チャム・チャムートの世界

福守りん

チャム・チャムートの世界

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。


 そう書かれた、ぺらっとした紙が、アパートのポストに入っていた。ごみ出しのついでに開けた、さびた灰色のポストの中には、いつもの朝刊と、その一枚だけ。

「『世界の終わり』?」

 手に取ってすぐに、いたずらかしらと考えた。A4サイズのコピー用紙に、インクジェットのプリンターで印刷されているように見えた。

「なーに。これ……」

 気分が悪い。急いで外の階段を上って、二階にある部屋に入る。

 鍵のかかっていないドアを開けると、コーヒーのいい匂いがした。

「新聞」

「どーぞ」

 廊下で待っていた夫に新聞を渡す。分厚いジャンパーを脱いで、玄関脇の壁にかけた。

 手に持ったままの白い紙をまじまじと見て、しばらく考えてみた。

 いたずらで、こんなことをする人がいるのかしら。本当だとして、たった七日しか残っていないとしたら、悠長に紙で配っているような場合かしら?

 もし、今テレビをつけて、ここに書かれていることと、同じことが起きたら?

「そんなこと、あるわけないか」

「どうしたの」

「ううん。なんでもない」

 二口コンロのガス台だけがあるキッチンを通り過ぎて、リビングに向かった。

 リモコンで電源を入れる。朝よく見ている情報番組だった。ちょうど、始まったばかりの……。

 初老のアナウンサーが、真面目な顔で原稿を読んでいる。

『おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました』

「えっ?」

 聞き違いかしら? でも、今たしかに……。

 今日は、四月一日だったかしら? スマートフォンの画面をのぞきこむ。

 表示されている日付は、十二月六日。もちろん、今は冬。リビングの大きな窓は、外の寒さと部屋の暖かさとの温度差で、白く曇っている。

「孝さん。たいへん」

「……なに?」

 気のない返事だった。少し離れたキッチンの前で、立ったまま、テーブルに広げた新聞を読んでいる。片手に、コーヒーの入ったカップを持っている。

 関口孝。三十五才。職業は、日本のあるメーカーの車を売るセールスマン。結婚してもう十一年になる、わたしの夫。

「世界が終わっちゃう」

「はあ?」

「だって。今、テレビでアナウンサーが言ったの」

「疲れてる? そんなこと、テレビで言う訳がないだろう」

「でも……。あと、これ。ポストに入ってたの。見て」

 紙を見せると、「どれ?」と言いながら孝さんが近づいてきた。

「いたずらじゃないのか」

「お隣りの田辺さんに、訊いてみてもいいかしら」

「なんて?」

「お宅にも、同じ紙が入っていましたかって」

「いやー。訊くとしても、今の時間じゃないだろう。昼すぎくらいにしなよ」

「そう、よね……」

「営業所で同僚に訊いてみるよ。そもそも、本当にそう言ったんだったら、SNSで大騒ぎしてるんじゃないか。僕のパソコンで、調べてみたら」

「あ、うん。そうね。見てみる」


 朝ごはんを食べさせて、孝さんを送り出した。

 わたしたちには子供がいないので、孝さんが帰ってくるまでは、まるっきり自由な時間だ。


「ない、か」

 ネットニュースには、なっていなかった。誰も騒いでいないし、怯えているようでもなさそうだった。

「田辺さんには、言わない方がよさそうね」



 午後七時すぎに、孝さんが帰ってきた。

「ねえ。誰か、朝のニュース見た人、いた?」

「訊いたんだけど。誰も見てないって。僕の頭がおかしくなったんじゃないかって、言われたよ」

「あら……。それは、ごめんなさい」

「いいけど。疲れてるんだったら、家事はほどほどに。気晴らしに、しばらく実家に帰ってもいいよ」

「疲れては、いないと思うんだけど……。やっぱり、いたずらだったのかしら」

「どうかな。明日も入ってるかもな。続くようなら、警察に相談しよう」

「そうね……。わたし、夕ごはんを食べたら、早めに寝ようと思うの。いい?」

「もちろん。僕が作ろうか?」

「それは悪いわ。大丈夫。作りおきのおかずが、いくつかあるの」


 いつものように他愛のない話をしながら、夕ごはんを食べる。

「来月の連休に、湯河原の温泉に行かない?」

「いいけど……。今から、予約がとれるかしら」

「調べておくよ。たまには贅沢しよう」

「じゃあ、お願いね。楽しみにしてる」

 孝さんは、仕事のぐちを言ったりはしない。人の悪口も言わない。孝さんと過ごす時間は、わたしにとっては、いつでも宝物のように感じられる。

 あと七日で世界が終わるのだとしても、こんな風に過ごせるなら、悪くないわ……。


 お風呂はシャワーを浴びるだけにして、ベッドだけでいっぱいの、小さな寝室に向かう。

「ねむい……」

 わたしは、すぐに意識を手ばなした。


                  ☆


 夢を見た。見た……というのは、おかしいかしら。

 今、夢を見ている。

 とても不思議な――世界の中に、わたしは立っている。

「まあ」

 パステルカラーの風景。そうとしか言えない場所に、わたしはいた。

 童話の挿絵にありそうな、淡い色の煉瓦で作られた家たち。薄だいだいの石畳が、どこまでも続いている。ミモザの木が、長い道の両はじに、たくさん生えている。

 青空。黄色の、太陽の光を集めたようなミモザの花。

「ここは、どこかしら……」

 こんな所には、行ったことがなかった。行く予定もない。

「外国……? 日本じゃ、なさそうね」

「ニホン。ニホンとは?」

 ものすごく近いところから、高い声がした。

「……えっ?」

 慌てて見まわす。小さな子供が、わたしのすぐ後ろにいた。

 背が低い。わたしの腰よりも低い位置に、顔があった。

 どこか猫のようでもある顔つきの、男の子――それとも、女の子かしら?――が、しかめっ面をしている。肌の色は白い。ほとんど白のように見える金色の髪は、肩のあたりまでのびていて、ゆるくウェーブがかかっている。それから、紫色の目。

