第5話 俺はもうダメかもしれない

 俺は自分の精神力を褒めたたえたい。

 駅前でミキとキスをして、その場で襲わなかった自分を凄いと思う。

 あのときはそれほどまでにやばかった。

 そして今もやばい。


 再び国道沿いに歩きながら、俺たちはラブホテルへと向かっていた。

 想いが通じ合ったから手を繋いで歩いている。

 俺の右手がミキの柔らかくて小さい手の感触を全力で堪能していた。


「手汗が凄くてごめんね」


 手を繋げば汗をかくのは普通のことだ。

 ミキは緊張しているだろうし俺は興奮している。

 互いの汗が混ざり合って繋ぐ手と手はしっとりしていた。

 でもその湿った感触がこの後の行為を連想させて、俺の興奮はより一層かきたてられる。


「痛いよサチくん」

「あっ、悪い」


 興奮のあまり手に力が入ってしまったらしい。

 やばいなと思った。自制がきかなくなっている。

 早くミキを抱きたい。

 ラブホテルまでの道のりが気の遠くなるほど長く感じた。


「唇が乾燥してきたな」


 あからさまにそんな言い訳をしながら新品のリップクリームを取り出して唇に塗る。

 そして我慢できなくって隣にいるミキにキスをしようとして横を向いたとき、裏道の奥に女性の姿が見えた。


「ッ!?」


 街灯もほとんどない暗い道の向こうにある空地にぼんやりと立っている。

 長髪の女性だ。顔はよく見えない。

 身じろぎもせずにじっと立ってこっちを見ていた。

 その不気味なまでに静止している姿を見て心臓がキュッとなる。


「あー、あれはカカシだね」

「カカシ……?」


 恐る恐る近づく。

 空地に立っていたのは、確かに彼女の言う通り1体のカカシだった。


「アイドルをイメージしたって言ってたよ」

「どこがアイドルだ。夜だと完全にホラーじゃないか」


 まるで幽霊みたいだ。

 そう思ったとき、俺は全てを思い出す。


「――ッ!?」


 夢の結末をはっきりと思い出した。

 ミキを抱いた後、俺はシャワーを浴びるミキのことを待っていた。

 そのときにどこからともなく現れたのだ。頭のない女が。

 黒い長髪をたらしながら、その頭頂部は切り取られたように何もない。おぞましい、この世の人間とは思えない不気味な存在だった。

 その幽霊に頭を鷲掴みにされて夢は終わった。夢の俺はそこで殺されたのかもしれない。

 頭のない女のことを思い出して身の毛がよだつ。身体が勝手に震えてしまう。


「ぅ、ぁ……ぁ」


 うめき声が漏れる。それは己の恐怖の発露だ。

 夢でミキとセックスしたときの快楽はまるで本当に体験したことのようだと感じていた。

 謎の女への恐怖もそれと同じだ。恐怖が心に刻まれている。

 抑えきれない恐怖が身体からこぼれていた。


「サチくん!?」


 足から力が抜けて地面に膝をつく。

 どうしようもなく怖い。

 どこかへ逃げ出してしまいたい。でも身体が自由に動かない。


「大丈夫だよ」


 ミキが俺を後ろから抱きしめた。

 冷え切った身体がミキを感じとる。温かくて柔らかい。

 身体も心も熱を取り戻していく。


「ミキ……」


 いつの間にか俺の中に怯えはなくなっていた。

 不気味なカカシも落ち着いて見てみれば、確かにどことなく愛嬌があるかもしれないと思った。


「落ち着いた?」

「いや……俺はもう、ダメかもしれない」


 心の熱はマイナスから沸点まで一気に駆け上った。

 全身が彼女の包容力を感じる。

 俺の顔のすぐ隣にはミキの顔があった。彼女の頬の熱が空気を伝って俺の頬に届いているような気がする。

 既に心の中に頭のない女は存在しない。ミキしか見えない。


「私が傍にいるから」


 ダメだと言った言葉の意味を勘違いしたのか、ミキがより一層強く俺を抱きしめてくる。より彼女の存在を感じられた。

 痛みを感じるほどの強さが心地いい。

 ミキにならどれだけキツく拘束されても嫌にならないだろうと思った。


「ミキ!」


 そして俺はついに限界を迎えた。

 自分の気持ちを抑えられなくなってミキを押し倒した。


「きゃっ」


 ミキが可愛らしい悲鳴をあげながら地面に倒れる。

 そのときに手が当たってしまい、アイドルカカシも一緒に空地に倒れた。

