第一部 第1話 今はあなたが母だから
『お母さん』という人
「アンリ、どこに行ったの? 隠れてないで出てらっしゃい」
お母さんの呼ぶ声。大好きな声。施設に迎えに来てくれた時に聞いた声はとてもきれいだと思った。そしてすごく優しい話し方をするんだ。
けど、もっと好きな喋り方がある。もうすぐそれが飛び出してくる。胸がどきどきしてきた。
「アンリ、手間かけないでちょうだい。パンが冷えてしまうわ。あなたの好きなハニーブレッドよ」
つい出て行きそうになった。だってお母さんの焼くハニーブレッドはとても美味しいんだ! でも、我慢。きっとそろそろお母さんの方が我慢できなくなる。
「このクソがきゃ! 出て来いっつってんだろ! さっさと出てきて食いやがれ!」
やった! これを待ってたんだ、普段と違う声。こういうの『ドスの利いた声』って言うんだよね、きっと。僕を子どもとして見るのをやめた時にこんな声が出てくる。こんな言い方になる。
「お母さん、ごめんね! 呼ばれたの聞こえてなかった」
「いい加減にしろよ、俺を試すの。いいからとっとと食え!」
「お母さん、もう僕ここにいるんだよ」
「……そうだったわね。ごめんなさい、乱暴なことを言って」
その後はとても優しい声と言葉。にこっと笑うきれいなお母さん。
お母さんは死んだ。それをちゃんと覚えてる。こんな風にきれいに笑う人で、やっぱりハニーブレッドが美味しかった。僕にはすぐに分かったんだ、(この人は本当のお母さんじゃない)。けど、施設はいやだった。ご飯は美味しくないし、寒くても施設の中の礼拝堂でずっとお祈りを聞いてなくちゃならない。くしゃみや音なんか立てたら居残りさせられてしまうからただじっとして終わるのを待っている。後はお掃除したり、勉強。あそこの人たちは『休み時間』っていうのを知らないってみんなが言っていた。
でも『お母さん』が来た。だからその手を握って僕はみんなにさようならをした。死んでるお母さんに掴まって。
「あら、知ってたの? そうよ、あなたのお母さんは死んでるの」
思い切って聞いた時さらっと来た返事で、僕は胸のつかえが下りたみたいにほっとした。そうだ、お母さんはやっぱり死んでいた。
「じゃ、お母さんはだれ?」
「いいんじゃないの? 『お母さん』で。どこが違うの? 人間かそうじゃないかってことくらいでしょ? アンリに何か困ることある?」
不思議な不思議なお母さん。僕はすんなりと受け入れた。この時、7歳。
今日の僕はちょっと機嫌が悪い。6年生になる進級テストで落ちて同じクラスになったピーターは、お母さん風に言うと「クセが悪い」。
授業はハリス先生が休みだったせいでほとんど無いのと同じ。代理担任のマッカーシー先生が「SNS」について勉強しよう、なんて言い出したからクラスは大騒ぎだ。ハッシュタグがやたら増えるから途中からうんざりしてくる。
ピーターが追加したタグは『みんなでピアスしよう!』。冗談から始まったはずが、いつの間にかみんなが熱くなってた。
「なんだよ、お前は反対派か?」
年上だからっていうんでいつも上から目線でものを言う。特に僕には。
「別に自由だろ? 強制って変だよ。いやだって言えない子だっているんだし」
「じゃ、アンケート取ろうぜ。それなら無記名投票で公平だろ」
そして出されたアンケート。
〇クラス全員でピアスをする
〇女子は右、男子は左耳にピアスをする
〇2個以上ピアスをしたい
〇耳以外にもしたい
女子からの不満の声は、「どうして右にしなくちゃいけないの!? それって男女差別でしょ! 男は守る側だって言いたいわけ?」
右のピアスは『守られたい』、左は『守りたい』だなんて初めて知った。
「そんなことよりさ! なんだよ、このアンケート。しないっていう選択がないけど!」
「だって俺のタグは『みんなでしよう』だぜ? 当然しないなんてのは無しだ」
俯いてる子だっている。家が厳しかったり、そんなゆとりが家に無いとか。別にその代表ってわけじゃなかったけど、出来ない、したくないって思ってる子の中で一番ものを言うのは僕だ。だから『しない派閥の会長』とかピーターが言い出した。
「うるさいな! こんなのどうせ冗談だろ? 真剣に話すことでもないよ」
「だって授業だぞ、冗談ってなんだよ!」
ピーターにも腹が立ったけど、マッカーシー先生にも腹が立った。
「先生! これ、強制ってわけじゃないですよね!」
「うーん、そこはみんなで決めるとこじゃないか?」
「ピアスするかどうかみんなで決めるなんておかしいよ!」
「そういう意見があるなら…… ピーター、したい子だけで先にやったら?」
「色決めてやる方がいいって思うけど。みんな、どうだ?」
こうなるとマッカーシー先生は口を閉じてしまう。提案だけして『後はお好きに』ってヤツだ。
放課後にまで話がもつれ込みそうになったから僕はバッグを持ってさっさと立った。
「帰るよ。一緒に帰るヤツいる?」
僕に乗っかるように何人かの子が急いでバッグを持った。
「お前ら、覚えてろよ! SNSでお前らのこと晒すからな!」
バッグを下ろして僕がやったことは一つ。ピーターの前に行って足を蹴飛ばしたことだ。顔を叩くのは禁止されてるから。
「それで私が呼ばれたんですか?」
校長先生の前で座りもせず腕を組んで立ってるお母さん。こういう時のお母さんはすごく男らしい。でもここは学校だからちょっと困る。
「お母さん、座ろうよ」
振り返ったお母さんは僕が睨んだらすぐに座った。でも小さな舌打ちがしっかり聞こえてる。お母さんの舌打ちはプロ級だ。
「それでピアスを全員つけることになったんですか?」
「いえ、そんなことになるはずないじゃないですか。そういう心配なら要りませんよ。でも話し合わずに足を蹴って暴力で問題を解決しようとしたアンリには感心しませんね」
「そうですよね。アンリ、どうして殴らなかったの?」
ちょっとため息が出る。お母さんは『独特の世界』っていうのを持ってるから時々人間社会の考え方が
結局押し問答が続きそうになったから、「校長先生。もう人を蹴りません」と言って終わりにした。最後に、「明日、ピーターに謝りなさいね」と言われたからカチンと来たけど。
帰りの車の中で僕が口を利かないからお母さんは急停車した。
「なんか文句あるのか?」
「言っても無駄でしょ?」
「そういって物事を投げだすな!」
「お母さんの記憶を探ってよ! そしたら分かると思うけど」
お母さんが目を閉じる。一生懸命考えてるから黙って待った。しばらくしてやっと目を開けた。
「そうだった…… 大人同士ってのは『うまく折り合いをつける』っていうめんどくさいことをするんだったな」
「ねぇ、いつも言うけどさ、お母さんのかっこしてるんだからそういう喋り方やめてよ」
「……まったくもう。アンリはうるさいんだから。夕食はラザニアを作ってあげるからそれで手を打ってちょうだい。他人のことであなたとケンカするのはいやよ」
「分かった。手を打つよ。ね、明日は授業が1時からだから朝はハニーブレッド作ってよ」
チッ! と聞こえたから「なに?」とキツい言い方をした。
「なんでもないわ。じゃ、その代わり早起きしてちょうだい。卵の担当はアンリなんだから」
「分かった」
これでようやく仲直りができた。
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