大切な笑顔(「赤いきつね」「緑のたぬき」幸せしみるショートストーリーコンテスト)

登美川ステファニイ

大切な笑顔

「わーっ! 結構いい眺めじゃん!」

 引っ越しの段ボールを抱えたまま莉愛りあが歓声を上げる。まだカーテンを付けていないベランダのガラス戸越しに、川の堤防の桜並木が見えた。青い空をバックに桜の色が映えている。先月に、莉愛の代わりに内見に来た時はまだ桜の時期には早く、しかも雨だったから気付きもしなかった。

「おい、あんまり素っ頓狂な声は出すなよ。恥ずかしい」

 私も心の中では綺麗だなとは思ったが、声に出すほどのことはなかった。莉愛は何かにつけてよく驚く。妻は静かなタイプだし、私も騒ぐ方じゃない。莉愛のこの性格は一体誰に似たのか。しかし、この素っ頓狂な声ともお別れだ。四日後にはここで莉愛の新生活が始まる。

 抱えていた段ボールを壁際に下ろす。莉愛はまだ荷物を抱えたままでベランダの外を見ていた。桜なんて家の近くでも見られるのに。そうは思ったが、やはり別なのだろう。この部屋は莉愛の場所。人生が大きく変わり、動き出す場所だ。その門出にふさわしい眺めなのだろう。

 1DKの南向きの部屋。四階まで荷物を運ぶのは難儀だが、その代わり見晴らしはいい。といっても所詮は住宅地で、面白いものがあるわけでもない。桜は綺麗だが、それもあと二週間ほどだろう。莉愛はここで大学の四年間を過ごす。初めての独り暮らし。期待や興奮で胸がいっぱいといった様子だ。

「へえ、桜が見えるの。いいじゃない」

 良枝がスーパーの袋を二つぶら下げて入ってくる。中にはさっき買ってきたばかりのカップ麺や飲み物、お菓子が入っている。

「それ、最後でいいだろ? まだ冷蔵庫も設置してないんだから」

「えー? 別にいいじゃない。それに車の中だと結構あったかいから、飲み物がぬるくなっちゃう。よいしょ、と」

 袋を下げたまま靴を脱ぎ、良枝は流しの前に袋を置いた。

「冷蔵庫は後にする? 先にする?」

 手を洗いながら良枝が聞いてくる。

「先にする。最後にやると力尽きそうだ」

 そう言うと、手を拭きながら良枝は笑った。

「そうね。それが良さそう」

「早く冷蔵庫持ってきてよ。さっきのジュース入れて初冷蔵するから」

 莉愛がようやく抱えていた段ボール箱を下ろした。そして居室の中で手を広げ大きさを測るようにしてあちこちを見ている。家具の配置を考えているようだ。

「何だよ、初冷蔵って。でも駄目だな。冷蔵庫は中のガスが偏っているとうまく動かないから、一日くらいは電気をつけずに放置しとかないといけない」

「は?! 聞いてないけど、そんなこと?」

「そうはいっても昔からそう言うからな。横にはしていないが、それなりに揺れてるから安静にしておいた方がいいはずだ」

「ええーっ、そうなのぉー? まあいいや。さっさと運んじゃおう……」

 あからさまに肩を落とし、莉愛が部屋の外に出ていった。トボトボという効果音が似合いそうな歩き方だった。

「あら、本当に綺麗ね」

 良枝もベランダの近くに寄って桜並木を眺める。

「何だか得をした気分だろ」

「そうね。でも夏は暑そう」

「冬に湿っぽいよりはいいだろ」

「ふふ。ま、一長一短ね。じゃあ冷蔵庫運んじゃいましょう。あれ、あの子は?」

「さっき出て行ったよ。まだ下にいるんじゃないか」

 玄関の方を見るとドアはストッパーで二十センチほど開いたままになっていた。莉愛の姿はない。

「どうせあなた一人で運ぶんだし、まあいいか。じゃあ私たちは細かいの運んでいくから」

「手伝いたかったら手伝ってもいいぞ」

「やーよ。爪が割れちゃう」

 等と言いながら駐車場まで降りていく。その途中で荷物を抱えた莉愛とすれ違う。

「二人ともさぼってないで働いてよ!」

 すれ違い様に莉愛が肩にタックルしてくる。

「ただ働きさせておいて、何だよその態度は。冷蔵庫運ばないぞ」

「弱みに付け込むなんて卑劣だよ、お父さん」

 莉愛は捨て台詞を残して階段を上って行った。

「何だかはしゃいでるわね」

「全くだな。子供だな、やっぱり」

「あなたもよ、お父さん」

「そうか?」

 そうだろうか? いつもと変わらないつもりだが、しかしまあ大学に受かって娘が独り立ちするのだ。はしゃぐかどうかはともかく、何も感じないわけではない。感激、感動、感傷。胸に穴が開いたような、そんな気もする。ついこの間までよちよち歩いていたような気がするのに、もうすぐ十九歳だ。そしてやがて大人になり、一人で生きていくようになる。いつかは結婚もするのだろう。それを思うと嬉しいような寂しいような、そんな気持ちになる。

