3-3 たまに賢いことを言うアホ

 仕事を終え帰宅すると、玄関に見慣れない靴があった。そういえば今日は試験勉強で友達を呼ぶとか言っていた。

 時刻は九時を過ぎているが、こんな時間まで出歩いてて大丈夫なのだろうか。たしか藍子とか言ったか。髪が赤いので家も訳ありなのだろうかと考えるのは偏見が過ぎるだろうか。


 部屋に入ると、卯月がテーブルに突っ伏していた。テーブルの上には教科書やノートが散乱している。


「お邪魔してまーす」


 藍子がこちらに向けて手をひらひらと振る。学校が終わって直接ここに来たのか、二人とも制服姿だった。


「こんな遅くまで卯月の勉強見ててくれたのか? なんか悪いな」


「別に大したことはしてないよ」


「大したことしたじゃん!? 間違えたらデコピンとかしたじゃん!?」


 卯月がガバッと顔面を起こす。何度デコピンを食らったのだろうか、額の一部が赤くなっていた。


「あんたが集中しないですぐスマホいじるからだよ。罰を付けた方がいいかなって」


「イコちゃん、その教育方針はダメだよ……私ちゃんは褒められて伸びるタイプなんだよ……」


「って言ってるけど、どうなの? 保護者さん」


 藍子が俺に話を振ってくる。


「褒めたり甘やかすとすぐ調子に乗るから、その教育方針でいいと思うぞ」


「おまえら人間じゃねぇ!」


 卯月が非難の声をあげるが、勉強で体力を使い果たしたのか、またテーブルに顔を突っ伏してしまった。


「さてと、あたしはおいとましようかな。二人の愛の巣にいつまでもお邪魔するのも何だしね」


 藍子が立ち上がる。


「何か盛大に誤解があるようだが、俺とこいつはそういうのじゃない」


「ふぅん。でも毎夜毎夜、可愛い可愛いって卯月に囁いてるんだろ?」


 尾ひれが付きまくっていた。

 可愛いって囁いたのは一夜限りだし、そもそもどこのどいつからその話が漏れたのか。一人しかいなかった。


「卯月、おまえ無駄に誇張して話したな?」


「ぐ、ぐぅぐぅ、すやすや」


 凄まじい狸寝入りだった。


「ありゃ、あたし騙された?」


「……毎夜毎夜っていうのは嘘だ」


「へぇ、ほうほう。んじゃ、可愛いと言ったことはあると?」


 藍子がニヤニヤと口元を歪ませる。いい性格をしている。


「その場の流れだ。どうでもいいだろ、そんな話は。それよりも帰るなら送ってくぞ」


 手に持ったままだった車のキーを藍子に見せる。


「そんじゃお言葉に甘えようかな。卯月はどうする? 一緒にドライブするかい?」


「すぴー、すぴー」


 今起きたら俺に怒られると思っているのか、卯月は狸寝入りを続けていた。


「いいのかなぁ、あたしがお兄さんと二人っきりになっちゃっても」


「…………」


 藍子の言葉に、卯月の嘘の寝息が止まる。


「藍子ちゃんちょっとあのお城で休憩してく? なんて流れになっちゃうかもなー」


 この田舎町にそんなお城はない。


「ならねぇよ。おまえは勉強で疲れてるだろうし休んどけ。行くぞ」


 卯月にそれだけ言って家を出ようとすると、背後から「待った!」の声が掛かった。振り返ると卯月が顔を上げていた。


「イコちゃん、ひとつだけ言っておくよ」


「何だおまえ、起きてたのか。じゃあ問い詰めたいことがあるんだが」


「あーあー! これは寝言! 寝言だからノーカン! 起きてませーん! 卯月ちゃんは勉強に疲れて熟睡中ー!」


 こ、こいつ……。


「はいはい寝言ね。で、何だって?」


「大輔はね、おっぱいの小さい女が好きなんだよ。だからイコちゃんは射程範囲外だよ。残念だったね」


「おまえふざけんなよ」


 卯月の顔面にアイアンクローをお見舞いする。


「あだだだだっ!? ただでさえ勉強して頭痛いのにっ!?」


「だったら無駄口叩いてないで寝てろ」


 ため息を吐いて振り返ると、藍子がシャツの胸元のボタンを外して谷間を露出させていた。超全力で首を横に背けた。首からゴキっとやばい音がする。めちゃくちゃ痛い。俺は両手で首を押さえてその場にうずくまった。