 倒れてしまったカカシには目もくれず、俺はミキに覆いかぶさってキスをする。


 唇を離す。

 急なできごとにミキは驚いていた。

 可愛い。またすぐに唇と唇を合わせる。


「んん~!」


 俺の胸を手で押して抗議してきた。

 だが非力な彼女の力では何の意味もなさない。

 キスを止めるとミキは言う。


「ここ外だよ? もうちょっと歩けば……その、気兼ねなくできるから」


 ラブホテルは歩いて後10分か15分ぐらいだろうか。

 もう少し歩けば川を渡る橋があって、その橋を越えればすぐだ。

 でもラブホテルには夢と同じように幽霊がいるかもしれない。

 だからラブホテルじゃなくてここで――いや、そうじゃない。幽霊なんて関係ない。単純に俺がもう我慢できないのだ。今すぐミキを抱きたい。


 ミキの唇を奪う。舌で彼女の口に侵入した。

 ディープなキスをする。抗議していたはずのミキから力が徐々に抜けていく。


 キスを止めて少し顔を離し、彼女の目をジッと見つめた。

 きっと俺の目には欲望が宿っているだろう。ミキを抱きたいというその強くギラギラとした性欲が伝わっているはずだ。


「このあたりは夜になったら誰も通らないから……」


 彼女は自分に言い訳をするように言いながら俺の首に腕を回す。

 そしてゆっくりと目を閉じた。




    ◆




 2人で空地に寝そべりながら空を眺める。

 セックスした後の虚脱感が心地いい。冷たい空気も火照った身体を冷ますのにちょうどいい。


「綺麗な夜空だな」


 空に向かって手を伸ばす。

 あと少しで届きそうに思える。空がいつもより近くにあるように感じた。

 東京とは違って大きなビルや商業施設はない。そこに住む住民たちの就寝時間もずっと早い。

 灯りの総量が違う。都内では見えない星々が空に輝いていた。


「私は飽きるほど見てるから何とも思わないかなぁ」

「勿体ないな」


 どれだけ綺麗な景色も見続けていればやがて飽きてしまう。

 ミキとのセックスは最高だった。

 最高の快楽も、いずれ飽きが来るのだろうか。

 いや、そんなことはないと思う。

 現に今日だって夢でのセックスよりも更に気持ちよかった。

 気持ちよくなればなるほどミキのことが愛おしくなって、愛おしくなればなるほど気持ちよくなる。

 そこに限界はない。天井知らずに上がり続けている。


「でも今日は格別綺麗かもしれない」


 ミキはふふっと笑う。

 俺といるから夜空が綺麗に感じるのだと暗に言っているのだ。

 嬉しくないはずがない。


 ふいに遠くからサイレンの音が聞こえてくる。

 夢のときはラブホテルにいたから気づかなかった。


「救急車か」

「何かあったのかなぁ?」


 その音はすぐに遠ざかっていった。

 ドップラー効果によってサイレンの音が低くなっていく。

 不協和音でも聞かされているようで、なんとなく気味の悪い気持ちになる。


「そういえば、カカシを倒したままだね」

「確かに」


 不気味なカカシではあるが、俺たちの最高の野外セックスの立役者だ。彼女?に見られているというのも興奮材料の一つだったように思う。

 快楽のあまりミキに没頭して野外であることすら忘れそうになったけれど、カカシの存在がここは野外なのだと思い出させてくれた。他人に見られる可能性があるのだと教えてくれた。

 その緊張感は俺たちをより一層盛り上がらせた。


「蜜柑ちゃんって言うらしいよ」

「全然蜜柑ちゃん感がないな」


 蜜柑ちゃんを抱えて元の位置に立たせた。

 黒い紐を無数にくっつけることで作られた髪は、倒れた影響で乱れている。

 手で紐の束をほぐして整えながら、夢で起きたことを考える。


 謎の女の幽霊が夢では出現した。

 首の後ろにかかった髪の感触をはっきりと思い出すことがきでる。

 ミキとは違う長い髪だった。その感触はカカシのような作り物ではなく、間違いなく本物の髪だった。

 寒気がして首の後ろを手でさする。


「どうしたの?」

「あー……いや、なんでもない」


 夢で幽霊に会ったことを思い出して怖いだなんて言えるはずがない。

 そもそもここはラブホテルとは離れている。

 幽霊は出ないはずだ。

 出ない……よな?

