第十二話 赤獅子
大猿から感じ妖気から、モミジよりも断然に格上である事が分かった。更に、大猿が纏う気は木で、モミジの土の気に
――お師匠様……っ。
モミジは師を思った。
伝霊紙は送った。必ずこちらへ来てくれるだろう。その間、ミモリ達の身を守らなければならない。
――お願いですっ。早く来て……っ。
己が死に果て、ミモリ達に危害が及ぶ前に——。
ポキョッと嫌な音が鳴った。モミジは、はっとして意識を戻して見遣ると、大猿が、
「ひっ」
コトリが、小さく引きつった声を上げた。
その声に反応したのか、大猿は耳をぴくぴくと揺らし、モミジ達を見た。
「——っ!」
全員が、蛇に睨まれた蛙のような状態で、全身が硬直した。
大猿はモミジ達を凝視すると、おもむろに片手で掴んでいたカヨの体を頭上に持ち上げると、——モミジ達に向かってぶん投げてきた。
「なっ――!?」
物凄い速さで、モミジ達の元にカヨの体が飛んで来る。モミジは、ミモリ達を庇ってカヨの体を受け止めた。しかし、ぶつかる衝撃が強く、モミジはカヨの体を抱えたまま、地面に倒れた。
背面から受け止められたカヨの頭が、かくんっと、後ろ側に反れた。既に絶命したカヨは、頭、鼻、口、飛び出かけている目から血を流していた。ぽっかりと開いた口の中は闇しかなく、もう何も映す事はない目は、青褪めてがくがくと震えるコトリに向いていた。
「いやぁあああああああ!」
その凄惨な死に顔に、コトリは絶叫した。
「いやぁああ! いやよぉっ! なんでこんなぁっ! お父様ぁあ! だれか助けなさいよぉぉおお――!」
「コトリ様! 落ち着いて――っ!」
泣き喚くコトリをミモリが宥めようとするが、恐怖に陥ったコトリは混乱して暴れ、ミモリの腕を引っ掻いた。ヨシノリがコトリを羽交い締めにして止めるが、尚も暴れた。
そうしている間に、大猿が跳び跳ねるようにして迫ってきた。残忍な笑みを浮かべ、近付いてくる。
「あ――」
誰かが、絶望とも諦めともとれる声を溢した。すると——。
「……え?」
ミモリとヨシノリが同時に声を上げた。
どういう事か、大猿の動きが止まっていた。時が止まった……というより、大猿は金縛りにあったかのように、体をぶるぶると小さく震えさせて固まっていた。
「モ、モミジさん?」
ミモリが、モミジに目を向けた。大猿の前に、モミジがミモリ達を庇うように立ちはだかり、掌を広げ、前方に突き出して構えていた。モミジは何かを堪えるように歯を食いしばり、前に突き出している腕は激しく震え、もう片方の手で腕を支えていた。
「今、この妖魔の体を縛り、動きを、封じています」
モミジは、大猿を見据えたまま、途切れ途切れに言った。
縛りは本来、一人が妖魔の動きを止めている間に、もう一人が攻撃を仕掛けるものだ。だが、今はモミジしかいない。一人でも、一瞬の隙を作る為に縛りを施す事もあるが、モミジにそんな余裕はない。
「今の内に、逃げて下さい……っ」
今優先すべき事は、ミモリ達をこの場から逃す事だ。
「モミジさん、私も戦い――」
「——足手纏いですっ!」
ミモリの言葉を遮り、モミジは強く言った。
清廉なミモリなら、モミジを一人置いて逃げるのは許容出来ない事だろう。ヨシノリもそうだ。だが、相手が悪過ぎる。格上の妖魔相手に、ミモリ達を庇いながら対峙するのは難しい。全員がこの場に残れば、誰かが必ず命を落とすだろう。
「お願いですっ。早く、コトリお嬢様を連れて、逃げて下さいっ」
モミジの強張った指先が、一本、また一本と弾かれたように揺れた。それと連動して、大猿の右腕がぴくっと動き、左足がずずっと動いた。大猿に仕掛けた縛りが、解けかけている。
「……ごめんなさいっ!」
ミモリは観念したように謝罪を口にし、暴れるコトリを肩に担いだヨシノリと共に、その場から逃げ去った。ザッ、ザッ、ザッ……と、下草を踏んで駆けていく音が遠ざかるのを聞いて、モミジは安堵した。
もう、大猿の五体を封じる縛りが……——解ける。
バチッっと、モミジが構えていた手が弾かれた。その瞬間、大猿が動き出し、モミジに襲い掛かった。モミジは、既に気を練っていた——体外の自然の気を取り込み、火の気と陽の気を練って己自身に付与し、金の気と陰の気を練り、腰帯に差した双剣を抜いた。
ガツンッと、長い腕を金槌のように振り下ろしてきた大猿の拳を、モミジは双剣で防いだ。
――重い……っ!