 いろんな色の宝石を散りばめた、まるでドレスのような服を着こんでいる。

 とても、愛らしく見えた。

「かわいい! かわいいわ」

「かわいさなど、この悲惨な状況においては、なんの力にもならぬ」

「あら……。ずいぶん、大人びたしゃべり方なのね」

「世界が終わる危機である」

「あなたも、そうなの?」

「あなたも、とは?」

「わたしの世界も、あと七日で終わるらしいの」

「そなたの世界は、終わりはせぬ。終わるのは、こちらの世界だ」

「……あら、それは。ご愁傷さまです」

「幾億光年はなれた場所にも届けよと、念じてはみたのだが。われの精神に感応して呼びかけに応えたのは、そなただけであった。そういうことだ」

「ごめんなさい。なんだか、よくわからないわ」

「ここは、われらの世界『チャム・チャムート』だ」

 厳かな声だった。

「チャム・チャムート……。聞いたことないわ」

「無理もない。そなたがいる場所からは、時も場所も、遠くへだたっておる」

「わたしは、関口友香。あなたの名前は?」

「チャム・チャムート」

「この場所の名前と、同じなのね」

「そうだ。われは、この世界そのものだからな」

「世界そのもの……」

「そなた。よく参ったな。われの世界を案内しよう。こちらへ」

 チャム・チャムートが目をほそめる。笑っているようだった。


 眩しい光を背中に受けながら、石畳の上を歩いてゆく。

「この光は、太陽なのかしら」

「われも太陽と呼んでいるから、そうであろうな」

「あらっ。そうなのね」


 淡い青色の煉瓦でできた、小さな家の前に着いた。小さな手が、外側に向かって木の扉を開ける。鍵はかかっていないのねと思った。

「兄弟姉妹たちよ。来客だ」

 チャム・チャムートによく似た、けれど、もっと幼くて小さな子供たちが、家の中からわらわらと飛びだしてきた。いっぱいいる! 十人以上はいそうだった。

「まあー。かわいらしい……」

「この子らは、われの分身も同じだ。感情はそれぞれにあるのだが、われと対話するまでにはいたらぬ」

 どの子も、しょんぼりとしていた。小さな声で、なにか言っている。耳をすませて聞いてみると、「チャム・チャムート」という言葉を歌うようにくり返しているのがわかった。

「元気がないのね」

「みな、しょげかえっておる。世界が終わると知ってしまったからな。

 知らせずにいたかったのだが、それはできない。残念ながら、われの考えることは、この子らには全てつつ抜けなのだ」

「お気の毒ねえ……。ねえ、でも……。チャム・チャムートちゃん」

「一番後ろの『ちゃん』をとってくれ。むずむずして、かなわぬ」

「わかったわ。チャム・チャムート。わたしが暮らしている星も、永遠には存在できないのよ。わたし自身も、まあ、いいとこ八十年生きられれば、御の字ね」

「なんて寿命の短い。われは、すでに三十七億七千二百九十五万三千四百五十五年も生きた」

「それは、なんてすばらしい……のかしら? 長すぎる人生も、考えもののような気がするのだけど」

「そなたは、いくつなのだ」

「三十才よ」

「なんだ。ひよっこではないか」

 チャム・チャムートは鼻を鳴らした。

「わたしと夫の間には、子供がいないの。でも、もし生まれていたとしても、その子供も、いいとこ八十年生きられればいいくらいの寿命しかないわ」

「いたわしい」

 チャム・チャムートは、悲しげな顔をした。

「ううん。そんなことないのよ。いつか、終わるからこそ……。誕生する時は、それこそ大騒ぎして、みんなでお祝いするのよ。わたしの妹に赤ちゃんが生まれた時は、わたしも手伝いに行ったし、お祝いもさせてもらったわ」

