第十四話 祟られ者(二)


 一瞬、コトリが金縛りにあったかのように硬直した。


「コトリ?」


 だが、それも束の間で、コトリは途端に目を剝き、発狂した。


「コトリっ!?」


 渡守は仰向けに倒れそうになった娘を支えると、その形相と断末魔のような叫び声に驚愕し、困惑した。


「突然どうした!?」


 突として、気が触れたコトリに渡守が狼狽え、周囲がざわめいた。そんな中、モミジは目の前の状況にはっとして青褪めた。


 ——


「あ……」


 面具の内側に、どろりとした物を感じた。耳鳴りがして、モミジの意識が遠のいていく。


「妖魔の邪気に当てられて、気が触れたんだっ」


 トウシロウが咄嗟に言った。


 前に進み出て、足元が覚束なくなったモミジを支えると、トウシロウは渡守に瓢箪を放って寄越した。


「幻清水だ。邪気を祓ってくれる。無理矢理にでも飲ませておけ。ミモリ嬢達も、妖魔と対峙したんだ。念の為に飲んでおいた方が良い」


 トウシロウはそう言うと、ぐったりとし、意識がはっきりとしないモミジを肩に担いだ。


「あの、モミジさんはどうされたのですかっ!?」


 ミモリは、欠けた面具から覗くモミジの顔色を見て動揺した。モミジの顔は、血の気を失っていて真っ白だ。


「馬鹿弟子も邪気に当てられたようだ。幻清水は今それしかないが、こっちの事は気にしなくていいっ」


「ど、どちらへ?」


「森だ。夜が明けたら戻る」


 トウシロウは村民達を押し退け、森へ向かって駆け出した。






「どっちだっ!?」


 暗い森の中、トウシロウは肩に担いだモミジに問いかけた。トウシロウは切羽詰まった様子で、何処か苦し気だ。息は荒く、先程までは無かったのに、薄っすらと目の下にくまが出来ていた。気を奮って、辛うじて立っている様子だ。


「右……そのまま、真っ直ぐ……」


 ぽつぽつと紡がれるモミジの言葉を耳で拾い、トウシロウは走った。茂みを蹴散らすかのように進み、目指していた場所に辿り着いた。


 幻清水の泉だ。夜になっても幻の泉は、宝石のように青々と輝きを放っていた。そこへ、トウシロウはモミジを抱えたまま、幻清水の泉に飛び込んだ。


 冷たい——。けれど、刺すような冷たさでは無く、心地良い。きらきらと光る泡粒が、労るように肌を撫でる。下へ下へと沈んでいく。その度にモミジは、どうしようもなく重く感じていた体が軽くなり、混濁とした意識が明瞭となって浮上していった。


 モミジを腕の中で抱えていたトウシロウが、持ち上げるように抱え直し、水面に向かって足を動かした。バシャッと、水面から顔を出した二人は、ハァッと大きく息を吐いた。冷たい水に浸かっていたと言うのに、血色を失っていない。寧ろ、泉に飛び込む前と比べると、顔色が良くなっていた。いつの間にか出来ていたトウシロウの目の下のくまも、消えていた。


 トウシロウはモミジを抱えて岸に上がると、水際にある木の幹にモミジを腕の中から下ろした。モミジを見下ろすトウシロウの目は、厳しいものであった。


「心を静めろ。悪意に呑まれるな。——いつもそう言い聞かせていたよなっ」


 トウシロウに咎められたモミジは、ぐっと息を飲んだ。


「申し訳、ありません……」


 欠けた面具から覗くモミジの目は、確かに自責の念を抱えていた。それを見たトウシロウは、やるせない怒りに、「くそっ」と悪態を付いた。


 そうして、何とか落ち着き払ったトウシロウは、モミジの面具に手を遣り、外した。すると、面具で隠れていたモミジの傷痕からは、膿のような黒い液体がどろりと垂れていた。傷痕も、と言うより、負ったばかりの赤く生々しい傷のように見えた。


