一言余計なんだよ」


「えへ。んなことより、久しぶりじゃーん。私がいない日々はどうだ? 寂しいか? 恋しいか?」


「快適そのものだ。ベッドも狭くないしな」


「そか。私は一人で寝るの、結構寂しいよ?」


「……皐月ちゃんとでも寝ればいいだろ」


「それは私の貞操が危ういからやだ」


 普通に考えれば男と寝る方が危ういんだけどな。


「……皐月ちゃんがおまえのことを好きなのは本人から聞いて知ってるけど。でも、それは血が繋がってないと思ってたからだろ?」


 今はもう血の繋がってる姉妹だと知っているはずだ。


「違うよ。あいつは禁忌であればあるほど燃えるような奴なんだよ……この前なんて風呂覗かれたよ……」


 恐ろしい子だった。


「そりゃ、なんていうか、どんまいだな」


「早く家を出たいよ。卒業したらまた大輔と一緒に住んでさ……きっと、楽しいよ?」


「……ああ、そうかもな」


 本当にそうなのだろうか。

 こいつからしたら、俺は失恋した相手のはずだ。

 そんな奴と一緒にいて、楽しいものだろうか。


「……私はねぇ、何とびっくり、実はまだ大輔のことが好きなんだよ。だから振り向いてくれるまで、そばにいる予定」


 面と向かってそう言われると罪悪感を覚える。


「……そりゃまた健気というか、何というか」


「我が家の女は恋愛においては粘着質なんだよ。うちのママンたちがそうであったようにね。遺伝子が悪いね、これは」


 言われてみれば伊月さんも伊織さんも、卯月も皐月ちゃんもそういう面があるかもしれない。遺伝子とは恐ろしい。


「……俺に他に好きな人ができたらどうする?」


「んー、待つかな」


「……俺がその人と結婚したら?」


「待つよ」


 遺伝子が強すぎる。


「それは流石に冗談だけど。大輔がもう私のこと嫌い、うざいってなったら……やめるよ。それまでは一緒にいさせてほしいな。……ダメ?」


 返事に迷う。

 そこまで俺と一緒にいたいのなら、あの日に自分から恋人関係の解消なんて言い出さなければよかったろうに。それでも卯月は自分の気持ちばかりじゃなく、俺の気持ちを考えた上でああいう結論を出した。

 それだけ本気で、真剣ということなのだろう。


 それに比べて俺はどうだ。

 卯月のためにと言いながら、結局は徹しきれずにいた。卯月の気持ちにどれだけ真剣に向き合っていただろうか。


 俺の今の正直な気持ちは、どうなんだろう。

 好意の返報性というものがある。相手から好意を示されたら、自分も好意を返したくなるというアレだ。今の自分の気持ちはただそれなだけで、本当の意味での好意じゃないんじゃないだろうかなんて、バカか俺は。そんな小難しい云々は置いとけ。こんなことを考えている時点で俺はもうこいつのことが好きなんじゃないか。


 本当は離れ離れになって寂しかった。卯月が自分の中で思ったよりも大きい存在になっていたことに気がついた。

 好意を返せなかった罪悪感だとか、未練たらしくて格好悪いとか、みっともないとか、そんな理由をつけて連絡もせずに仕事に逃げていた。


「……あー、いきなりこんなん言われても困るよね。ごめんね、私今日はもう帰るよ」


 沈黙に耐えられなくなったのか、卯月がベッドから上体を起こして立ち上がろうとした。考えるよりも早く体が動き、俺は卯月を抱き止めた。抱き止めたというか、勢い余ってベッドに押し倒す形になってしまった。


「ほぎゃー!? いきなりの処女喪失チャレンジ!?」


 素っ頓狂な悲鳴を上げられる。どんなチャレンジだよとも思うが、これは素直に俺が悪い。


「……悪い、勢い余った」


「え!? 性欲を持て余してるって!?」


「難聴にも程があるだろ」


 体を起こして卯月から身を離そうとするが、今度は逆に抱きつかれて止められてしまった。


「こ、こら」


「止めたってことは、さっきのに返事くれるんでしょ。……このまま聞きたい」


 卯月の胸の鼓動と吐息を直に感じる。

 めちゃくちゃニンニクの匂いがした。


「おまえ今日ニンニク食っただろ」


「やべぇよ、それはデリカシーがなさすぎるよ大輔……だからモテないんだよ……まあ食ったけど……」


「うるせぇ。……おまえだけにモテてれば、俺はそれでいい」


「…………も、もしかしてだけど、ニンニク臭よりもクサいこと言ってる?」


 自覚している。今物凄く後悔していて、とてつもなく死にたい気分だ。


「おまえだけにモテてれば、俺はそれでいい」


 卯月が追い討ちをかけるように似てない俺のモノマネをする。


「……たった今、おまえのことを好きだという気持ちが消え失せた」


「わー! ご、ごめんって! カムバック! カムバックラブアゲイン! え、えーと、私の認識が合ってるか分からないから確認したいんだけど、私のこと好き……ってコト!?」


「……ああ、そうだよ」


「し、信じがたいんだけど、それは何きっかけで?」


「……離れてみて、自分でも思ったよりもおまえの存在が大きくなってたことに気がついた」


「うわ陳腐じゃん。そんなご都合展開は読者も冷めるよ」


 歯にきぬを着せぬにも程がある。


「おまえのその発言に俺の気持ちも冷めそうだよ……てか読者って何だよ……」


「あー、私作家志望だから」


 初耳だ。


「より細かく言うとウェブ小説で一発当てて、アニメ化とかもされて原作が一千万部売れて印税でウハウハ生きていきたい方の作家志望なんだよね」


 あまりにも夢と希望しかなさすぎて、夢も希望もない奴の典型だった。


「その印税生活に俺もあやかりたいもんだな」


「結婚したらそうなれるよ。結婚する?」


「おまえの書いた小説が一千万部売れたらな」


「ふざけんな無理に決まってんだろ!」


 どっちだよ。精神不安定か。


「……んー、でも、なんていうかさぁ、これって物語としては陳腐だけど」


 卯月が腕に力を入れ、俺の体を強く抱きしめてくる。


「えへへ、好きな人が自分のこと好きになってくれるのって、すっげー嬉しーもんなんだね」


「……ああ」


「……ね、大輔、大輔、私たち、今度こそちゃんと恋人同士になったんだよね?」


「ああ、そうだな」


「キ、キ、キスとか、どうよ?」


 自分で提案しておいてテンパっているのか、卯月は目をぐるぐるに回していた。鼓動もかつてないほど早い。


 俺の返事は、もちろんこうだ。


「めちゃくちゃニンニク臭いから嫌だ」


「わーん! 昼飯にペペロンチーノ食った私のバカー!」


 卯月は俺の体を押し除け、泣きながら部屋から飛び出していった。

 悪い気もしたが、恋人になってからの最初のキスがニンニクの印象しか残らなかったらお互いに不幸だろう。これはやむを得ないことだったのだ。

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