「そうか」

「あと、残り七日あるんでしょう。それまで、わたしが毎日会いに来てあげる」

「残念ながら、七日目になったところで終わるので、今日を入れて六日だ」

「じゃあ、あと五回、あなたと会える機会があるわけね」

「そうだな」

「明日の夜に、また、この夢を見られるかしら?」

「おそらく。そなた――友香といったか。友香さんとわれの周波数は、もう合致した。念じれば通じるはずだ」

「そうなの。じゃあ……。また、明日ね」


                  ☆


 浮遊感のある目覚めだった。ベッドの上から、くすんだベージュ色の天上を見上げる。

「へんな、夢……」

 色があった。音も。まるで、現実のように感じられた。

 今日は十二月七日。世界が終わるまで、あと……五日。


「おはよう」

「孝さん。遅くなって、ごめんなさい」

「いいよ。今日は、早く出ないといけないんだ。もう食べたから」

「あら……」

「新聞、取ってきたよ。他には、何も入ってなかった」

「そう……なの。ありがとう」

「いってきます」

「いってらっしゃい」



 夜になった。どきどきしながら眠りについた。

 呼ばれている気がした。思いきって、向かってみた。


                  ☆


 煉瓦の家の前に、わたしは立っている。

「わたしよ」

 ノックをしてから、外開きの扉を開けた。

 暖かそうなコートを着たチャム・チャムートが、暖炉の前にいる。わたしを見て、にこっと笑った。

「チャム・チャムート! また、会えたわ」

「友香さん。いらっしゃい」

「いらっしゃいって! まるで、遊びにきたみたい」

「遊んでいくといい。もっとも、われは遊んだことはないが」

「まあ……。もったいない。小さなチャムたちと、遊んだりしなかったのね」

「われの分身たちと遊んでも、さほど楽しくはなさそうだ」

「遊んでみたら、よかったのに。今日は、ここでしたいことを、ちゃんと考えてきたのよ」

「……したいこと?」

「パーティーをしましょう!」

「パーティー……?」

 不審そうな顔をしている。

「カレーを作ってあげる。ところで、食材はどこで買えばいいの?」

「ここは観念の世界だ。念じれば叶う」

「まあー。なんて、便利なのかしら。どうやって念じるの?」

「ここにあるべきものを、頭に思い浮かべてみるといい」

 ぎゅっと目を閉じて、言うとおりにしてみた。

 豚肉、にんじん、じゃがいも、たまねぎ……。もちろん、カレーのルー。それから、お米も必要よね? 炊飯器としゃもじ、お鍋とお玉、菜箸もほしいわ。そうそう、まな板と包丁も。

「……まあ」

 目を開けると、テーブルの上に、わたしが思い浮かべたものが揃っていた。

「電気は、あるのかしら?」

「なければ、念じてくれ」

 うーんと念じると、テーブルの近くにある白い壁に、二口のコンセントが現れた。

「便利だわ……」


 わたしがカレーを作っていると、椅子に腰かけたチャム・チャムートが、うとうととしはじめた。鍋で肉と野菜を煮こんでいる間に、髪の毛を三つ編みにしてあげた。


「どう? おいしい?」

「うまい。からい」

「あなたたちは、食事はするの?」

「してもよいし、しなくてもよい」