「穢れが浮き出ているな。箍も外れてしまってる」


 トウシロウは幻清水を手で掬い、モミジの顔の傷痕に落とした。そうすると、黒い膿がすっと消えていった。しかし、傷痕から再びじくじくと滲んできた。


「きりが無いな」


 トウシロウは忌々しそうに言うと、モミジの胴当ての繋ぎ目を外した。それから、腰帯を緩め、襟元に手を掛け―—。


「待ってください……っ」


 モミジは、自分の衣に手を掛けるトウシロウの手を止めた。


「このまま、幻清水の泉で身を清めれば——」


「箍が外れているんだ。泉に浸かっても意味ねぇよ」


「でもっ」


「お前──」


 トウシロウは、抵抗するモミジをじっと見据えて言った。


「──周りの人間を殺す気か?」


 その言葉に、モミジは平手を食らったかのように目を見張った。微かに震え、トウシロウの手を阻んでいた己の手を、力無く下ろした。


「分かったら、大人しくしてろ」


 トウシロウはそう言うと、モミジに顔を寄せてきた。モミジは切なげに眉を寄せた。だが、拒む事は無くトウシロウを受け入れ、唇を重ねた。






『祟りもち……?』


 男に引き取られた娘は、初めて聞く言葉に首を傾げた。


『妖魔の中でも一番厄介な化物だ。祟りもちに手を掛られた人間は祟られてしまう。祟られた人間は周辺に邪気を振り撒き、人を狂わせて死に至らしめる。祟られ者——要は、穢溜まり人間だ』


『そんな話、初めて聞きました』


『だろうな。通常、祟られ者は自分の中で生成される邪気に狂って即死だ。つまり、祟られ者は、今まで生き延びた事がねぇんだよ。……でも、お前は生き延びた』


 男は娘に向かって顎をしゃくり、赤毛を揺らした。


『だが、それもいつまで続くか分からん。お前の中には、確かに穢れがある』


 男は娘の手を取り、娘の中にある霊気と共に邪な気を感じ取った。


『いずれ、お前は周りの人間に災いを振り撒き、妖魔を生みだすかもしれない。その前に、死ぬかもな』


『……っ!』


 娘は思わず、包帯の下にある傷に手を当てた。


『穢溜まりを浄化する事が出来るのは、神子だけだ。だが、もう百年も現れていない。浄化効果のある幻清水も、少し和らげるだけで、完全には浄化が出来ないようだ』


 男は、何度か娘に幻清水を飲ませた。だが、穢れが消える事は無かった。


『それでしたら、神子候補である神徒代みとしろ様では? 寺院や、神殿に行けば——』


『——行けば、殺されるだろうな』


 男はきっぱりと言った。


『良くて、お前を何処かに閉じ込めて死ぬまで隔離。もしくは、生きた穢溜まりとして研究されるだろう。その場合、人間扱いされないだろうな』


『そんな……』


『自覚しろ。お前は、災いを振り撒く危険な存在だ』


 男の容赦のない物言いに、娘は俯き、肩を落とした。


『どう、すれば……』


 娘の声は震えていた。きっと、俯いて長い黒髪に隠れた顔は、絶望に染まっているだろう。男は、重い口を開いた。


『……一つ、方法がある』


 それは、互いの気を交えて調える養生術であった。精神を高揚させて気の循環を良くし、施す側の人間の気を、受け手である相手に送り、霊力や気力を向上させる方法だ。よく、戦地に赴く者や邪気に当てられた者が利用する養生術だ。


 男はその養生術を用いて、娘の中にある穢溜まりを結界で縛る事を提案した。ただし、その方法は肉体の繋がり——粘膜接触でなければ成しえない方法であった。


 娘は、それを受け入れた。






「ごめんなさい」


 モミジはトウシロウの首元に顔を寄せ、静かに涙を流した。


「こんな穢れた……おぞましい身体に、触れさせてしまって……、ごめんなさい……っ」


 しかし、己を受け入れてくれる人間は、トウシロウしかいなかった。その代わり、人々に敬われる英雄である彼の人生を奪った……奪ってしまった……。


「まだ、貴方を手放す事が出来ないっ」


 穢れが消えるまで―—。


「ごめんなさい……」


 身体の内に結界が施されたモミジは、とうとう体力が尽き、意識を手放した。


「……謝るのは、俺の方だ」


 トウシロウは、モミジの右肩にもある祟りもちに負わされた傷痕を撫でた。


「もっと早く助けにいけたなら、お前は祟られる事はなかったんだ」


 四年前に起きた百鬼夜行——。国の軍人、傭兵と集結する中、トウシロウも要請を受けて討伐に加わった。多くの妖魔が発生する中から祟りもちが出現した。それは戦場から外れ、民間人を襲った。襲われたのは夜会帰りの貴人の一家で、令嬢が弟を庇い、祟りもちから大怪我を負わされた。令嬢——モミジの人生は、ここで大きく変わってしまったのだった……。


「ごめんな。まだ、お前を自由に出来ない」


 トウシロウは、眠りに落ちたモミジをそっと抱き寄せた。

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