第2話 翼竜舞い出ずる日

 父と数えた夜空の星。父が夢を語るその時、幾度となく星は流れた。それはきっとどこかに落ち、誰かの夢を叶えたのだろう。


 だが今、ランダの目の前に降ってきたのは、一匹のドラゴン。それはここルンドにおいて世代単位で目撃例のない伝説的な生物だった。


 その輪郭は闇夜にまぎれて判然とし難いが、それでもおおよその大きさはわかる。目測体高は馬二頭分ほど、全体的に細長く、体長は計り知れない程長い。伸びた首の先には長く立派な角と、それに同化した骨の仮面を有した頭がある。その視線は鋭く、眼球一個がランダの拳骨げんこつほどはありそうだ。人のそれをはるかに凌駕する体躯たいくと駆動力を誇る、全ての生物の頂点に君臨する肉食獣。近隣にはそれを懐柔かいじゅうし武力とする国があるとは耳にするが、少なくともこの地方においては猛獣であり、侵略者であり、天敵である。それが今、ランダの前に立ちはだかっている。


 ――ひとたまりもない。口伝で把握していたとはいえ、それは理解するのとは次元が異なる。この体の震えはその証左だった。


 まず、逃げる事は不可能だということを理解した。体力、走力、敏捷性、その全てが劣る猿人類が、この怪物から逃げおおせる未来をまったく想像出来ない。可能性があるとするならば、彼らの背丈を超す頑丈な木の上に登るか、あるいはその巨体では入り込めない穴倉あなぐらに入るかなどして、諦めるのを待つことくらいだろう。そしてそのどちらもがこの場にはない。大人たちの言葉の違和感の正体に溜飲が下がる。あの伝承はもとより、誰かを犠牲にしてでも助かる可能性を少しでも上げるための生存戦略であり、弱者の知恵だ。それでも希望的観測であり、本質的には戦うも死、逃げるも死である。


 加えて、ランダには逃げる訳にはいかない理由があった。それはあの猛獣の足元に横たわる鋼鉄の筒、水蒸気噴射器の存在である。落下の衝撃で既に土台は大破しているが、下敷きは避けられたようで、装置本体はかろうじて原型を保っている。もし此処でランダが逃げ出せば、目前の怪物はその巨体を揺らし追ってくるだろう。そうすれば装置はあの強靭な脚に踏みつけられ、今度こそ原型を失い、修復は不可能になる。それだけは何としても避けなければならなかった。


 ランダはドラゴンと眼を合わせながら、そばに転がる鍬を手に取った。手が届く範囲にある武器はこれだけだった。それすらもこの状況において意味があるのはわからない。この矮小な刃物が果たして奴にどれ程の傷を負わせることが出来ようか。どうして自分は修繕を終えた農具をその日の内に返してしまったのか、と仕事の速さを恨んだりもした。


 せめて、一太刀浴びせる事ができれば。倒せなくとも、こちらを襲う意思さえ奪えればいい。それは足のつま先か、それとも眼球か。いっそのこと、翼を引き裂き飛べなくしてやろうか。相打ち覚悟なら、悪くない選択肢だ。


 そうして翼に眼をやり、気付く。――ドラゴンの片翼が折れている。


 胴体から伸びた腕と翼は一体化しており、その先にある関節のまた少し先、全体の四割程の所から先が折れ曲がってしまっている。恐らく骨が折れているのだろう、支えるものを失った翼端は力なく垂れ落ち、翼を形成する膜のおかげで辛うじてぶら下がっているという感じであった。その膜も所々に穴が空き、裂けてしまっている。落下の衝撃でやったのだろうか、あるいは砕けた家屋の材木が突き破ったのだろう。だとしたら出血も伴っているかもしれない。


 そうして観察している内に、ランダは一つの疑問を抱いた。なぜ自分は、未だこうして生きているのだろうか、と。


 ランダとドラゴンが対峙している時間は、当人達が感じるそれよりも実際は短かったかもしれない。しかしそんなわずかな時間でも、人間の子供一人くらい葬ることができたはずだ。なにせ手段は豊富にある。その長い角で串刺しにしたり、払い除けたり、あるいは巨体を生かして踏み潰したり。ランダはドラゴンを観察しながら、あらゆる死を想像できた。だがドラゴンはそれをしないのだ。それすらできないほど傷が深いのであろうか。


 そして、ようやくその事実に気づいたのだ。その背中に背負うものが、人であることに。ドラゴンは少女を背負っていたのだ。


「お前、その子をどうするつもりだ」


 気づけばランダは言葉を発していた。話が通じると思った訳ではない。


 手負いのドラゴンが、女の子を抱え、人間と対峙している。襲ってくる気配は無い。むしろ、彼女を守ろうと懸命に体を大きく見せようとしているようにすら見える。だとすれば、ランダに思い当たる答えは一つしかなかった。