「そうなの? 楽なような、つまらないような……」

「誰かに作ってもらう料理というのは、格別なものだな」

「要するに、作るのがめんどくさいってことなのね」

「そうだな」


 ぺろりと食べてしまった。

「おかわり」

「はいはい」


                  ☆


 十二月八日。あと四日。


「かけっこをしましょう」

「……かけっことは?」

「みんなでいっせいに走って、競争するの」

「楽しいのか? それは」

「まあ、まあ。やってみましょうよ」

 チャム・チャムートと、小さなチャムたちを横一列に並ばせて、遠くを指さした。

「あの赤い旗がゴールよ。みんな、わかった?」

「あいわかった」

「チャムー」

「チャムートー」

 小さなチャムは、「チャム・チャムート」という言葉しか話せないらしい。これじゃあ、対話どころじゃないわね……。

「わたしが、赤い旗のところまで着いて、手を上げたらスタートしてね」


 ゴール地点まで、走っていった。ふり返ると、大人しく並んだチャムたちが、わたしを見ていた。さっと手を上げる。

 わらわらっと走り出した。横なぐりの風の中を、わたしに向かって走ってくる。


「われが、一番だ!」


 チャム・チャムートが抱きついてきた。

 頭がしびれるような感じがした。チャム・チャムートを受けとめる手が、ふるえそうになった。幸せって、こういうことかしら……?

「やった!」

「チャム・チャム。かわいいわね」

 抱き上げたまま、他のチャムたちがゴールに着くのを待った。何人か、転んで泣いている。後で、なぐさめてあげないといけないわね……。


                  ☆


 十二月九日。あと三日。


「美しいものが見たいわ。いつかは終わってしまう世界だからこそ、きれいなものが見たいと思ってしまうの」

「そうか。それも、ひとつの考え方ではあるな」

「この世界には、夜はないの?」

「ある」

「あら……。いつも明るいから、ないのかと思ってたわ」

「夜が見たいのか」

「ええ。夜空を見てみたいわ」

「では」

 チャム・チャムートが指を鳴らした。あっという間に、夜がやってきた。

 点々とともる街灯の上に、まっくらな空が広がる。見たこともない並び方をした、星たち。それから……。

「月が三つ……。地球とは、なにもかも違うのね」

「別の世界だからな。そなたの世界では、いくつある?」

「一つだけよ」

「そうか。こんなものも、見ることができる」

 チャム・チャムートが、右手を高く上げた。人さし指をくるくると回す。

「紫色のオーロラ……。すてきね」

 光の帯のようなカーテンが、何重にも重なって見えた。

 いつも見ているものとはまるで違う、美しい眺めを、両目に焼きつけた。


                  ☆


 十二月十日。あと二日。


 家の前の石畳の上で、わたしは重々しく口を開いた。

「ダンスをしようと思うの」

「ダンス?」

「踊るのよ」

「はあ……」

 気のりしない様子だった。

「音楽をかけるわ。わたしが歌ってもいいけど。ここでは、念じればなんでもできるでしょう? きっと、できると思うの」

 大好きなジャズのスタンダードナンバーを、頭に思い浮かべる。これを、空から流せないかしら?

