第29話 ハッピーエクスタシーチャート4

 ミキの母親である花子さんの命日を入力して、社長室の隠し扉を開く。

 地下の研究室は明るく照らされていた。

 階段を降りて、花子さんの写真が大量に貼ってある部屋を見回しても彼の姿はない。

 廉太郎さんはこの奥にある、花子さんの脳みそがある部屋にいるようだ。

 ミキと頷き合って重い扉を開ける。


「ミキと……もしかして幸男くんか?」

「お久しぶりです」


 想像していたよりもはるかに穏やかなお出迎えだった。

 いきなり撃たれることも想定していただけに拍子抜けだ。


「武夫叔父さんたちはさっき警察に捕まりましたよ。あなたを捕まえに来るのも時間の問題でしょう」

「警察が来ているのか」


 初耳だという反応だ。

 地下にいるからサイレンの音も聞こえなかったようだ。

 でもその割に彼に焦る様子はない。


「警察に私は捕まえられない」

「どういうことですか?」

「私は違法な研究を行ってきた。なかなか目的は達成できないが、その過程で様々な薬を開発できた。一番反響があったのはやはりアンチエイジングの薬だろうね」

「アンチエイジング……」

「私には興味もないが、金持ちや権力者ほど若さを求め続けるようだね」

「まさかその取引相手に警察の上層部がいると?」

「そういうことだよ。彼らにとって私はなくてはならない存在だ」




    ◆




 刑事の館山麗美はひと息ついた。


「ようやく落ち着きましたね」


 死体の遺棄に関係していた男たちを全員拘束した。

 彼らにはさまざまな余罪があるだろうし、厳しく追及していくつもりだ。

 でも今はもっと重要なことがある。


「後は楠井廉太郎を捕まえれば終わりです」


 そう思ったとき、彼女の携帯に着信があった。

 上司からだ。

 彼は憔悴した声で命令してくる。


「突入は中止だ」

「……どういうことですか? 証拠もあります。証人もいます。楠井廉太郎は百パーセント黒です」

「そんなことは分かっている。それでも中止だ」


 麗美の上司は現場に理解のある人物だ。

 余程の不都合がない限り味方してくれる。

 逆に言えば、その余程のことが発生しているのだ。


「上からの命令ですか」

「……そういうことだ。楠井廉太郎の薬にはお偉方を魅了する力があるらしい」


 警察という組織はピラミッド構造で、上からの命令は絶対だ。

 誤魔化して出し抜くようなことはあるものの、表立って逆らうことはできない。

 電話を切りながら、麗美は嘆いた。


「目の前にいるというのに……」


 悔しい。

 麗美は正義のヒーローに憧れて警察官になった。

 でも現代社会では正義が通用しないことが往々にして存在する。


「あの2人なら何とかしてくれる」


 車田健吾が彼らの進んだ先を見つめて言う。

 彼は2人のことを信頼しているようだ。

 麗美は広大幸男と楠井ミキという人物のことをろくに知らない。

 目出し帽の男たちの反応を見る限り、社長の娘であるミキは一連の出来事に関わっていなかったはずだ。幸男もずっと東京にいて、やくり町には関わりがない。

 なぜ彼らが重要な情報を手に入れられたのか、麗美には分からなかった。

 怪しい点が多すぎる。

 それでも――あの2人は桧山由香里が受けた仕打ちに本気で怒りを見せていた。


「あの2人とはどういう関係なんですか?」

「俺の大事な親友たちです」


 楠井製薬のことを調べている内に知り合った健吾のことは信頼している。

 だから彼が信じるというのなら、麗美も信じてみようと思った。




    ◆




「お父さんは私を恨んでいるの?」

「どうしてそう思う?」

「私のせいでお母さんが死んじゃったから」


 ミキの母親である楠井花子。

 彼女はミキを庇って亡くなった。道路に飛び出して轢かれそうになったミキを庇って車に轢かれたのだ。


「あれは不幸な事故だった」


 現場にいた訳ではないからはっきりとしたことは分からないが、目撃者の証言などを聞く限り、誰も悪くなかったのだと思う。廉太郎さんが言うように不幸な事故だったとしか言いようがない。