「助けたいのか」


 少年とドラゴンは見つめ合った。そしてランダは確信した。これは騎士だ。主人を守る騎士なのだ、と。


 その視線からは未だ圧が放たれているが、しかし襲ってくる気配はない。ランダはゆっくりと歩み寄り、折れた翼の下をくぐり、ドラゴンの脇から背中を見上げた。そこには少女があぶみを抱くようにして縄で縛り付けられていた。ランダは闇夜の中、幾重にも巻かれた縄を慎重に切り解き、少女を抱きかかえた。そしてその軽さと冷たさに驚き、同時に息があることに安堵した。


 ランダは作業台に彼女を寝せると、奥の部屋からランプを手にして戻り、作業台上に吊るした。そしてその白金の髪に驚きつつも、少女の服を脱がせていった。


 ルンドにも医者はいる。しかしこの状況ではいないにも同じだった。仮にもしランダが少女を抱えて村の外れの医者宅まで駆け出せば、このドラゴンは必ずついてくるだろうし、そうなれば村は大混乱に陥る。では医者をここに連れてはどうかと言えば、失神するか脱兎のごとく逃げ出すかのいずれかだろう。


 幸い、怪我には慣れている。過去に自分が負った怪我の記憶を頼りに、その絹のような柔肌に触れたり押したりして、その下に隠された傷がないか探した。肋骨は折れていないか、臓物を損傷していないか、その他致命傷は無いか。そのあまりの華奢さに目眩がする。どうやら幸いにも、命に関わる傷はないようだった。


 怪我が無いなら、冷えた体を温めなければならない。ランダは少女に再び服を着せると背負って寝床に運び、沸かした湯を水筒に詰め、脇と大腿部に挟んで布団を被せた。そして自分も半裸になり、そこに潜り込んだ。幼少の頃、井戸に落ちたランダを父はこうして温めてくれたのをランダは克明に覚えており、なんだか懐かしい気持ちになった。違いがあるとすれば、父の胸板は逞しくて硬かったが、少女の体は柔らかくて油断すると今にも粉々になってしまいそうだということだった。


 少女からは嗅ぎなれない匂いがした。それはランダにとって初めて間近にした年頃の少女だった、ということもあるだろう。だがその奥に、何かが焦げたような匂いが染み付いていた。この少女は一体何者なのだろうか。何から何までランダには見たことも触れたこともない物ばかりだった。


 少女に熱が戻り始めたのを感じると、ランダは再び工場へ向かった。そこには変わらずドラゴンの姿があった。しかしその翼は力なく降ろされ、覇気が無い。


「大丈夫だ、お前のご主人様は無事だよ」


 冷えた角を撫でる。おそらくこのドラゴンは、この主人をどこかに送り届ける任の途中、なんらかの原因で墜落してしまったのだろう。


「痛いよな」


 翼が折れ、その被膜ひまくも破けてしまった。こいつは恐らく、もう飛ぶことはできないだろう。それだけではない。役に立たなくなった家畜がどういう運命を辿るのかを、ランダはよく知っている。


「でも俺は医者じゃないから、治せないよ」


 こいつが飛べないと知って、襲ってこないと知って、村人達は見過ごしたりはしないだろう。保身のため、いつかの復讐のため。そうじゃなくても、恐怖に駆られた人間は何をするかわからない。


「悔しいよな」


 翼竜が翼を失うということは、剣士が剣を失うのと同義である。そして弱点を晒した相手を生かしておくほど、この世は甘くない。それでもこのドラゴンに逃げるという選択肢はない。少女を見ず知らずの誰かに託すことなどできないからだ。そして少女も、このドラゴンなくして帰ることはできない。つまりこの任務は失敗したのだ。明るい未来など、待っていない。あるのは残酷な現実だけだった。


「俺には、お前を助けてやる力がないんだ」


 だがランダは同時にこうも思っていた。もしこれを兵器として捉えたらどうだろうか。この世に直せない物などないことなど無い。構造を知ることで、元よりも優れた性能を引き出させることもできるということを。そうやってランダは村に貢献してきたのだ。


 ランダはもう一度ドラゴンの眼を見た。最強の生物、ドラゴン。


「――だけど俺は、直せる」


 血がたぎるのをランダは感じた。まるで初めて水蒸気噴射機に熱を入れた時のような興奮に、体が弾け飛ぶように動き出す。ランダは散らばった工具を作業台に並べると、ドラゴンを見つめて言った。


「始めよう。お前の修理を」

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