第3話 アルゥエラ
トルー山岳地帯が生み出す清水は酒よりも美味、という言葉がある。
これはとある酒造家が酒作りにおいての水の重要さを解く場面で発したものが、語り草となったものである。当時、酒開発の分野で水の重要性はあまり認識されておらず、その中で登壇したこの者の語り方や、内容、何より仕上がった酒の美味しさは衝撃を持って迎えられた。以来、酒造家や貴族たちはこぞってこの特別な水を追い求め、貴族間での勢力図が塗り替えられたのは有名な話である。
ルンド丘陵には、そのトルー山岳地帯から伝わる渓流があちらこちらに点在しており、どれもが澄み切った美しい水をもたらしている。一口飲めば立ちどころに乾きは癒え、傷口を洗えばどんな炎症もすっと収まる、と言えば大袈裟ではあるが、ルンド丘陵という辺境の地は、その立地が抱える物流難と引き換えに、いつでもこの水の恩恵に預かれる贅沢な地だとも言えた。
その中でも比較的高原に位置する一筋の渓流が、村の側を通っている。かねてよりこの村の生活を支えてきた清流で、この村に生まれる者は幼少の頃よりこの川を大切にするよう言い聞かせられる。それは村人に根付いており、「親と川には逆らえない」ということわざが生まれるほどである。特に水汲み場は神聖な場所であり、例えどんな
そんな水汲み場に、一人の少女がいた。白金の髪が水に浸らないように耳にかけ、桶をそっと清流に浸している。それを重たそうに持ち上げると、ふらふらと左右に揺れながら水汲み場を離れ、そして側に控える翼竜の
村へと続く道に沿って、草花が咲き乱れている。丘を駆け上がる風は草原の波を作り、肌を優しく撫でていく。季節はめぐり、ルンドには春が訪れている。
そしてこの少女がこの村に来てから、半年が経っていた。
「アーちゃーん!」
農道を行く一人と一匹に、大きく手を振る女性の姿があった。今しがた、畑仕事を終えたばかりという風情だが、少女と目が合い、小走りで近づいてくる。少女は振り返り、小さく手を振る。
「ナラさん」
「なんだい、またランダの手伝いかい? あんたも大変だねぇ。そして、あんたも」
ナラは少女の後ろのドラゴンにも半眼した。ドラゴンはなんてことないという顔でしっぽをわずかに振った。そのドラゴンの角を愛おしそうに撫でながら、少女は言った。
「彼も頑張っていますから」
少女のその様子にナラは思うところがあるのか、仕方がないと言った様子で腰に手を当てている。
「まったく、いいんだよ、あんなバカ小僧の手伝いなんかしなくても。どうせ水の無駄遣いばっかりするんだからさ」
水は村にとって神聖なもの。節制するものでもないが、無駄遣いしても良い訳でもない。感謝することそすれ、無下にはしないというのがこの村のあり方だ。そんな中、連日に渡り大量の水をぶちまける者がこの村にはいるのだ。それに少女には心当たりがある。
「でも」
――私も頑張らないと。少女がそう続けようとしたところを制するように、ラナは続けた。
「それよりもさ、またアレやってくれよ、温かいやつ」
「ああ、湯浴み、ですか」
「そうそう、それさ!」
ラナは弾けるように喜び、自身を抱きしめている。
「あれを一度知っちまうと、もう忘れられない。特にこうして農作業で汗を流した後なんて、最高さぁ。肩の凝りまで全部取れるなんて、革命じゃないか」
「気に入って頂けて良かったです。じゃあ、さっそく今晩にでも」
「よっし! こりゃ楽しみだ。旦那にも伝えとくよ」
「ええ。じゃあ」
少女は行く先々で村人達に声をかけられている。今しがた、先日のお礼だと言ってその手に無理やり野菜を持たされた。村人達は彼女の目立つ髪色にも、ドラゴンにも臆することなく接している。それだけ両者が打ち解けているということでもあるが、この伝統的かつ排他的な地域において、数年前では想像できない光景であろう。それもこれも、彼女とドラゴンが来てからのことである。
少女は風でたなびく髪を耳にかけた。そして思いにふける。
少女はこの村の人間ではない。それはこの地域伝統の灰色の髪でないこと、翡翠のような瞳の色で一目瞭然であった。山間の閉塞された集落において、
「ただいま」
少女は工場の扉を開けた。広くくたびれた工場の中央には、鈍色に輝く鉄の筒が鎮座していた。その穴に頭を突っ込んでいた少年が、振り向き、笑顔をくれる。
「おかえり。――アルゥエラ」
翼竜とともに舞い降りた少女。
彼女は目覚めた時、アルゥエラと名乗った。
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