1-12 泣きたいのは俺の方だ

「い、行きますよ」


 卯月が耳元で囁いてくる。


「くんな、やめろ」


「……よく考えたら人の耳舐めるのって衛生的にやばくない?」


 よく分からんが、急に正気に戻りはじめた。

 助かった……のか?


「そうだぞ、やめとけ。ばっちぃぞ」


「でも……でも、負けられない戦いが、ここにある!」


 そんなものはない。

 ダメだ、やっぱこいつ頭おかしいままだ。


 嫌なら抵抗をすればいいが、そうすると泣き腫らした顔を見られてしまう。それだけは避けたい。


「ハァハァ……や、やるぞ、やるぞ……私はやればできる子って昔から言われてたんだから……」


 耳元から卯月の荒い吐息が聞こえてくる。怖い。色気がまったく感じられなくて、ただただ怖い。肉食動物に捕食されてる気分だ。


「わ、分かった、落ち着け。俺が悪かった。おまえのことを女として見る努力をしようと思う」


「努力ぅ!? そんなもんしなくても、私が可愛い女の子だってことをおまえの体に教えてやんよぉ!」


 少なくともそれは可愛い女の子が言っていいセリフではない。


「ハァ……ハァ……」


 せめてもうちょっと色気のある吐息を出せないのか、こいつは。何だそれは。バトル漫画のキャラクターか。


 そんなことを考えていると、不意に卯月の柔らかい唇が耳の裏に触れた。

 刹那、背筋にゾクゾクしたものが走るのを感じた。


 ……まずい、ちょっとまずいかもしれない、これは。未知の感覚だ。そりゃそうだ、こんなところに唇を当てられた経験など俺にはない。


 そのまま耳の上部に舌を這わせてくる。思わず声を漏らしそうになった。でもこれは違います。気持ちいいとか、断じてそういうのじゃないんです。そうですよね、俺?


 よし、もうこれで負けを認めよう。ていうかダメだろこれは。インモラルすぎるだろ。こんな勝負に付き合って何になる。


「……ス、ストップ、俺の負けだ!」


 こんなアホなことをしている内に涙も引っ込んだため、卯月を引っぺがして体を起こした。


「早っ! 大輔って絶対早漏!」


 はっ倒すぞ。


「……そんなに良かったですか、私の舌は?」


 卯月がぺろっと舌を出す。

 不覚にもそれに色気などを感じてしまい顔が熱くなったので、卯月の頭をチョップした。


「ぐぉぉぉ……ひた……ひた噛んだぁっ……」


 卯月が涙目になる。


「泣きたいのは俺の方だ」


「なんで!? 殴った側なのに!? 言ってることおかしくねぇ!?」


「……今一瞬だけど、おまえに色気を感じたから泣きたいんだ」


 涙目だった卯月が途端にドヤ顔になった。


「勝った! ついに認めるんですね! 私が可愛いオナゴであると!」


 敗北感えげつない。

 何でそうまでして俺に女として見られたいんだ、こいつは。


「……ちょっとは元気出ましたか?」


 少し間を置いてから、卯月がおずおずとそんなことを聞いてきた。

 ……ああ、そうか。やり方はちょっとアレだったかもしれないけど、こいつなりに俺を励まそうとしてくれたんだな。


「ああ、ありがとな」


 感謝の気持ちを込めて卯月の頭を撫でる。


「なんですか? 女はとりあえず頭撫でときゃ喜ぶだろって思ってます?」


「邪推しすぎだろ。昨日寝るとき俺の手を頭に持ってったから、そうされるのが好きなのかなって思っただけだ」


「あ、あれは……」


 卯月が顔を赤らめてそっぽを向く。


「昔、大輔がそうしてくれてたのを思い出して……またしてほしくなっただけです……」


 こいつは、その、なんていうか。

 普段おちゃらけてるくせに、変なところで素直になるから、反応に困る。


「初恋の相手だもんな」


「うがーっ! それネタにすんのやめーっ!」


「昔の話だろ」


「まあ……そう、ですけど……」


 初恋は実らないというのが本当なら、卯月のその相手が俺で良かったのかもしれない。俺自身誰かを幸せにできるような人間でもないから。


 伊月さんの分までこいつには幸せになってほしいと、そう願った。




◇◆◇




 今日一日で色々ありすぎたので、シャワーを浴びながら渋滞した思考と感情の整理を試みた。


 伊月さんのこと。後悔と罪悪感は、おそらく一生消えないだろう。

 卯月への後ろめたさ。俺が伊月さんを死なせなければ、あいつは家を追い出されるような目に遭うこともなく、もっと幸せに生きてこられたはずだった。


 だから、せめてもの償いと言うのもおこがましいが、伊月さんの代わりに俺があいつを守らなくちゃいけない。


 幸いにも、卯月はいい友達に恵まれている。

 学校生活は問題ないだろう。最初はふざけんなと思ったものだが、卯月の転校を阻止した俺の母親の采配は間違っていなかった。


 俺の役目としては、あいつが自立するまで不自由なく過ごせる環境を作ることだろう。……そうなると色々と買わなきゃいけないものもあるし、引越しも視野に入れる必要がある。やること、考えることは山積みだった。


 伊月さんの代わりとして、保護者代わりとしてあいつを支えていかなきゃならない。

 だというのに、何で俺はあいつに色気なんか感じてしまってんだよ! それは違うだろ!

 戒めとして自分の頭をグーで殴った。加減しなかったためクソ痛かったが、そのおかげで頭は少し冷静になった。


 というか、あいつも悪い。

 からかってるつもりなのか冗談でやってるのか分からないが、耳を舐めたりするな。


 正直に言えば、あいつは中身はともかくして、顔は可愛い方だと思う。伊月さんによく似ている。笑った顔なんてそのまんまだ。

 今はまだまだ子供っぽいが、将来的には伊月さん似の可愛らしい美人に育つだろう。


 俺の初恋は伊月さんだった。

 旦那がいると知っても、それでも好きになってしまった。まあ、結局その思いを伝えることは最後までしなかったわけだが。


 だから、つまるところ。

 俺は伊月さんの面影を、卯月に重ねてるだけなんだろうな。あまりにもクソ野郎すぎる。


 ……思考を整理したら、また新たな罪悪感が生まれてきた。これ以上考えるとドツボにはまる予感がしたので、そこで思考をシャットアウトした。

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