12歳 まだ生きてる

 僕はまだ無事に生活をしている。お母さんの、違う、おじさんのスパルタはすごくって、あれから毎日口の中に拳を突っ込む練習をしている。最初はただ普通に。それが慣れてくるといろんな方向から突然おじさんが出てくるようになった。

「だめだめ。まったく、なっちゃいねぇ。それじゃお前、ナイフが刺さる前に手首まで食われてるぞ」

 冗談じゃないと思う。どこの世界にこんな練習をする12歳がいるんだろう。でも「お前、死にたいのか?」なんて嘲り笑われたら誰だって「こんちくしょー!」って思うよね。だから僕は頑張って上手いことおじさんの喉にナイフを突き立てられるようにって練習してる。ナイフは持たないけど。


 おじさんのスパルタとは別に、お母さんのスパルタもすごくなった。学校での授業中は今の僕にしてみたら休憩時間と同じ。授業でやっと勉強から解放される……

 お母さんの知識はすごく半端なくて、どうしてそんなにいろんなことを知っているのか聞いてみた。

「当たり前でしょ? 何人かじって来たと思ってるの?」

そうか…… たくさんの人の記憶がお母さんの頭の中で共同生活してるんだった。けどお母さんは自分より賢くなれって言うんだ。

「僕がお母さんに勝てるわけ無いじゃないか!」

「何を言ってるんだか。そんな弱気でどうするの? 今の世の中、隣を歩いてる人が魔物でもおかしくないのよ。どんなことでも知らないより知ってる方が勝ち。あなたより賢い魔物は掃いて捨てるほどいるんだから」


 でもさ…… そんなこと僕に関係あるのかな。僕はお母さんを食べたリピドーを倒せばいいだけで、別に人助けとかで魔物たちと戦うわけじゃないだろうし。だって…… まだ12歳なんだから。


 あれから1年以上経っているのにまだ何も変なことは起きてない。

(ホントに僕を襲ってくる?)

そんな風に思ったってしょうがないって思う。それを言ったらお母さんもおじさんもひどく怒るだろうから言わないけどね。

 でも時間が経つほど『緊迫感』っていうのは薄れていくもんなんだ。



「アンリ!」

 買い物に行ったはずのお母さんが飛び込んできたから僕は背中に差してあるナイフを掴んだ。もうそれは習性になっていて、条件反射みたいなもん。

「合言葉は?」

「そんな場合じゃないの!」

 僕は背中のナイフをぎゅっと握ったまま立ち上がってゆっくり壁に下がった。ナイフを持ってることを見せちゃいけない。それに教えられてる。

『いいか、壁にくっつきゃ逃げ道は確実に減る。けどな、襲われる方向も確実に一方向減るんだ』

 おじさんは逃げるより立ち向かえって僕にいつも言った。

『背中を見せたら最後だ、そう思え。本当に逃げる道ってのはな、自分の後ろにはねぇんだよ。相手が常に自分の視野に入るように動くんだ』

あんまり何度も言われてるから僕の頭の中でおじさんの声が自動再生されている。

『お母さんに化けてくる可能性が一番高い。お前、お母さんの喉にナイフ突き立てられるか? でもそれを考えておかなきゃな。覚悟ってやつだ』

(うん。分かってる。こういう日がいつか来るはずだったんだよね? 僕は今一人なんだから自分で自分を守ってこいつを殺すんだ)

 不思議だなって思う、こんな状態なのにちゃんと考えてる自分が。そういう風に育ててくれたんだ、きっと。ちょっと悲しいとも思う。普通に育ってたら、僕はきっといきなりお母さんに生きたまま齧られて泣いて叫んで死んで終わりだったんだ。でも、それ、終わりなんだよ。もうそれ以上何も起こらないってこと。