「違うよ!」


 それでもミキは自分自身を責めてしまう。

 事故の直後はとくに酷かった。ほとんど何も喋らなくなって、笑顔も一切浮かべなくなった。

 だから俺は彼女を無理やり、色んな人に怒られながらもあちこちへと連れまわしたのだ。

 やがて彼女の顔に笑顔は戻った。

 でもその心の中にある強すぎる負い目は消えることはないのだろう。


「私が飛び出したから、お母さんは死んだんだ!」

「お前は悪くない」


 優しいその目には、確かに娘に対する愛があった。

 人の尊厳を弄ぶ研究をする彼も、ミキを大事に思う彼も、どちらも紛れもない廉太郎さんの本心なのだと思った。


「だったらどうして!?」


 ミキが叫ぶ。

 窓のない部屋の中で彼女の悲鳴にも似た声が響き渡る。


「いつもお母さんのことを引き合いに出すの!?」

「どういうことだ?」

「私の顔を見れば、花子ならこうするとか、さすが花子の娘だなとか、花子はそんな風に育てていないとか」


 親は子どもに接するとき、誰かの名前をあげてしまうことがある。

 深く考えずに我が子と誰かを比較してしまうのだ。

 状況によっては喜ぶこともあるかもしれない。だが往々にして子どもは傷つくものだ。

 ましてやその名前が自分のせいで亡くなったと思っている母親のものであれば尚更だろう。


「お母さんの名前が出るたびに、お父さんは私のことを責めているんだって思った。私がお母さんを殺したって言われているような気がした」

「お前を責めていた訳じゃない。これは私の弱さだ」

「えっ?」

「ミキは成長して綺麗になった。お前の顔には花子の面影がある。だから、自然と彼女の名前を口にしてしまう。いつまでも死んだ妻への未練を断てない愚かな男の弱さだ」

「お父さん……」


 ミキの顔からわだかまりが溶けていく。


「お父さんに憎まれてるってずっと思ってた」

「バカだな。花子と私の愛の結晶であるお前のことを憎むはずがないだろう?」


 笑い合う2人はまさに理想的な親子のように見えた。


「お父さんは私を愛してくれているんだね」

「もちろんだ」

「だったら私のために自首してほしい」

「それは無理だ」

「どうして? こんな人間を冒とくするような研究をして何がしたいの?」


 廉太郎さんの目的は何なのだろうか。

 一つだけ、思い当たることがある。

 でもそれはあまりにも突拍子もなく、自然の摂理を無視した願いだ。


「花子を蘇らせるためだ」


 やっぱりそうなのか。

 常軌を逸した研究をするだけの理由となると、それ以外にあり得ない。


「お母さんは死んだよ! 何をしても蘇らない!」

「私ならできるさ。必ずやり遂げてみせる」


 廉太郎さんは自信に満ち溢れている。

 己の信じた道に突き進むことができる彼のような人物こそが天才になれるのかもしれない。


「仮に廉太郎さんの言うことが正しかったとして、どうして何人もの女性を犠牲にしてきたんですか?」

「花子は事故で身体がぐちゃぐちゃになってしまった。でも幸いにして脳は無傷だった。だから私は彼女の脳を保管したんだ」


 それが水槽に浮かぶ脳の真相か。


「身体が潰れたなら、他の身体を用意するだけだ。花子の脳を生きた人間の脳と入れ替えればいい。見た目は変わってしまうかもしれないが、そんなことは些細な問題だ。優しいところも、頭脳明晰なところも、私との思い出も、全て彼女の脳に宿っているのだから」

「イカれてる……」

「何とでも言えばいい。あと少しだ。あと少しで私の研究は完成する」

「いい加減にして!」


 ミキが叫んだ。

 そして左手にもった包丁を突きつける。


「私はお父さんを止めてみせる。多分、それが娘の私にできる唯一の親孝行だから」


 廉太郎さんが懐から拳銃を取り出した。


「悲しいよ。でも私と花子の邪魔をするなら仕方がない」


 拳銃を構える。

 廉太郎さんは躊躇なく撃ってくる。

 勝負は一瞬。タイミングが全てだ。

 集中しろ。

 廉太郎さんの息を読め。


 ――今だ!


 手錠でミキを引っ張りながら、俺たちはその場にしゃがみ込むようにして倒れる。


 銃弾は頭があった場所に飛んできた。

 廉太郎さんの射撃の腕が優れていることは知っている。そして過去には頭を撃ちぬかれたことがある。

 だからこそ今回も頭を狙ってくると賭けて、その勝負に勝った。


 俺は倒れながらミキを引き寄せた。

 そして倒れる勢いをそのまま活かして、右手に握ったスコップをぶん投げる。

 スコップはクルクルと回転しながら水槽へと向かう。

 次の弾を撃とうとしていた廉太郎さんがスコップの行き先に気づく。

 慌てて手を伸ばす。


「間に合えッ!」


 でも彼の手は間に合わない。

 スコップの金属部分が水槽に当たる。

 ガラス面全体にヒビが入ってガラスの水槽は粉々に砕け散った。


「あ、あぁ……」


 水槽を満たしていた黄色の液体が零れていく。

 廉太郎さんの反応を見る限り、特殊な薬液だったのだろう。

 その液体のお陰で花子さんの脳みそは、それ単体でも新鮮な姿を保つことができていた。


「花子、花子ッ!」


 外部の空気から脳みそを保護するかのように抱きしめている。

 

