2-8 じゃあお金ちょうだい! 一万円!
仕事を終えて帰宅する。
卯月はうきうきで先に帰っていった。おそらく家でずっとスマホをいじっているのだろうと思っていたが、玄関のドアを開けるとカレーのいい香りがしてきた。
「おかえりなさいあなた! カレーにする? カレーにする? それともカレー?」
卯月がカレーを煮込みながら俺を出迎える。というか、選択肢がカレーしかなかった。
「誰があなただ。何でカレー作ってんの、おまえ」
「もらったお金で自分の分だけ買うよりは、二人で食べれるもの作った方がいいかなって思って」
予想外の思いやりに少しだけ感動してしまった。
でも気になることが二つある。
「昨日の残りのカレーは? 冷蔵庫に入れてたやつ」
「それはお昼に食べたよ」
「二人前あったろ」
「カレーは飲み物だよ、大輔くん」
何故かえへんと胸を張る卯月だった。それはデブの思考である。こいつはそれでも何故か痩せているが。
「……それはいいとして、そろそろカレー飽きないか?」
「カレーは万能食だよ。飽きない飽きない」
万能食であることと、飽きる飽きないは別だと思う。とはいえ、かく言う俺も食へのこだわりは薄い方なので、しばらくカレーが続くことに対して不満はないのだが。
「そっか。わざわざ作ってくれてありがとな」
頭を撫でてやると、満足げな顔をする。
「うぇへへ、もうちょいで出来るから、待っててね」
しかし、こいつ放っておくと一生カレーしか作らないんじゃなかろうか。今度レシピ本でも買うか。
◇◆◇
「ごちそーさまでした」
「ごちそうさまでした。肩でも揉むか?」
夕食を終える。父親との件や、夕食を作ってくれたことで卯月は今日よく頑張ってくれたと思うので、労ってやろうと思った。
「え、セクハラ?」
卯月が両手で自分の肩を抱くようにして身構える。
「じゃあやめた」
「わー! うそうそ! でも何で? いきなり優しくされると怖いんだけど」
「今日は頑張っただろ」
「……私、頑張ったのかな」
「ああ。だから肩揉みじゃないにしても、おまえのために何かしてやりたいって思えた」
「マジ? じゃあお金ちょうだい! 一万円!」
ほんのちょっと感動的なシーンになるかと思っていたが、全部ぶち壊してきた。
「…………」
「え、何その、こいつマジかよみたいな顔は」
「いや、てっきりまた頭撫でてほしいとか言うかと思ったから」
「それは女に幻想抱きすぎだね。お金の方が嬉しいに決まってんじゃん」
こいつマジかよ……。
いや、卯月の言う通り、俺が幻想を抱きすぎていただけなのだろうか。
「じゃあ百円な」
「ひゃくえん!?」
「そんな気軽にポンと一万出せるかよ」
「しゃ、社会人なのに!?」
「おまえの方こそ、社会人に幻想抱きすぎな」
スマホを買うときの流れからしても、こいつの家は富裕層っぽいから仕方ないのかもしれないが。
「しょうがねぇなぁ、じゃあお金以外で我慢してやるか……」
何故そんなにも上から目線なんだ、おまえは。
こいつを褒めると調子に乗ることが分かったので、今後は
「じゃあ、私の知らないお母さんの話をして」
まさかそう来るとは思わず、心臓が跳ね上がるのを感じた。伊月さんの話。何を話す? ……あの事故の話をするのは、少なくとも今ではないと思う。
「……どんな話がいい」
「何でもいいよ。……私がまだちっちゃかったせいもあるのかな、お母さんのことって、漠然としか覚えてないから。何でも知りたい」
「……ああ、伊月さんはな――」
彼女がどういう人だったのかを話した。
しっかり者で優しい人だけど茶目っ気もあって、俺によく下らない嘘や冗談を言ってきた。俺を困らせて楽しそうに笑う顔が好きだった。ああ、なんかそういうとこ、おまえに似てるかもしれないな。
それから、おまえのことを、叔父さんのことを、家族をとても大切にしていた。自分が片親だったから家族は大事にしたいんだって話してくれたことがあった。一人っ子で寂しい思いをしたこともあるから、卯月には兄弟を作ってあげたいとも言っていたよ。
「――それから、それから、な……」
話しているうちに、自分でも気づかないうちに涙が流れてしまっていた。手の甲でそれを拭う。
「……ごめん、もういいよ。きっと辛いこと思い出させちゃったんだね……ごめん……」
卯月が俺の膝にそっと手を乗せてくる。
「……悪い、これは、そういうんじゃなくて」
溢れ出るものを止めようとして目に手を押し当てるが、それでも次から次へと涙は流れてきた。
……クソ、今の俺、死ぬほどかっこ悪ぃ。
「……ありがとね、お母さんのために泣いてくれて」
見ると、卯月までもらい泣きしていた。
「バカ、どうしておまえまで泣いてる」