「ごめんなさい、アンリ。慌て過ぎたわ。合言葉は『アイツを殺せ』だったわ、それよりね、ピーターが死んだの! それで慌てたのよ」

 僕は背中のナイフを放した。合言葉は正解だ。それにピーターが死んだ? イヤなヤツだったけど、それは別の話だよ。

「お母さん、なんだね? どうしてすぐ合言葉を言わなかったの?」

「ごめんなさい、ピーターが襲われて慌てたのよ、あなたにも何か起きたんじゃないかって」

「お願い、驚かせないで。僕、お母さんのこと……」

殺すところだった。出来ないまでもナイフを向けるところだった。今になって胸が苦しいくらいにドキドキしてくる。


「ピーターが死んだのはなぜ?」

お母さんは厳しい顔をした。

「母親が姿を消したわ。その場にいたお父さんが嘆き悲しんでるって、今通りで聞いたの。きっとあのミミックに殺られたんだわ……どうしたの?」

 ピーターが死んだ。お母さんが消えた。そして……お父さんはそばにいたのに生きて嘆き悲しんでいるって。

「水飲みたい」

そう言って台所に行く。

 水は飲んだけど、それが目的じゃない。水を飲んだのは頭をしゃんとさせたかったからと、急に喉がカラカラになったせい。そして手の汗を拭うため。

 お母さんが台所に来た。

「ショックなのね? 近くにリピドーが来たんだもの、当然よ。これからはあなたから離れないから」

「お母さん。お願いがあるの」

「なに?」

「今はおじさんの姿になってほしいんだ。お母さんの姿でリピドーのこと話すのがイヤなの、知ってるでしょ? ピーターが死んだって言う話、お母さんとするのイヤだ」

「でも……もうおじさんの役目は終わったと思うわ。あなたをちゃんとハンターに育てたんだし」

「それでも。僕が今話したいのはおじさんなんだ」


 お母さんの姿をしたソレがじっと僕を見た。


「どうして分かった」

「あんたは家族を食べ残すようなリピドーじゃないから。お父さんの方も食べたんでしょ?」

「父親がリピドーかもしれない」

「ううん。嘘ついたあんたがリピドーだよ」

「なるほどね…… アイツはずい分お前を教育したんだな。おじさんに拘ったのはなぜだ?」

「だって、あんたはおじさんを食べてないから。生きてる相手を食べなきゃその姿になれないんだよね」

「たいしたもんだ。咄嗟の判断で俺を振り分けたんだな?」

「お母さんをどうしたの? ホントのお母さんって言う意味じゃないよ。お母さんの姿で僕を育ててくれたリピドーの方」

「リピドーを食う習慣はないんだけどね」

そう言ってニヤッと笑った、お母さんの顔で。

 どうしてだろう、あのお母さんだって本物じゃなかったのに、コイツには鳥肌が立ってくる。それに、お母さんが? コイツに負けたの?

「なんでアイツを受け入れた?」

「ホントのことしか言わないから。ね、こんなお喋りやめようよ。僕を食べに来たんでしょ? さっさとやったら?」

「怯えてないのに? 泣いて喚いてくれないか? 食べる気が失せる」


 とっくに僕の目は涙で霞み始めてるし、手はブルブルと震えそうになっている…… 喉に熱い塊があって、上手に息が吸えない。

 なんで? ホントのお母さんじゃないのにすごく辛い…… なんで? なんでお母さん、こんなヤツに負けたの? もう会えないの? もっとお母さんのハニーブレッド食べたかったよ……


 僕はぐいっと拳で目を拭いた。2つの意味で僕はコイツを倒さなくちゃいけない。『お母さん』と『お母さん』を殺された。こんなヤツに食い殺されたんだ。だから、冷静にならなくちゃいけない。

 おじさんの声が聞こえ始めた。

『いいか、手をケガしたってどうってことねぇんだ。そんなことはどうだっていい。目的は喉の奥を突くことなんだからな』

(うん、おじさん。分かってるよ。アイツが僕を捕まえて食べようとするのを見ながら、大きく口を開けるのを待つんだよね? ちゃんと出来るよ。腹が立ってるから)