 一階まで下りて駐車場のレンタカーの所に行く。積んである冷蔵庫を左右にずらしながら少しずつ動かし、そして底面を抱えるように持つ。

「本当、大丈夫なの? なんかすぐに転びそう」

「だったら……手伝えよ……」

 それほど重くはないが容積が大きく抱えづらい。それでも110Lとまだ小さい方だ。出来れば二人で運びたいところだが、俺一人で何とかなるだろうと言ってしまった手前、このまま運ばざるを得ない。

「ま、頑張って」

 良枝は素っ気なくそう言って、小さい段ボールを抱えて先に行ってしまった。

 まるでシーシュポスだ。いやしかし、冷蔵庫が転がり落ちたら洒落にならない。ここはまじめに運ばないと。

 一階から二階へ。二階から三階へ。三階から四階へ。一歩ずつ段を確かめながら上っていく。途中で誰にもすれ違わなかったのが幸いだ。冷蔵庫は転げ落ちることもなく、何とか部屋にたどり着いた。

「あ、来た。遅ーい! 待ってたんだよ、運んでくるの」

 最早何かを答える余裕もなく、無言で冷蔵庫を運ぶ。何とか玄関の上がり框まで運び、そこに下ろした。

 疲れた、という元気さえもなかった。

「うわ、死にそうになってる。おじいちゃんじゃん」

「ほんとねえ」

 そう言って二人で笑っていた。

 良枝も莉愛も、なんという薄情な奴らだ。だがまあ、一番重いものを運んだから気は楽だ。後は机だが、折り畳みの奴で大して重くも大きくもないから大丈夫だろう。

 こうやって荷物を運んで改めて実感する。莉愛はここで生活を始めるのだ。この冷蔵庫も、机も、こまごました生活用品も、全て莉愛の新生活のためのものだ。荷物の重さと一緒に、娘が自分の手から離れていくように感じる。

「ほら、休んでないで次の荷物を運んでよ。早くしないとお昼になっちゃう。引っ越し蕎麦食べるんだから。あ、最中食べる?」

 莉愛が私に差し出したのは、さっき買った和菓子セットの最中だった。見れば良枝も最中を手にモグモグと口を動かしていた。

「今はいらない……」

 そんなものを食べたら口の中がパサパサになる。というより何でもうお菓子を食べているのか。相変わらずマイペースな娘だ。

「そう。じゃあ、続き頑張ろう!」

 小躍りするように私の横をすり抜け、娘が出ていく。

 時間を確認すると十一時を回っていた。昼までには終わらせたいから、もうひと頑張りだ。


 その後、五往復程で荷物を運び終えた。その頃にはすっかりくたびれ、私はダイニングルームの真ん中で座って息をついていた。

 ああ、くたびれた。

 段ボールの荷物はまだ開けていないが、これは莉愛が自分でやる。だから私たちの仕事は、これで終わりだ。

 時間は十二時を少し過ぎたところ。新しく買った電気ケトルでお湯を沸かし、良枝と莉愛が引っ越し蕎麦の準備をしている。といってもカップ麺の緑のたぬきだが、蕎麦であることは違いない。

「出来たよ、お父さん。あ、出来てないや。あと二分半くらい待って」

「ああ、ありがとう」

 三人で蕎麦を囲み車座になって座る。

「夢だったんだよね~。こうして引っ越し蕎麦をみんなで食べるのが」

 莉愛がかみしめるように言った。

「そうよね。あんた昔から緑のたぬき好きだったもんね。小学生の頃、自分のお小遣いで箱で買ってた」

「え~、だって美味しいんだもん。私にとってはちょっと特別な……ごちそうかな」

「カップ麺でごちそうとは、金がかからなくていいな。だからってこればっかり食うなよ。ちゃんと野菜とか肉を食えよ」

「当たり前でしょ? 子供じゃないんだから……お、そろそろかな」

 莉愛が壁の時計を見て、カップ麺の蓋を開ける。

「お、いい感じ」

 そう言い、スマホで三つのそばの写真を撮る。

「こんなの写真撮ってどうするんだよ」

「いいじゃん。だってもうこんな機会ないでしょ? こんな風に手伝ってもらうなんて、多分一度きりだから」

「そうか」

 そう言われると、何だか突き放されたような気分になる。しかし子が親離れをするように、親も子離れをしなければいけない。その時期が来たのだ。

「あ、みんなで揃って撮ろうよ、お父さんこっち来て、真ん中、ちょっと後ろ」

「いいよ、写真なんて……」

「いいから、蕎麦持って」

 袖を引っ張られ、促されるままに移動し、蕎麦を持たされる。

「はい行くよ。はい、たぬきー」

 何だたぬきって。慣れない笑顔を作りながら、俺はそう思った。

「お、いい感じじゃん。お父さん以外は」

「この人昔から写真写り悪いのよ」

「撮るのが下手なんだよ。もういいだろ? 蕎麦がのびる。はい、いただきます」

 また車座になり、蕎麦をすする。出汁のきいたつゆと蕎麦が絶妙に合う。たまに食べると、やっぱりおいしい。莉愛が子供の頃毎日のように食べていたのも分からないではない。

「はぁ~やっぱり美味しい。緑のたぬき最高~」

 莉愛が喜色満面に言う。こうして一緒に食事をする機会も減るが、最後に、というわけでもないが、とにかく娘の笑顔が見られてよかった。この笑顔をよく覚えておこう。緑のたぬきを食べながら、私はそう思った。

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