その上、硬い。大猿の一撃で、モミジは己の体が地面にめり込むような錯覚を覚えた。大猿はそれからも、地面を這う虫を潰すかのように、モミジに向かって拳を振り落としてきた。モミジはそれを弾き、受け流し、防いだ。モミジは防御に徹するのに精一杯であった。
なかなか思うように叩き潰れないモミジに焦れたのか、大猿はモミジを捕まえようと、掌を広げて腕を伸ばしてきた。モミジは間一髪で飛び退き、大猿は
やっと仕掛ける事が出来た一撃でも、急所を狙わなければ意味がない。大猿の長い腕を抜けて、懐に入らなければならない。だが、距離をなかなか縮められない。それとも、このまま大猿の攻撃を避けて逃げ回るか。けれども、霊力——体力の消耗が激しい。いずれは、力尽きてしまう。どうすれば……——。
焦りが油断となった。
大猿が、がぱっと口を開けると、長い舌が勢いよく飛び出てきた。
「——っ!」
腕よりも長く伸びてきた大猿の舌が、モミジの足に絡み、掬われてしまった。モミジは体を引き倒されてしまい、足に絡み付いた舌で体ごと持ち上げられ、一度、二度と、地面に振り下ろされた。その衝動で思わず、モミジは双剣を手放してしまった。更には、体を振り回され、木の幹に叩き付けられてしまった。
モミジは背中を強打し、息を詰まらせた。咳き込んでいると、いつの間にかモミジの目の前に大猿がいた。太い枝に足を引っ掛けて、逆さ吊りの状態になっている大猿は、にまぁ……っと、気味の悪い笑みを浮かべてモミジを見ていた。モミジはぞっとし、咄嗟に両腕で頭部を覆った。
モミジが予感した通り、大猿は太鼓を叩くようにモミジを殴打した。モミジは腕に甲手を装備しており、大猿の打撃で両腕は骨折する事は無かった。だが、殴打の衝撃は大きく、両腕の筋肉は疲弊し、一気に重くなる。だんだんと頭部を覆う両腕に力が入らなくなり、とうとう大猿の殴打でモミジの右腕が弾かれた。モミジの顔面の右側面ががら空きになってしまい、そこを目掛けて大猿に横殴りにされた。脳が揺らぎ、モミジは体幹を失ってふらついた。そこへ更に、大猿から同じ個所を殴打されたモミジは吹っ飛び、地面に転がった。
ぐらぐらと世界が回って見える。それなのに、先程より視界が広がって見えた。モミジは殴られた箇所に手を当ててみると、面具の右目周り部分が欠けた事に気付いた。
モミジは立ち上がろうとするが、まだ脳が揺れて平衡感覚が戻らない。すぐに地面に膝を着いてしまう。何とか頭だけでも上げるが、束の間に視界が暗くなった。大猿の手の甲が、モミジを打ち払った。モミジはごろごろと転がり、その様を見た大猿は、両手をパンパンと打ち鳴らして、ギャッギャッと笑い声を上げた。
——弄んでいる。
モミジは口の中から鉄の味を感じつつ、嫌悪した。
大猿はひとしきり笑うと、モミジに近付いた。モミジは膝立ちになって、大猿を見据えた。モミジの真正面に立った大猿はかぱっと口を開くと、長い舌をズルズルと出していった。舌をよく見ると、舌先は筒状になっていて内側に
あれで、己がこの後どうなるかなどと考えたくない。けれど、モミジに抵抗する
——あぁ、駄目だ。殺される……。
気色の悪い舌が、モミジの腿、腰、胸元と這いずり、頭部に迫ってくる。鳥肌が立つ。死が近付いて来る。けれど、ミモリ達を逃がす時間稼ぎは出来た。上出来だ。きっと師が、ミモリ達を見付けて助けてくれるだろう。きっと、師が……。
「……トウシロウ様」
モミジは、静かに、そっと、師の名を口にした。
——トウシロウ様……トウシロウ様……。
モミジは思い出す。家族に見捨てられ、自分の存在が黒く塗りつぶされそうになった時、手を差し伸べてくれた人。その人の勧めで退魔士となる為に過酷な修行を積んだが、今迄で一番穏やかな時であった。救われた。もう充分だ。触れた手から感じる温度も、ぶっきらぼうな優しさも、決して忘れない。死んでも……死んだとしても……。
