さよなら、みんな
「どうするの? これから」
おじさんは家の中を見回した。
「ひでぇな、こりゃ。早いとこなんとかしないと」
「これ、どうなるの?」
足下のゼリーを見る。もうピクリとも動かない。完全におじさんが勝ったんだ、そう思うと本当に安心して、反動みたいに涙が溢れてくる。
「放っときゃたいがい溶けてなくなる……マズい!」
「なに?」
ゼリーを見ると形が歪み始めてる……
「いき、てる? まだ、しんでない?」
「いや、違う。たいがい溶けるんだ。だがたまに最後に食ったやつの姿になって固まるヤツがいる。こいつ、溶けていかねぇ」
「じゃ、残るってこと?」
おじさんはじっと僕を見た。
「アンリ、逃げるぞ」
「え? どうして?」
「こいつが最後に食ったのはお前だ」
「だって、おじさんは!?」
「生き物の話だよ、分かるか? 真っ当な生き物。俺は違う」
そう言っている間に少しずつ人間になり始めている。僕、もう一回吐くんだろうか。自分の、僕の死体を見て。
「でも……でも、僕が本物だ、本物だって分かるでしょ!?」
「そうはいかない。俺たちリピドーの特性は化けた相手そのものになるってことだ。DNAまでな。お前が二人いることになっちまう。下手するとお前、研究所送りになるぞ。じゃなくても普通の生活はもうできなくなる」
「じゃ、どうしたら……」
こんなことって…… どんどん僕の姿になっていくリピドー。おじさんの言う通りなら、こいつも『アンリ』ってことになる。僕が二人。
「お、じさ」
「なんだ」
「はきたい、はけない、はくもの、ない」
「じゃ水でも飲んどけ。待ってろ」
おじさんはいつだって冷静に考える。冷たい水をもらって少し落ち着いた。
遠くからパトカーの鳴らす音が聞こえた。
「チッ! 誰か通報しやがったな。時間がねぇ! おい、必要なもん持って出るぞ!」
「なんで…… なんで僕の方が逃げなきゃなんないの…… 僕の家だ、僕のものなんだ、ここの、全部、僕の」
ほっぺたが熱くなった…… おじさんが真面目な顔で僕を見下ろす。
「悪いがな、ヒマがねぇんだ、お前のグズグズ言ってる無駄話を聞いてる時間がな。キャンプん時のバッグに急いで着替えを詰めろ! 取り敢えずでいい、後は買う。金は俺が持ってるから大丈夫だ、急げっ、何も考えずに動け!」
何も考えずに。そうだよね、そうじゃなきゃ動けない…… 言われた通りにバッグの中にクローゼットにあるものを突っ込んだ。見回しても何が必要で何が要らないかが分からない。途中で躓きそうになりながら下に駆け下りた。
おじさんは上着を羽織って僕のナイフを拾うところだった。
「行くぞ! 近所も騒ぎ出してる!」
気がつかなかったけど、戦っている間はきっと相当な音を立ててたんだ。僕も喚いてたし。多分喚きっ放しだった。
後について出るとおじさんはバイクに跨った。バイクに乗れるなんて知らなかったし、バイクがあることだって知らなかった。
「バッグ、寄こせ! 後ろに乗れ! 俺に摑まるんだ!」
もうサイレンが近い。僕はおじさんの腰にしっかり掴まった。走り出す直前に後ろを振り向く。
生まれたのはこの家だ。お父さんもお母さんも一緒にこの家に住んでたんだ…… あそこには『死んでるアンリ』がいる。解剖っていうのをされても僕でしかない『死んでるアンリ』が。
寂しくて、悲しくて、辛いはずだけどどれも浮かばない。ただ心の中で呟いた。
(さよなら。さよなら、本当の僕のもの。本当の僕の思い出。全部、全部さよなら)
表通りを避けてさっさと町を出た。おじさんはただ突っ走っていく。故郷のアッセンからどんどん遠ざかっていく……
僕にはもうおじさんしかいない。だからぎゅっと掴まってる腕に力を入れた。気持ちが伝わったのかな…… おじさんの叫ぶ声が聞こえた。
「アンリ! 次にダイナー見つけたら入るぞ! それまで待ってろ!」
「お腹空いてないよ……」
「聞こえねぇぞ!」
「お腹、空いてない」
「なに言ってんのか分かんねぇ!」