 僕が練習でうまく行ったのは、たいがい頭に来た時だった。おじさんが僕にいろいろ言うんだ、『下手くそ!』『そんなんじゃ死なねぇぞ』『頭に脳みそ入ってんのか?』

 そして僕は頭にきて、ちゃんとおじさんの喉の奥に拳をブチ当てた。


 後ろに下がる。壁に背中をつけた。相手から目を離さない。見えない方から捕まったら反撃なんて出来ない。


「ま、いいや。若い肉を食うのって堪んないからな。お前も母親の顔が近づいてそれに食いつかれるのってゾクゾクするだろ? 滅多にない体験ができるぞ」

「僕のお母さんの顔、やめて。それだけはやめて」

コイツはニッと笑った。僕が弱気になったと思ってる。

「なに言ってるんだ? 懐かしい顔を見ながら死ねるんだだ。これ以上の幸せはないだろ」

「お母さんの顔はやめてよ! それはイヤだ!」

リピドーはもう何も言わないで笑顔のままテーブルも椅子もなぎ倒して僕の前に立った。

 僕の右手を掴んで大きく口を開け始める。背中のナイフを握った。きれいなはずのお母さんの白い歯がだんだん鋭い鮫みたいなたくさんの歯に変わって行く。僕はそれを見ていた。ナイフを掴んでる左手に力が入る。喉の奥が良く見えた。あんまり大きく口を開けるとリピドーは目が後ろに少し引っ込む。その瞬間が狙い目。

 僕は正しくナイフをその奥に突き立てた。何も考えなかった、殺すこと以外は。自分が3番目のお母さんの顔にナイフを刺したことを考えたのは刺してからだ。

(僕は……お母さんとお母さんの敵を討つためにお母さんの姿にナイフを……)


 僕を掴んでいたリピドーの手が緩んで僕は落ちた。涙が出たのはそれが痛かったからじゃない。これで僕は一人っきりだ……

 ナイフを落として僕は泣いていた。本当に誰もいなくなっちゃった…… けど目の前から変な音がした。袖で目を拭くとゼリーになったリピドーから母さんの顔が真ん中で切り裂いたみたいに2つに割れて怒鳴った……

(は、きた、い)

そのまま僕は吐いた、もう涙と鼻水と吐いたものでぐちゃぐちゃ。

「あいつにおしえられたか、よくもやったな、おまえをとかしながら食ってやる」

僕の足が徐々にゼリーに覆われていく…… 肌が焼けそうなほど痛いのって、本当に溶かされてるせい? 僕は失敗したんだ、ナイフは奥まで届いちゃいなかった。

(いいや…… もういい、全部終わる。痛いけど、苦しいけど、全部終わるから)


 凄い音がして玄関が壊れるような音を立てて開いた。

「アンリ!」

あの声って……

「おじさん! おじさん、おじさん!」

台所に飛び込んできたおじさんはおじさんの顔をしてなかったけど、それでも僕にはちゃんとおじさんだと分かった。首から上がゼリーになってゆらゆら揺れてる。嬉しいけどすごく気持ちが悪い。なのにやっぱり嬉しい。

 前に言われたことを思い出した。

『ゼリーになってる時のリピドーは倒せない』

「おじさん! 助けて!」

 覚悟したのに。終わるってホッとしてたのに。でも、でもやっぱり死にたくないよ……

「今助ける!」

おじさんの声でリピドーの動きが止まった。

 裂けたお母さんの顔が180度ぐるっと回っておじさんを見た。僕はもう一度吐いた。気持ちが悪い、ゼリーの中からにゅっと突き出た割れてるお母さんがいきなり頭の後ろを見せたんだから。