「だって、嬉しいじゃんね。そんなにお母さんのこと大事に思っててくれてさ」
「……ああ」
「お母さんのことで一個だけ聞きたいんだけどさ」
「どうした」
「お母さんっておっぱい大きかった?」
シリアスな空気が全部ぶち壊しだった。
「……いや、そんなには」
「ちくしょう、皐月に乳のでかさで負けてんのはやっぱ遺伝か……」
それはまあ、両方の母親を見た俺からしても遺伝と言う他なかった。
「ま、いっか。大輔は小さい方が好きなんでしょ?」
「この話の流れで何でそうなる」
「え、だってお母さんのこと好きだったんでしょ?」
「……何を根拠に」
そこで否定しきれない自分が情けなかった。
「お母さんのこと話してるとき、恋する乙女みたいな顔になってたもん」
「マジかよ!? 俺そんな顔してたのか!?」
だとしたら恥ずかしすぎる。
「うん。嘘だけど。でも、その焦りようで確定したね」
……ちくしょう、ハメられた。
今さら隠しても仕方ないので、正直に白状する。
「……別に胸の大きさで好きになったわけじゃないからな」
「ええー? でも、どちらかと言うとー? ちっちゃい方がー?」
卯月がメチャクチャウザいモードになってきた。
「この話はおしまいだ」
「良かったねぇ大輔くん、私の胸が小さくて」
「自分で言ってて虚しくならないか?」
「……めっちゃなる、あ、まって、今めっちゃ死にたい……」
卯月がどよーんと落ち込む。自分で勝手に上がったり下がったりと忙しい奴だった。
「でもいいこと聞いちゃった。禁断の恋心じゃん。脅しのネタに使えるじゃん」
秒で立ち直っていた。
「何の脅しだよ」
「お父さんにバラされたくなかったら、一万円を……」
「マジ勘弁してください、お願いします」
脊髄反射で深々と頭を下げてしまっていた。
「じゃあ一万円」
「せ、千円でどうだ?」
「何だその反抗的な態度は! 二万円にすんぞ!」
いきなり倍に釣り上げてきた。鬼かこいつは。
「わ、分かった……一万……一万だな……」
痛い出費ではあるが、口止め料と考えれば安いくらいだ。俺が財布から金を出そうとすると、卯月がくすくすと笑い出した。
「なんてね、嘘だよ。あはは、本気だと思った?」
そう言って笑う顔が、本当に伊月さんにそっくりで思わず見惚れてしまった。
「ど、どしたの……ごめん、怒らせちゃった……?」
俺が何も言わずに固まっているので、卯月が不安そうな表情を浮かべた。
「……いや、何でもない」
頭を横に振って、バカげた思考を振り払う。
生きている人間に、故人を重ねるな。
それは卯月にも伊月さんにも失礼すぎる。
「……嘘だね、何でもなくない顔してた。思ってることがあるならはっきり言ってよ」
それは昨日、家を出ようとする卯月に俺がかけた言葉と同じだった。
「……別に、何もない」
奇しくも、昨日とは逆の立場で同じ押し問答をしている。
「……もう、昨日みたいなのはやだよ。昨日は私が悪かったけどさ……言いたいこと隠して、それですれ違ったりしたくないよ……」
卯月の瞳が潤んでいくのが見えた。
「……分かった、言うよ。だからそんな泣きそうな顔すんな」
「な、泣きそうになんかなってねぇーよ!」
言う。言うぞ。
何も問題はない。一昨日も何度も言った言葉だ。
……いやでも、あのときは言わされてる感があったが、今度は自主的にこの言葉を口にするのか?
「…………やっぱ無理、言いたくない」
「この流れでぇー!? 吐け! 吐けば楽になるぞ! 明日はカツ丼作ってやるから!」
「おまえ絶対揚げ物とかできないだろ……」
「じゃあスーパーで惣菜のトンカツ買ってきてカツカレーにするから! ここまで来たなら言っちゃいなよ、ユー!」
カツ丼はどこに行った。
「……分かった。一度しか言わないからな」
「うん」
「おまえの笑った顔が可愛くて見惚れてた」
言ってやった。
やばい。顔が熱い。分かっていたが、面と向かってこの言葉を口にするのはメチャクチャ恥ずかしかった。
理解が追いつかないのか、卯月はしばらくぽかんと口を開けていた。待つこと五秒、ようやく思考が繋がったようで、今度は一気に顔を赤くした。
「……だから、そう……の、慣れて……から、心の……だって……言っ……じゃん……」
うつむいて、聞き取れないほどの小声でぶつぶつと何事かを呟き始めた。
「おまえが言えって言ったんだからな!? 俺悪くないからな!?」
「うるせぇー!? そんなこと言われるとは思わねぇーだろうが!? 今のは大輔が悪い!」
小学生レベルの口論が勃発した。
その後どっちが悪い悪くないの言い合いは一時間に渡って続けられた。
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