「お腹、空いてないってば!」
「そんだけ叫べりゃ食えるさ! いい子だ!」
涙が…… 涙が止まんないよ…… アッセンが……遠くなるよ……
ダイナーより先にモーテルが見つかった。おじさんは受付に行って部屋を取ってくれた。荷物を持ってるせいか歩きにくくて
「来い…… お前、足どうした!」
「足?」
自分の、あしを、……
「はくもの、ない、よ」
「食ってないからな」
当たり前のこと言ってるおじさんが、途端に可笑しくなった。引き攣るように笑いがこみ上げる、骨だけになってる僕の足を見て、靴もとっくにどっかで脱げて、ズボンの切れ端の間から骨が、真っ白な骨が、食べてないから吐くものがないんだっていうおじさんの言葉で、僕の、足が、溶けてる……
そのまま気を失った……
悪夢を見てた。所狭しとゼリーがへばりついてる。それが膝まで上がって来る。そこを溶かして食べてる、僕の体が沈んでいく、下から食べられて、体が低くなって、叫んだ、思い切り、助けて、って、おじさん! って……
「アンリ! 俺はここだ、しっかりしろ!」
震えながら目を開けた。おじさんが覗き込んでいた。手を握ってくれてる。
「分かるか? アンリ、俺だ」
「おじさんの名前知らないんだ、僕は」
自分が何を言いたいのかも分からない。
「俺は…… 後で好きな名前つけろ。よく聞くんだ。お前の右足は骨だけになってる。気づかなかったのは俺たちがそれどころじゃなかったからだろう」
「どうして痛くないの?」
「肉がきれいに溶けたんだよ。きっと神経も遮断しちまってるんだ。左足、爪先までで終わってるからそれ以上何も感じないだろ? それと同じさ。まったく存在していない」
「それっていいことだよね」
僕はまた笑い出しそうになってる。
ほっぺたを抓られた。
「ヒステリックになるんじゃない。感情に支配されるな」
「無理だよ、僕は人間なんだ。おじさんと違う」
別にヤケになってるんじゃない。本当のことを言ってるだけ。
「言うじゃねぇか。そんだけ俺に減らず口を叩けるならやっていけるだろ。これからあることをやってみる」
「あること?」
「無かった感覚を蘇らせるんだ、ひどく痛むかもしれねぇ。その挙句失敗する可能性も高い。決めるのはお前に任せる。お前の足を作る」
足を。作る。
「なにをいってるの?」
「考えたんだ。俺たちリピドーの特性は食ったもんの遺伝子から何から受け継いで再生することが出来るってことだ。俺を少し分離させてお前の足に貼り付けたらどうなるか試してみないか?」
言ってることが想像も出来なくて何度も目をパチパチとさせた。分離したおじさんをこの骨だけの足に貼り付ける。そしたらその能力で僕の足を再現できる……かもしれない。それで失敗したら?
「失敗したら義足になるのかな」
「かもしれねぇな」
「なにもしなくても、だよね?」
「だな」
「痛い?」
「かもな」
「……」
「聞くことが無いなら決めろ」
「今?」
「今。こういうのに時間かけて決めるな。どうせみっともねぇことになる。さっさと決めちまえ。勢いってのはな、こういう時にはうんと役に立つもんさ。今決めらんなきゃ一生決めらんねぇよ。そういうもんだ」
おじさんはいつも正しいことを言う。そして僕もそう思う。今なら『怖気づく』って感情も無いんだ。いろいろあり過ぎて考えるのがすごくとろくさくなってる。
「やって。縛る? 騒ぐかもしんない」
「まず猿轡だな。喚かれたんじゃ通報されちまう。後はそうだな、お前の言う通り縛ろう」
おじさんはテキパキと用意を始めた。そして、用意を済ませた。ホントに他人事みたいに。そうだよね、他人事なんだからしょうがない。
「さて、やるか」
猿轡で声が出せない僕は頷いた。おじさんがナイフで自分の腹を削り始める。
(失敗した)
どうせなら目も塞いでもらうんだった。
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