「生きてた? なぜ」

「うるせぇ、そいつを放せ」

「食事中に獲物を放すわけ無いだろう? なんでお前はこんな人間に拘ってるんだ」

「説明する義理はねぇ」


 二人が話してるからって、僕の足が溶け始めて痛いのは変わんない。手を伸ばしてナイフをなんとか取ったけどゼリー状になってるから何もできない。

「アンリ! いいか、良く聞け。今からお前の目の前に大きな口を開ける。躊躇うな、しっかり刺せ! いいな?」

 返事する時間もなかった。おじさんはそいつに飛び込んだ。ホントに飛び込んだんだ、融けながら。

「や、やめろ!」

おじさんがリピドーに混ざっていく……

 完全にリピドーの中におじさんは入って融け合った。混ざりながらリピドー全体が苦しんでいる。形が捩れたり浮きそうになったり床に広がったり。僕を食べてる場合じゃなくなったみたいで、僕は足をゼリーの中から引き抜いた。ジーンズは完全に無くって、その下は火傷したみたいに真っ赤になってる。自分で見るのもぞっとしたけど皮がめくれてる場所もある。貼りついたままになってるゼリーもある。

「あ、ん、り」

目の前から声がした。でもそれはおじさんの声でも無ければお母さんの声でもなかった。

「あん、り、これか、らかおをだ、す」

「おじさん!」

「おくま、でちゃ、んとさせ」

 出てきたのは見たこともない顔。そうだ、知らない顔の方が僕がやりやすいってきっと思ったんだ。だって……だっておじさんが刺せって言ってるのはおじさんのことなんだから。おじさんの喉にナイフを刺すってことなんだから。

「できないよ…… できない、したくないよっ! おじさん、おじさん」

「ば、かやろ、こ、れしかおま、えがた、すかるみち、はな、い」

おじさんはどんどん大きく口を開け始めた。どこからどこまでがおじさんなのか分からないほど混ざってる。

 大きく開いた口にナイフを向けたけど、やっぱり僕には出来ない……

「おじさん…… 僕食べられていい! おじさんが逃げて!」

 どこがどうなのか分からない、あちこちにナイフを突き立てる、もう倒せるなんて、倒そうなんて、そんなことはどうでもいいんだ、おじさんを助けるんだ!


「ば、か」


 おじさんのしてることがよく分からないまま僕は見ていた。大きく空けた口でゼリーを……食べている……

 うぇ、え、ぅげ……

僕はまた吐いていた…… だって、自分を、食べてる……

 もう一つ口が開いた。それも自分を食べ始めた。僕はきっと悪夢を見てるんだ。どっちが優勢なんだろう、一つに見えるゼリーが減っていく。どんどん小さくなっていく。残るのは、なに? 僕が見るのはなんなの? すごく壮絶で目が離れない…… 最後を見たくないのに、でも目が離れない……

 いきなり分かれた。分離、っていうんだと思う。少し小さいのと大きいの。どっちがどっち?

 大きい方が頭をにょきっと出し始めた。僕は落したナイフを慌てて拾った。こっちにぐるっと捻じれてだんだん顔らしくなって……

「おじさん!」

「まて、ちかづくな」

 少し声がおかしい。まだ何かあるの? おじさんはふるふると体を揺らして、少しずつ大きくなっていく。なんだか……周りの空気を取り込んで風船みたいに膨れていくような感じ。

「これ以上は無理だ。元の大きさになるにはもうちょっと何か食べないと。ずい分俺も食われたからな」

「ぼくを、たべる?」

「ばぁか。お前、俺の言ったこと守らなかったな。後で拳骨落としてやる。お蔭でえらい目にあった。リピドーが食えるなんて今まで知らなかったよ」


 自分が食べたくせに。なのにすごく呆れた顔してる…… 飛びついた。嬉しいのか悲しいのか気持ち悪いのか、全部ごちゃごちゃだけどでもたった一人の家族なんだ。僕の家族なんだ。

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