3-5 可哀想な子
伊織さんの車に乗り、彼女の家に向かうまでの道中、互いに無言のままだった。
何でだろう。よく分からないが、非常に気まずい。
「……詳しくは家に着いてから話すけど、伊月は私の妹よ」
「……そうでしたか」
だろうと思った。
笑った表情がどことなく似ていたし、そうでもなければ旦那の前妻の墓参りになんか行かないだろう。
「やっぱり帰る? 私が話そうとしていることは、あなたにとってあまり気分の良くない話になるわよ」
「それを分かってて、どうして俺にその話をしようと思ったんです?」
「……私が聞いてほしいから、かしら。懺悔みたいなものね、きっと」
「身勝手な話ですね」
「……ええ、私は身勝手よ。今も昔もね」
「……聞きます。俺も知りたいですから、あなたたちに何があったのか」
「そう」
それはもう過去の話だ。聞いたところで、きっと何にもならない。今の俺たちには、何の関係もない話だ。そう思っていた。
◇◆◇
家に通される。
昔、何度となく通った家だ。
内装も俺がこの家に来ていた頃とそう変わっておらず、懐かしい感じがした。
居間に座って待っていると、伊織さんが台所から飲み物を取って戻ってきた。大きな氷の入ったグラスからはアルコールの匂いがした。
「はい、焼酎のロック」
「いや、そんなお茶を出すみたいなノリで焼酎のロックを出されても……」
困惑する。流石は伊月さんの姉で卯月の母親とでも言うべきか、この人も破天荒だ。いや、卯月とは血が繋がってないから、この場ではあいつは関係ないのか? 脳内卯月がブーブーと文句を言うのが聞こえた気がした。
「この話は酒でも飲まないと話せないわ」
「……自分だけ飲めば良いのでは?」
「そんなのつまらないわ。それとも下戸だったかしら?」
「いや、まあ、普通程度には飲めると思いますけど」
「じゃあいいじゃない」
いいのだろうか、こんな真っ昼間から……。
伊織さんが焼酎のロックを一気飲みしたので、こちらも舐める程度にいただくことにする。普段はせいぜいビールくらいしか飲まないため、舌が痺れ、喉が焼ける感覚がした。アルコール度数いくらだ、これ……? こんなもん一気できるって何者だ、この人……?
「……ふぅー、さてはて、どこから話そうかしら」
「伊月さんとは姉妹なんですよね?」
「ええ。仲が良いとは言えなかったけどね。むしろ最悪」
伊織さんが酒瓶を片手に、空いたグラスに焼酎を注いでいく。
「……でも、同じ人を好きになった」
「……叔父さんのことですか?」
「そうね」
モテたんだな、あの人……。
「彼はね、昔、私たち姉妹の家庭教師だった。それでまあ、当時ちょろかった私たちはまんまと彼に惚れたわけ。昔は伊月とも仲が良くって、彼のことで盛り上がって色々話したりしたわ。で、何やかんやあって数年後に私と彼は再会して、付き合うことになって、子供も出来たわ」
物凄いざっくりと、物凄いことを言い出した。
「その子供が……皐月ちゃん? ……あれ?」
違和感を覚える。
目の前にいるこの伊織さんと、卯月の義妹である皐月ちゃんは血が繋がっている実の母娘だと聞いている。
でも、卯月は伊月さんの娘であるはずで、皐月ちゃんよりも早く生まれている卯月がこれよりも先に生まれてないとおかしくって……つまり、どういうことだ?
「そのときに生まれた子は皐月じゃなくて、卯月よ」
「…………」
言葉を失った。理解が追いつかない。
「卯月は伊月の子じゃないわ。私の子よ」
「……何で」
何で、そのことを本人に教えない?
何で、それならもっと優しくしてやれない?
何で、それなのに家から追い出した?