 ピアノとサックスにドラム。それと、ウッドベース。木琴も。

 空から、音が鳴った。

「できたわ!」

 チャム・チャムートは、ぽかんとした顔をしている。

「高校はブラスバンド部。大学ではジャズ研にいたの」

「さっぱり意味はわからないが。この音は、いいものだな」

 うっとりした顔をしている。

「いいでしょう。大好きな曲なの。

 踊るのよ。ほらっ」

 手をとって、踊りはじめた。

「なんでもいいの。体を動かして」

 手を離した。チャム・チャムートが、足を動かす。ひらひらと手を上下に揺らして、リズムをとっている。

「たのしい!」

 びっくりしたような声で叫んだ。

 小さいチャムたちが、家の中から次々に飛びだしてきた。「チャム・チャムート」という言葉だけで、わたしの好きな曲を歌う。なんて、斬新なのかしら。


「チャム・チャムート?」

「友香さん」

「うん?」

「われは、これほど楽しい時間をすごしたことは、かつてない」

「それは……光栄だわ」

「終わる命などいらぬと、思ったこともあったが。われが、誤っていたな」

 そう言うと、チャム・チャムートは、にっこりと笑った。


                  ☆


 十二月十一日。あと一日。


「チャーム! チャムちゃーん?」

 家の中に、チャム・チャムートがいない。小さなチャムたちも、姿が見えない。

 どこへ行ったのかしら? 念じれば、通じるのかしら……。

『どこ?』

『広場にいる』

 これで通じるのね。さすがだわ……。


 芝生だけがある、大きな広場まで、急ぎ足で向かった。

 小さな体が、倒れるように寝ていた。ひどく弱っているように見えた。

「大丈夫?」

「見たとおりだ」

「苦しいの?」

「まあ、そうだな」

 お別れの時が近づいている。今日が、最後の日。たぶんもう、チャム・チャムートとは、会えなくなってしまうのだろう。

「だっこしてて、あげるわね……。それとも、なにもしない方がいい?」

「いや。そなたはあたたかい。ぜひとも、そうしていただきたい」


 どこまでも続く、青い芝生の上に、二人で座った。

 背中から、だっこしてあげた。チャム・チャムートが、わたしの体に寄りかかる。

 うすい色の青空には、雲ひとつなかった。やさしい風が吹いていた。

 もうすぐ世界が終わるとは、とても思えなかった……。


「そなたに会えて、よかった」

「ありがとう。わたしもよ」

「祝福を。われの力がつきる前に、ひとつだけ願いをのべよ」

「まあ。そんなオプションがついてたなんて、知らなかったわ」

「これは、世迷い言でないぞ」

「じゃあ……。そうね。わたしたち夫婦に、あなたのような、かわいい赤ちゃんを」

「あいわかった」

「本当かしら?」

 笑って、子供のような体ごと、左右に揺すってあげた。チャム・チャムートがふり返った。迷惑そうな顔をしていた。猫のような目で、わたしを見上げてくる。

「念じておるところだ。邪魔するでない」

「あら。ごめんなさい」

 チャム・チャムートが顔を戻す。両手を合わせて、高く掲げるのが見えた。

「ヨー・レ・マウ・デトモ・ノン・サカーユ・ヨ・チノーイ」

 呪文のような言葉。まるで、歌っているみたいねと思った。

 同じ呪文を三回。両手をゆっくり下げて、ふーっと長い長い息を吐いた。小さな体を抱きしめる両腕に、力がこもった。


 チャム・チャムートは生きていて、あたたかった。ふいに、こみ上げてくるものがあった。涙が、わたしの頬をぬらした。

 命は、あっという間に行きすぎて、二度と戻らない。

