4-3 嫌いです

 水族館から出た後に二人でファミレスで食事をし、それから帰路に就いた。


 先に皐月ちゃんを送ってから家に帰ろうとしたが、卯月に直接プレゼントを渡したいと頑なだったため、せめて帰宅が遅くなることを伊織さんに電話するように言った。


「もしもしママ? お兄さんの家に寄って帰るから少し遅くなるよ。うん、十時までには帰るから。え、ダメ? じゃあ九時五十五分! えー……うん、わかった」


 皐月ちゃんがしょぼくれながら電話を切る。


「お母さんはなんて?」


「八時までには帰ってきなさいって。もう高校生なのに、いつまでも子供扱い」


 高校生は子供だろと思ったが、機嫌を損ねるだけなのは目に見えているので黙っておくことにする。


 他愛もない世間話をしながら車を走らせて、家に着くころには十九時を過ぎていた。晩飯代は置いていったが、卯月が腹を減らせて待っているかもしれない。


 車を止めて降りようとするが、助手席の皐月ちゃんは俯いたまま微動だにしなかった。


「着いたぞ。降りないのか?」


「……お兄さん」


「うん?」


「今日は……楽しかったです」


「……ああ」


 嘘ではないのだろうが、それとは別に話したいことがあるような、そんな声と表情だった。

 こちらから催促するのも躊躇われたので、皐月ちゃんから話を切り出してくれるのを待った。


「……皐月は、お兄さんのことが嫌いです」


 えーと。今日一日、結構楽しんで過ごせたと思っていたのだが。

 こんなとき、なんて返すのが正解か分からない。


「本当は今日ずっとこの話がしたかったんです。おネエがいるところでは、できないから」


「……そうか」


 平静を装っているが、誰かに真っ向から嫌いと言われるのは初めてのことで、結構ショックではあった。

 俺、なんかこの子に嫌われるようなことしただろうか。


「……皐月から、おネエを取らないで」


 涙声だった。俯いたまま、肩を震わせている。

 別に取ったつもりもないし、これからも取るつもりもないが、今それを言ったところでどうにもならないだろう。


「……そう思って、逆恨みしてます」


「逆恨み、か」


「……おネエが家から追い出されたの、皐月のせいだから」


 初耳だった。

 卯月は母親と折り合いが悪く家から追い出されたとしか聞いていなかったし、それ以上に詮索する気もなかった。


「……皐月は、おネエのことが好きでした。好きっていうのは、お姉ちゃんとしてじゃなくて、です」


「ああ」


「でも、実はとっくの昔にフラれちゃってるんです」


「…………」


「それでも皐月はおネエのことを諦められなくって」


「あの日、おネエがお姉ちゃんだから皐月のために何でもしてくれるって言った、その言葉につけ込んで」


「……おネエに、キスしてもらって」


「……それがママにバレて、おネエは家から追い出されたの」


「本当は皐月の方が、あの家から追い出されるべきなのに……!」


 後半は悲鳴のようだった。

 皐月ちゃんはそのまま声を上げて泣き出してしまったので、ティッシュを箱ごと手渡した。


「……ごめんなさい、ありがとうございます」


 ずびずびと鼻をすすりながら言う。


 ああ、これは、そうか。

 理解を求めてるわけじゃない。

 ただ、自分の罪を誰かに聞いてほしかったのだと思う。吐き出して、楽になりたかったのだろう。


 それなら、俺はただ聞いていればいい。

 そんなことで泣くな。甘えるな。自分だけが辛いと思っているのか。そんな言葉は、大人になったら自分からも他人からも、嫌でも投げかけられるんだから。

 今は彼女を、ただ泣かせておいてあげようと思った。




◇◆◇




 そうこうしているうちに二十時を過ぎて、皐月ちゃんのスマホが鳴った。伊織さんだった。


「……もしもし、ママ? ごめん、まだちょっと帰れなくって……え? ……うん」


 泣いたままの皐月ちゃんが電話に出る。

 あ、やべぇと思ったのも束の間、皐月ちゃんが俺にスマホを渡そうとしてくる。


「……お兄さんに代わってって」


 心配して電話した娘が泣いてりゃ、そりゃそうなるよな。怒られる覚悟を決めて俺はスマホを受け取った。


「……もしもし」


『何があったの?』


 予想に反して、伊織さんの声は落ち着いていた。開口一番に怒鳴られることを覚悟していたので拍子抜けするが、まあ良かった。


「ちょっと人生相談を受けてまして」


『……卯月のこと?』


 ……鋭いな。さすが母親と言うべきか。


「ええ」


 隠しても無駄だろうと考え、素直にそう答えた。


『……頃合いかもしれないわね。今からそっちに行ってもいい?』


「い!? 今からですか!? 頃合いって?」


『卯月にも皐月にも、もう本当のことを話すべきなのかもしれないわ』


「……待ってください、それはあまりにも急すぎる」


『…………』


「あなたはただ吐き出して、また楽になろうとしてるだけなんじゃないですか? 俺はともかくとして、それに子供を巻き込まないでください」


『家族の問題よ。部外者には口を――」


 その言い草に、頭に血が上るのを感じた。


「家族って言葉を便利に使おうとするな! 俺だって卯月と一緒に住んでる以上もう部外者じゃない!」


 俺が声を荒げたことに驚いて、皐月ちゃんが肩をビクッと跳ね上がらせた。


『……そうね、あなたはもう部外者ではなかったわね。軽率なことを言ったわ、ごめんなさい』


「……いえ、こちらこそ、出過ぎたことを言いました。すみません」


『……大輔くん、私が言う立場でもないけれど、二人のことをお願いね。……皐月の帰り、あまり遅くなりすぎないようにしてね』


 それはただ純粋に、自分の娘たちを心配する母親の声だった。


「……分かりました。それでは」


 通話を切り、皐月ちゃんにスマホを返す。


「マ、ママと、喧嘩したんですか?」


 びっくりしたせいなのか、皐月ちゃんはすっかり泣き止んでいた。


「いや、まあ……喧嘩ではない、と思う。皐月ちゃんはそろそろ出られるか?」


「はい。……おネエ、待ちくたびれてるでしょうから、行きましょう」


 水族館のお土産を手に、俺たちはようやく車から降りた。

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