誕生日-1
11歳の誕生日の日、僕はすっかりそのことを忘れていた。学校から帰ると玄関の外までハニーブレッドの匂いがする。
「お母さん! ハニーブレッド焼いたの!?」
「ハイ、アンリ! 11歳おめでとう」
「わ! そうだった! サプライズだね、ありがとう」
「いいのよ。どうする? 後にする?」
「今食べる!」
3時過ぎだし、今食べてもきっと夕食は食べられる。
手を洗ってテーブルに着くと、水、ジュース、ミルクがあった。そりゃ誕生日なんだけど。
「どうしたの? 今日はいつもよりサービスしてくれてるよ」
「そんなことないわ。私はいつもアンリには優しいはずよ。そうじゃなかった?」
考えてみる。確かにお母さんは僕に関しては他のことより頑張ってくれてると思う。
「そうだね。ごめんなさい、良くない言い方しちゃった」
お母さんはすごくきれいな笑顔を見せてくれた。
「いいのよ。それにね、今日は特別な誕生日なの。だからなんでも言って。出来ることはやってあげる。ショッピングに行ってもいいし」
「特別?」
なんかいやな感じがする。このお母さんの『特別』っていうのは、本当に『普通じゃない』っていう意味だ、いいことじゃないってこと。
「そう、特別なの。先に食べましょう。その後、話したいことがあるから」
「ハニーブレッド、一緒に食べてくれるの!?」
「ええ。私も楽しんでみたいから」
お母さんはハニーブレッドを一緒に食べたことがない。好きじゃないんだって言ってた。本当に『特別』なんだってドキドキしてくる。
食べてる間は普通のお喋りをした。学校のことがほとんどだけど。
「いけ好かないピーターは今日もいけ好かなかった?」
「そうだね。あいつがいいヤツだって思う時なんかないよ」
「なんとかしましょうか?」
慌てて手を振った。
「いい! 自分で考えながらやってくから。お母さんは何もしなくていいよ。ありがとう」
そんなことお母さんに頼んだら大変なことになっちゃう。『次の日からピーターはいなくなりました』なんてこと、聞きたくない。
「そう? いつでも言ってね。あんなののために我慢なんかしなくていいわ」
「分かった。でもね、我慢するってことも勉強の一つなんだ。なんでも、じゃないよ! ピーターのことではそうだって思ってるんだ」
お母さんが微笑む。
「よく考える子に育ってくれて本当に嬉しい。これからも真っ直ぐに育ってね」
(きっとよっぽどの話なんだ)
そう思った。僕の勘はよく当たる。
食べ終わって、ホットミルクをもらった。僕はこれが好きなんだ。さっきミルクは少ししか飲まなかったから作ってくれたのかもしれない。
「ソファに行きましょう」
「大事な話なんだね」
「そうよ。お母さんのこと。本当の」
本当のお母さんのこと。死んだお母さんのことだ! そんなことを話すなんて初めてだ。
ソファに落ち着くとお母さんは真面目な顔になった。
「私があなたのお母さんになったことから話そうかと思ってるの。施設に入っていた間のことも」
「ちょっと待って。それ、お母さんが死んだときの話もするの?」
「ええ。本当のことを全部」
そんな話をするなんて思ってもいなかった。
「そういう話ならお母さんの顔で言わないで。知らない人がいい、あんまり冴えないおじさんみたいなの」
「そうなの? 待ってて」
「ええ! ここでするの? 見たくないんだけど」
「慣れないと。これからは必要になるかもしれないし」
僕の返事なんか聞かないでお母さんの顔が崩れていく。体も溶け始めてゼリーみたいになり始めた。途中で止まって、中からにゅっとお母さんの顔が出て来た。悪趣味だ、こんなの。
「今まで見たこと無い人がいいってこと?」
「そう言ったでしょ! お願い、お母さんの顔だけ出さないでよ」
「あ、ごめんなさい。手っ取り早かったもんだから」
また崩れ始めて、すごく思った。
(お母さんの顔が崩れていくの、何度も見るのやだよ。そういうとこ、分かってないんだよね)
全体がゼリーみたいになってフルフルと震えてる。いつもより震えてるのが長いのは、きっと僕が会ったこと無いおじさんっていうのを思い出そうとしてるからだ。
やっとゼリーがデコボコし始めて、今日は肩からそれらしくなっていった。お腹が出ていて、どうみてもカッコよくない。でも話の中身が死んだお母さんのことならその方が僕には考えやすいんだ。お母さんの前でお母さんを考えるのはちょっとやりにくい。
やっと全体的な形が整った。不思議なのは、出来上がりがいつもちゃんと服を着ていること。確かに素っ裸で出てきたら本当に困る! 今目の前にいるおじさんが着てるのはちょっと薄汚れたようなシャツと作業ズボンみたいなヤツ。頭は前の方がハゲかかってる。
「ね、耳忘れてる」
「あ」
その声は低くて聞いたことがなかったからほっとした。せっかく顔が変わったのに聞いたことある声じゃ意味がない。
にゅっと耳が出来た。こういうドジたまに見るけど、おじさんに耳が無かったら真面目な話なんか聞いてられなくなるよ。
「俺たち『リピドー』がこういう魔物だってのはもう知ってるよな?」
「知ってる。いろいろ変わるの見てきたし。犬の時は驚いたけど。あと防犯訓練の時」
防犯訓練って言うのは、時々お母さんが仕掛けてくる罠のことだ。一人でいる時にいきなり窓を割って男が侵入してきたときは台所に走った。ペティナイフを構えるとダメ出しされたからお母さんだって分かった。
「アンリ、ペティナイフじゃだめだ。包丁の方がいい」
包丁と取り替えて油断している時に刺した。
「いったいなあ! でも60点にしとく」
そしてお母さんになった。こんな訓練をなんのためにやるのかよく分かんないけど、そのお蔭でだんだん肝が据わった子どもになっていったような気がした。
「そのためにやっているのよ」
そう笑って言われたけど。
「そういう説明をするの?」
「ちょっと違う。まあ、聞けって。こんな風にいろんなものに変われるのはなぜかってことは知らないだろう?」
「知らない。どうしてそうなれるの?」
「食ったことがあるものにはなんにでもなれるっていう特異体質なんだよ」
ちょっと僕の頭の中が止まってしまった。
(今、なんて言った?)