 時折何を考えているか分からないようなところはあったけれど、家族のことを大事にしていたし、凄い人だと思っていた。


「あぁ花子!」


 脳みそを抱きしめながら妻の名を何度も呼んでいる。

 哀れだと思った。

 愛する妻に先立たれた男はこんな醜態をさらしてしまうものなのだろうか。

 俺もミキを失ってしまえば、彼のようになってしまうのだろうか。

 そう考えると廉太郎さんのことを憎み切れない自分もいた。

 彼のしでかしたことは許されないことだ。

 でももしも自分が同じ立場にあったなら、同じことをしてしまったのかもしれない。




    ◆




 全てを投げうってでも取り戻したいものがある。

 悪事を働く廉太郎さんの原動力はそこにあった。

 でもその術は失われてしまった。

 死んだ人は生き返らない。

 そんな当たり前のことを思い知らせて、彼の顔からは覇気がなくなっていた。

 違法な研究も、怪しい薬を作り出すことも、全て花子さんを蘇らせるためにやっていたことだ。

 それが達成できないとなれば、もう続ける理由はない。

 廉太郎さんは全てを自首して館山さんに連行された。


 ちなみに彼女は腐った上層部の膿を出せるかもしれないとウキウキだった。

 どこまで上手くいくかは分からないが頑張ってほしいものだ。

 館山さんには後日みっちり事情を聞かせてもらうと言われている。お手柔らかにお願いしたい。


 ちなみに手錠は彼女が手配してくれた業者が外してくれた。

 ずっと手錠をされていたから、いざなくなると解放感よりも寂寥感の方が強かった。


「これから大変だな」


 健ちゃんが言う。

 彼は俺よりも頭がいい。ミキややくり町の未来に待ち受けている困難がはっきりと見えているのだろう。


「お父さんが作った変な薬も回収しなきゃいけないしねー」


 権力者を魅了したアンチエイジングの薬はある意味で影響が少ない薬だ。

 使用者個人が利益を得て完結するものだからだ。

 でも廉太郎さんが作った変な薬の中にはもっと厄介なものもある。

 ミキはそれを回収していくと決めているらしい。


「ほんとお父さんには迷惑かけられっぱなしだよ」


 口ではそう言っているが、彼女の中には父親に対するわだかまりはなくなっているようだ。


「俺も医者の卵だ。そっち方面でできることもあるかもしれない。可能な限り協力するから」

「ありがとう」

「やっぱり健ちゃんは凄いな」


 俺にはできないことを簡単にやってのける。


「何言ってるんだよ。俺からすればさっちゃんの方がずっと凄いっての」

「どこがだよ」

「俺の初恋はミキちゃんだった」

「へ?」


 突然の話にミキが目を丸くしている。


「でもミキちゃんのために川に飛び込んださっちゃんを見て敵わないなって思ったんだ」


 あのときの俺は無我夢中だった。

 考えるよりも先に身体が動いた。

 そういう考えなしのところが、頭のいい健ちゃんにとっては羨ましく思えるのかもしれない。


「隣の芝生は青いってことなのかもな」


 俺はずっと健ちゃんに嫉妬していた。劣等感を抱いていた。

 でもそれは健ちゃんも同じことだったのかもしれない。

 そう考えると、心のおもりが外れたような気がした。




    ◆




 俺たちは坂上神社に来ていた。


「ここから全てが始まった」


 ミキが神妙に言う。

 彼女がここで祈ったことがループの切っ掛けとなったことは間違いないだろう。


「縁結びの神様なんていなかったけどな」

「そんなことないよ」


 縁結びの神様はいるとミキは主張した。

 どうしてそう思うのか。

 その問いには答えず、やりたいことがあるとミキは神社の裏に向かう。


 彼女が崖に近づき、柵の手前で立ち止る。

 俺たちのループは終わった。

 昔みたいにこの柵を飛び越えることはできない。

 寂しくはあるけれど、それが普通のことだ。


「やりたいことって?」


 ミキがカバンから瓶を取り出した。

 その中には黒い髪束が入っている。

 地下の研究室にあった花子さんの遺髪だ。

 ミキは瓶のフタを開けて、髪束を手のひらの上にのせた。


 風が吹く。

 遺髪はバラバラに散らばって空高くに舞っていく。

 そのまま風にのって飛ばされて、やがて見えなくなった。


「良かったのか?」


 ミキが頷く。


「お母さんは死んだ。でもお母さんの愛情は私やお父さんの心の中で生きている」


 空の向こうを眺めながら微笑んだ。


「それだけで十分だよ」

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