 きらめいて輝く、一瞬だけの光。遠く、はるか彼方から闇をつらぬいて、ようやく届く、まばゆい星の光のようなあなたを、ずっと待っていた。今も、待っている。

 ずっと。ずっと……。

「……赤ちゃんが、いなかったわけじゃないのよ」

「そうなのか」

「生まれる前に、帰っていってしまったの。それだけ」

「泣くな。友香さん。われの生きた証として、かならず、そなたの願いを叶えよう」

「いいのよ。もし叶わなくても、あなたやなにかを恨んだりしないわ」

 泣いて、泣いて、泣きつくした。今はもう、受け入れられたと思っていた……。

「欲しいものは、欲しいと言ってよいものだ。われも、われと対話できる者が現れることを、長い間、待ち望んでいた」

「そうね。そうよね……。わたし、悲しかったの。とても、悲しかった。

 まるで、世界が終わってしまったみたいに……」

「そのようだな。われには、子はいないから、よくは分からないが」

「夫の……孝さんの口ぐせでね。『どうせ五十億年後には、地球もなくなってる』っていうのがあってね……。わたしは、その言葉に、ずいぶん救われたの。

 本当に五十億年後なのか、わたしにはわからないけれど。すべてが大きな光になって、ひとつに溶けてしまうとしたら……。

 わたしは、なくしたわたしたちの命と、その時はじめて一緒になれる……かもしれない」

 チャム・チャムートがうなずく。わたしの腕の中で身動きをした。ゆっくりと向き直って、わたしを正面から見上げてくる。

「はるか時をこえ、はるか時空をこえ、われのもとへ来てくれて、ありがとう。

 三十七億七千二百九十五万三千四百五十五年生きたわれから、友香さんに言いたいことは、ひとつだけだ」

「……なーに?」

「生きよ。まっとうするまで」

「だめ。待って……!」


                  ☆


 目が覚めてしまった。

 横になったままで、両手を見る。からっぽの手が、ふるえていた。

「ここに、いたのに……」

 もう、どこにもいない。今日は七日目……。

 夜に眠る度に、夢の中で、チャム・チャムートと会ってきた。

 わたしが、チャム・チャムートの夢を見ることは、もうないのかしら?

 枕元に置いていたスマートフォンを手にとって、画面を見た。

 十二月十二日。日曜日。今日が、世界が終わる日。


 パジャマのままでリビングに行った。わたしと同じようにパジャマ姿の孝さんが、テレビを見ていた。国営放送の、朝のニュース。


『アリゾナ州の天文台にて、現地時間の昨日午後二時三十四分に、超新星爆発が観測されました。これは非常に稀に起こる現象であり、太陽系銀河の中では、百年から二百年に一度起こるとされています……』


 ああ。そうなの。そうだったのね……。

 あの愛らしい命は、あのきれいな星は、大きな光になって、飛び散ってしまった。

「友香。どうした?」

 孝さんが、わたしの腕をつかんで、支えてくれた。慌てた顔をしていた。

「まっ青だぞ」

「星の、爆発……」

「ああ。これ? すごく珍しいことみたいだな」

「わたし、大丈夫よ。テレビが見たいの」

 手が離れた。急ぎ足で、テレビに近づく。

 きっと、何億年も前に起きていた爆発が、鮮やかにテレビの中で映し出されている。スマートフォンをかざした。テレビの中で、青白く輝く光を撮った。

 忘れたくなかった。


「さよなら。チャム・チャムート」

「なに? それ」

「なんでもないの。朝ごはんは、昨日の残りのカレーでいい?」

「うん。いいよ。カレーは好きだ」

「おいしかったら、おかわりしてね」

「やった。ありがとう」

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