 そう心配になって周囲に気を張れば、誰かに見られているような気がした。


「誰だ!」


 反応はない。

 気のせいか……?

 だがしばらくすると、茂みの奥からカサカサと音を立てながら一人の少女が姿を表した。

 もしかしてあの幽霊かと焦ったが、よく見れば彼女の動きは生きた人間だった。しっかりと地に立っている重さを感じる。

 しかも幽霊は大人の女の姿をしていたけれど、目の前の少女は中学生ぐらいに見える。


「いつから見ていたんだ?」

「えーっと……」


 言葉に悩む様子を見せた後、彼女はグッドのポーズをした。

 要するに情事のシーンをばっちり目撃していたということだ。

 そして次の言葉をかける前に彼女は走って逃げだした。


「知ってる子か?」

「うん、坂上神社の娘さん。夜の散歩が好きでよく歩いているんだって」

「はた迷惑な趣味だな」

「あはは、どっちかと言えば私たちの方がはた迷惑だけどね」

「……ごめん」

「どうしたの?」

「同じ町の人に見られたら困るだろ? 俺が暴走したせいだ」


 仕方がなかったのだという気持ちはある。

 我慢なんてできるはずがない。むしろここに来るまでよく我慢できたと自分を褒めたいという思いすらある。

 とはいえ俺が暴走して、その結果ミキの知り合いに恥ずかしいところを見られてしまったのは事実だ。


「別に大丈夫だよ」


 あっけらかんと答えた。

 知り合いに見られたことを気にしていないようだ。俺が彼女の立場だとヤバイヤバイと焦ったと思う。

 田舎マインド的な意味で、そういったことには開放的なのかもしれない。


「そんなことより、サチくんが幽霊でも出るんじゃないかってくらい怯えてて可愛かったね」

「……なぁ、この町って幽霊の噂とかあったりするのか?」

「どうだろう? でもやくりは薬の町だったから」


 江戸の商人がやくり町にやってきて、そこで製薬事業を始めたと聞いている。薬を作っては江戸に卸して莫大な利益を得ていたそうだ。

 もっとも今となってはその面影は、ミキの父親が経営している楠井製薬ぐらいなものだが。


「救いを求めてやってきたのに、助かるような薬がなくて無念にも命を落とす。そんな人がいたのかもしれない」


 当時は今のような情報社会ではない。やくりに薬があるという噂に縋り、一縷の望みにかけた先に待っていたのは暗闇だった。そんな例は少なくなかっただろう。

 きっと無念だったはずだ。

 頭のない女の目に宿っていた怒りは、薬では救われずに未来が途絶えてしまった無念が宿っていたのかもしれない。

 女からははちみつの甘ったるい香りがした。はちみつが薬として使われていたこともあると聞く。やくり町が薬の町だったことと何らかの関連があるかもしれないと思った。


「実際、坂上神社の傍にある霊園にはそういう人たちが合葬されてるお墓もあるしね」

「あー、あの山になってるやつか」


 神社から少し行ったところには町営の霊園がある。

 子どもの頃は用もないのに勝手に侵入して怒られたものだ。

 その一角に、名前のない墓石が山のように積まれた場所があったことを覚えている。

 子どもながらに異質な雰囲気がして、なるべくそこには近づかないようにしていた。


「今、何か動いたような……」

「怖いこと言うなよ」


 ミキが指さした茂みのあたりを見つめる。

 生き物がいるような気配はしない。

 幽霊のことを考えていたせいで、何にもないはずなのに恐怖を感じてしまう。


「誰にだって見間違いはあるからなぁ、あはは」


 乾いた声で笑う。

 ミキは真剣な顔で茂みを見ていた。その顔は勘違いだとは考えていないことを示している。

 俺たちは黙って茂みの辺りに視線を向け続けた。

 風で葉がカサカサと音を立てて揺れる。でもそこには何もいない。

 背筋がムズムズした。

 何かが背後にいるのではないか。そんな考えが脳裏によぎった。

 一度不安になればどんどん不安は大きくなる。

 早く背後を確認しなければならない。


「すぅー、はぁー」


 大きく深呼吸をして、勢いよく後ろを振り返った。

 何もいない。

 目の前には暗い夜道が続いている。何かが出てきそうに思える暗い世界であったが、俺たちを脅かすような存在は確認できなかった。

 ホッと安心しながら前を向く。


 ――目が合った。


 はちみつの香りがした。

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