多くの何でが頭に浮かんでは消えていった。
感情を飲み込むために、焼酎を一気に煽った。そうでもしないと、叫び出してしまいそうだったから。喉が焼ける。
伊織さんが無言で俺のグラスに酒を注ぎ足す。
「……話の続きを」
頭がくらくらするのはアルコールのせいか、情報を処理しきれていないせいかもう分からなかったが、俺は彼女に話の続きを促した。
「……卯月は、望んで出来た子じゃなかった。私も当時バリバリ働いてて、自分のキャリアに未練もあったわ」
「…………」
「でも、堕ろすなんて選択肢はなかった。産休取って、産んで、育てて、仕事とも両立してやろうって、そう息巻いていたわ、当時の私はね」
「……そう、だったんですか」
少しだけ安心した。
望んで出来た子供じゃないにしろ、望まれて生まれてきたのだ、卯月は。
「でも、幸せは長続きしなくってね。旦那が浮気したの」
「……そりゃ、最悪ですね」
「ねぇ、相手は誰だと思う?」
「…………」
考えると、頭が割れそうに痛んだ。
そんなの、もう、考えられる相手は一人しかいなかった。
それは俺の初恋の人の、知らない部分だ。
人間、誰しも綺麗な部分ばかりじゃない。この歳まで生きてれば、そんなことは分かっている。
綺麗な、美化された思い出が、焼け落ちていく。
「……旦那は私に隠れて、伊月と会っていたわ。彼がお風呂に入ってる間に鳴った携帯を見ちゃってね。……あんなもの、見なきゃずっと幸せでいられたのかもしれないのにね」
「…………」
「……私が一番許せなかったのは、伊月から旦那を誘っていたことよ。妹にも旦那にも裏切られたと思った」
伊月さんはそんなことしない。
そう言いたかった。そう思いたかった。
けれど、それは俺の願望に過ぎない。
そんなことを口に出しても、何にもならない。
「……それで、伊織さんはどうしたんですか」
「……何もかも捨てて逃げ出したの。旦那も、生まれたばかりの卯月も……何もかも嫌になっちゃってね……逃げ出したのよ……」
「……そうですか」
「……そこから先の、この家のことは多分あなたの方が詳しいんじゃない? 伊月が嫁いで、実の母親みたいな顔して卯月を育てて……ああ、旦那の妹……あなたのお母さんから私のことは何か聞いてるかしら?」
「……正直、あまり良い話は」
「そうよね。何も知らない人間から見れば私は子供と旦那を捨てたロクデナシ。伊月はそんな不出来な姉の子供を甲斐甲斐しく育てるいい女。で、伊月が死んだ途端に出戻ってきた図々しい女が私。そんな風に見えるはずだもの」
「……どうして戻ってきたんですか?」
「……卯月に会いたくなったからよ。言ったでしょ、私は今も昔も身勝手だって」
「でも、あなたは卯月のことを愛していない」
「……六歳になった卯月と、再会したときのことを今も覚えてるわ」
「…………」
「私の子供なのに、伊月のことをお母さんだって言うのよ、あの子。私のことはママじゃないって。お母さんはお母さんはって、伊月のことばかり話すの。……あの憎い女のことばかり話すのよ、愛する娘が。気が狂うでしょう?」
「……それで、卯月のことまで憎くなったと? 家から追い出すまでに?」
「そうね」
そのあまりにもしれっとした態度に、脳が沸騰した。アルコールのせいもあるかもしれない。
「ふざけるな!」
「ふざけてなんかいないわ」
「そんなの、卯月があまりにも……!」
可哀想だ。
救いがなさすぎる。
「そうね、あの子は可哀想な子だわ」
「どの口が言ってっ……!」
「私からも伊月からも愛されなかった」
背筋が凍った。
今、なんて?
「……伊月さんは、卯月のことを愛していたはずだ」
少なくとも、俺の目からはそう見えていた。
「本当にそう思う? 根拠は?」
「伊月さんは……卯月にいつも優しかった。卯月が何をしても、怒ったところなんて一度も見たことがない」
「何をしても?」
卯月がおままごとに本物の包丁を持ち出したことがあった。俺は随分と慌てたものだが、そのときだって伊月さんは穏やかで……ニコニコと笑っていた……。
…………。
「……何をしても、ねぇ。その顔からすると、それこそおかしいことに気がついたかしら?」
「……違う、そんなはずないんだ」
「……まあ、あなたがそれを認めようが認めなかろうがどっちでもいいけどね。本当に娘のことが大切なら、然るべきときに叱るものよ、母親っていうのはね」
「…………」
何も言い返すことができなかった。
それから互いに無言の時間が流れる。
もうこれ以上、ここにいる意味はないだろう。
席を立つ。
「……ごめんなさいね、やっぱり気分のいい話ではなかったでしょう? こんな話を聞かされてもね」
伊織さんが自嘲気味に笑う。
「でも、あなたは誰かに話したかったんでしょう?」
「そうね、こんなこと誰にも話せなかったから……あなたが聞いてくれて、救われたわ」
「身勝手な話ですね、本当に」
「自覚してるわ」
「……二つ、聞きたいことがあります」
「じゃあ、二杯飲んだら話してあげる」
殺す気か。
「そういうとこ、伊月さんに似てますね」
「それは違うわ、伊月が私に似てるのよ」
「……どうして、伊月さんの墓参りを? 憎い相手なんでしょう?」
「……そこは複雑でね。何だかんだで、あの子は私のたった一人の妹だから。……憎いばかりでもないのよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
「……それは何故?」
「それなら卯月のことも、憎いばかりじゃないんでしょう?」
「…………そう、ね」
それだけ聞ければ、ひとまずこの場では良しとしよう。
今後何をする目処が立ったわけでもないが。
こんなこと、卯月には話せない。
伊織さんが実の母親だなんて、伊月さんからも愛されてなかったかもしれないなんて、卯月が知ったらどうなることか。
伊織さんがこの残酷な真実を卯月に話さなかったのは、母親としての愛情があったからなのかもしれない。
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