「めっちゃ効いてるけど」


 ケラケラと藍子が笑う。効いてるとかそういう問題じゃない。何をやってるんだ、こいつは。


「イコちゃん何やってんの!? 痴女!? 痴女なんか!? そんな子だと思わなかったよ!?」


 流石の卯月も慌てふためいていた。


「いんや、胸に興味ない男って本当にいんのかなーって思って。知的好奇心?」


「興味あろうがなかろうが誰でも顔を背けるぞ、今のは……」


「そ? 興味あったらガン見しない?」


「それは頭のやばい奴だ」


「あはは、悪かったね。もうしまったから顔上げていーよ、お兄さん」


 近ごろの若者の性は乱れている……そんなおっさんじみたことを考えながら立ち上がる。


「おまえには恥じらいとかないのか……」


 片手で頭を抱えながらぼやくと、藍子が微かに頬を染めてニヤッと笑った。


「まあ、ちっとは恥ずかしかったかな?」


 じゃあ最初からやるな。

 そんな俺たちのやり取りを見ていた卯月が勢いよく立ち上がる。


「やっぱ私も行く!」


「家まで送るだけだぞ。いいから休んでろって」


「やだやだ! 大輔がイコちゃんと二人っきりになって、手を出したら犯罪者になって、そしたら私も路頭に迷っちゃうじゃん!」


「出さねぇーよ!」


「そうだぞ卯月ー、もし手を出されてもあたしは誰にも言わないから大丈夫だぞー」


 そういう問題じゃないし、そもそも手を出さないっつってんだろ。


「やだ。イコちゃんは私が守護る」


 しゅごるって……こいつらは俺のことを何だと思ってるんだ……俺ってそんなにロリコンくさいか……?


「……好きにしろ。さっさと行くぞ」


 これ以上不毛な言い争いを続けても疲れるだけだと思い、結局三人で家を出ることになった。




◇◆◇




 何事もなく藍子を家まで送り届け、その帰りの車中。


「おまえ何でいきなりついてくるって言ったんだよ」


「イコちゃんを大輔の魔手から守護るためって言ったじゃん」


「俺ってそんなに信用ないんだな……」


 そんなすぐに女子高生に手を出すようなロリコン野郎だと思われてたのかと、流石にちょっとへこむ。


「……だって、イコちゃんメスの顔してたんだもん。あんな顔、今まで見たことない」


 メスの顔て。もう少し他に言いようがないのか。


「気のせいだろ。あいつに好かれる理由がない」


「大輔、大輔」


「何だよ」


「恋に理由が必要かい?」


 横を見なくても助手席のアホがドヤ顔をしているであろうことは分かった。


「理由がないなら、ただの思い込みだろ」


「それを言ったら、人間の感情なんて全部そうじゃん?」


 卯月のくせに何かそれっぽいことを言い出した。


「全部……か」


 仮にそうなのだとしたら、何もかもがあやふやになる。

 伊月さんを死なせた後悔も、今の卯月との日々を悪くないと思うこの気持ちも、全部ただの思い込みだったとしたら? 俺がそう思い込みたいが故に、自分で自分を洗脳しているんだとしたら?


 めまいがして、路肩に車を停めた。


「ど、どったの?」


「……少しめまいがしてな。ちょっと疲れてるだけだ」


「社畜もほどほどにしないと」


「……そうだな」


「……ね、本当に大丈夫?」


 まだ頭がクラクラする。本当に疲れているのかもしれない。あるいは、自分は疲れていると思い込みたいだけなのか。


「……さっきの話、おまえは本当にそう思ってるのか?」


「さっきの? 全部思い込みってやつ?」


「ああ」


「……んー、半分そうで、半分違うかな」


「半分?」


「……これは持論だけど。理屈と感情って言えばいいのかな? 理屈では人間の感情なんて全部思い込みで出来てるって思ってるけど」


「…………」


「つらいとか、幸せとか、好きとか、嫌いとか。そう思いたいからそう思うんだよ。人間って。多分ね。理由に感情が肉付けされるっていうのかな?」


 俺は伊月さんを死なせた。このことは後悔するべきだ。だから今も後悔し続けている。……卯月流に言うなら、そういうことだろうか。


 俺は本当に心の底から、あの出来事を悔いているのだろうか。

 そうすべきだから、そうしているだけなのかもしれない。でも、そうだとしたら、あまりにも――。


「でも、それだとあまりにも虚しいじゃん。本当の気持ちってのが、ないみたいでさ。だから、ここからはそれこそ感情論の、綺麗事のお話になるんだけど」


「……聞かせてくれ」


「うん。理由のいらない、純粋な気持ちっていうのもあると思うよ。あったらいいなって思う。その方が、何かハッピーじゃん? 全部が全部、機械的に生まれた感情だって思うよりさ、救いがあるじゃん。知らんけど」


 卯月が照れ臭そうに笑う。

 確かに、救いがある。

 確かに、俺の心は今救われたと思う。

 ハンドルに顔を埋めて、肩を震わせる。


「……大輔、泣いてる?」


「……泣いてない」


「……まー、考えすぎないことだよ。ハゲるよ」


「うるせぇ」


「こんなん自分で言っててもよく分かんないしね。あは」


 一生の不覚だ。アホだアホだと思っていた卯月の言葉に泣かされ、救われた。


 この件を経て、俺の卯月を見る目は頭のおかしいアホから、たまに賢いことを言うアホへと変わったのだった。

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