その間も、おじさんは何か喋ってる。
「ちょっと待って。話ストップ。食べたことがあるものにしかなれないってこと?」
「そう言ったんだが」
「じゃさ、僕のお母さんを食べたの? それで死んだの? じゃ、殺した相手にお母さんの顔で育てられてるの?」
本当のことに思えなくて、怒りもせずに聞いた。だって、そういうことだよね? いきなりそんなこと言われたって……
「何分の1かはそうなるかな。だって食わないと化けらんないんだから」
普通に喋ってるのが知らないおじさんで良かった。僕はなんだかわけが分かんない内に立ち上がってキッチンから包丁を掴んできた。
おじさんは全然慌てないで頷いてる。
「ん。そうだな。いい判断だ。良かった、安心した」
なんだよ、それって……
「どう…… どう安心なの? どんな気持ちでそばにいたの? 教えてよ、どうして僕にそんな話すんの? 聞きたくなんかなかったよ! なんでだよ…… 話さなくたって良かったじゃないか…… お母さんを、食べた、って、お母さんを、お母さんを」
おじさんが立った。僕の前に来て僕の手を掴んで、そして僕の手を真っ直ぐに自分のお腹にぴったりくっつくまで引っ張った。構えた包丁が柔らかいものにめり込んでいく感触……
「やめて……やめてよ…… こんなことしたくない、したくないよ、やだよ、お母さんっ!」
「バカヤローっ!」
包丁をお腹に突き立てたままの僕の手を放さずにおじさんは僕を引っ叩いた……
そしてそのまま抱きしめられて……
「いいか、お前の今の行動、俺は嬉しいんだ。当たり前の反応だからさ。俺が育てちまったからどっかお前は冷めた人間になりかけてた。その、なんだっけ…… 客観的見方ってヤツをいつもしてる、そんなヤツになりかけてたんだよ。でもな、お母さんを食ったって言う俺に包丁向けたろ? お前の感情が生きてるって証拠だ」
おじさんの腕の中で僕は泣いてた…… 声が止まんなくて、どんどん大きくなって、わあわあ、わあわあ……
「どう、して? なんで」
「なぜ話したのかって?」
「うん」
包丁を握ったままの手がいやだ。それが刺さってるお腹もいやだ。防犯訓練の時はそんなのあんまり思わなかったのに、痛そうなのに、ぜんぜん普通にしてて、でも痛そうなのに。
「手、放したい」
「あ、そうだった」
おじさんは僕の手を引き剥がしてくれた。まるでくっついたみたいだったから。やっと放れても手の形がそのままだ。おじさんは包丁はほったらかしで僕の手を揉んでる。
「固まっちまったな。大丈夫だ、緊張しすぎるとこうなる時がある」
「血、出てるよ」
「これか? らしいだろ? でも見るのいやか」
おじさんは片手で包丁を引っこ抜いてキッチンテーブルの方に放った。そして空いた穴を埋めるみたいにお腹をくちゅくちゅってして見せてくれた。
「ほら、安心したか?」
もう傷の痕はない。ないんだけど、まるで捏ねた粘土に血が混じってるみたいな色になってる。
「赤いよ…… 血だよ」
「細かいな、お前は」
そう言って周りの肉を引っ張ってその上にかぶせてる。
「これならいいか?」
「うん」
周りの色と同じになってほっとした。僕は手を洗っておじさんのところに戻った。
「じゃ、座れ。まだ話は終わってないんだ」
言われた通りに座った。
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