「ありがとうございました」
大猿の舌が、モミジの頭部に詰まったご馳走に狙いを定める。もう死は目前だ。それでも、モミジは穏やかな心地であった。モミジの目に、大猿の姿など映していない。目に浮かぶのは、燃えるような赤い髪の男。
――これで貴方は、自由になれる。
モミジは瞼を閉じた。
その刹那、一陣の風が吹いた。切り裂く斬撃の音が鳴り、大猿の雄叫びが轟いた。
モミジは瞼を開いた。獅子の鬣のような赤い髪を靡かせ、大剣を振るって黒い雫を払い落す男の後ろ姿が、目の前にあった。
「お師匠様……?」
モミジは呆然と呟いた。
振り返ったトウシロウは、モミジを見遣ると、チッと舌打ちをした。
「馬鹿弟子が。死に急いでんじゃねぇよ」
そう言ってトウシロウは、モミジの体に絡み付いていた大猿の舌を解いて放り捨てた。
モミジに絡み付いていたその舌は切断されており、地面の上でびくびくと気味悪く蠢いていた。モミジが大猿の方に目を遣ると、大猿は口に手を当て絶叫していた。口から長い舌が零れており、切断面から黒い体液を流している。負傷した痛みからか、背を仰け反らせて地団駄を踏んでいた。
——生き、てる……?
モミジは、己が助かったと言う事実をじわじわと実感し、ふっと力が抜けて膝が崩れた。それをトウシロウは咄嗟に抱き留めた。
「霊力切れか。怪我は?」
「平気、です」
「そうか」
トウシロウは、モミジの唇の端に滲んでいだ血を指で拭った。
「俺の後ろにいろ。絶対に動くなよ」
トウシロウの背に回されたモミジは、ぴりっと全身の産毛が立った。トウシロウからは、気安く触れれば弾かれてしまいそうな、とてつもない圧を放っていた。
激昂している──。
モミジは固唾を呑んだ。
「えらく、こいつを痛めつけてくれたみたいだな」
トウシロウが大猿に向かって言った。
大猿は、両手で地面を叩いて土埃を上げ、体液をまき散らして咆哮を上げた。激怒しており、危険な状態だ。けれど、トウシロウは冷静だ。その身の内に、業火のような殺気を秘めているなど、誰が思うのだろう。
「てめぇの汚ねぇ外皮も、骨も、魔晶石も、要らねぇ。木端微塵だ――」
トウシロウは、大剣を大猿に向けて構えると、ビュンッと振り下ろした。すると、空間が破裂した。剣先の軌道線上にある下草、石、大地が抉れ、更に向こうにいる大猿の両腕が——消し飛んだ。
大猿は、何が起こったのか分からず、鳴き声も上げずに呆けていた。そんな大猿に向かって、トウシロウは告げた。
「——陵辱してやるよ」
トウシロウは大剣を構え直した。
大猿は跳躍し、逃げ出した。本能的に危機を感じたのだろう。だが、トウシロウは逃がさなかった。五本の指を大猿に向けて突き出し、ぐっと折り曲げた。縛りを受けた大猿は、躓くようにして地面に落ちた。束の間、トウシロウは一気に大猿に詰め寄り、刃を振るった。そして——。
「——っ!」
モミジは腕で顔を覆った。斬撃の音が鳴り響くと、乾いた突風と砂埃が、モミジを襲った。乾いた肌がちりちりと痛む。突風が吹き抜けると、モミジは目を開けた。辺りは塵が立ち昇り、枯れた木の葉が舞っていた。やがて塵が晴れると、そこにトウシロウがいた。
トウシロウの周りには何も無かった。
石や草木が無く、大地も色を無くして真っ白となっていた。白い世界にはトウシロウしかおらず、地面には大きな窪みが出来ていた。大猿の遺骸など、何処にも無かった。
モミジは改めて、師であるトウシロウの強さに畏敬の念を抱き、——心の底から安堵した。
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