第十一話 妖魔
深い森の中、女達の悲鳴が木々の間を突き抜けて響き渡った。その悲鳴は、モミジ達の耳に届いた。
「今の悲鳴は、コトリ様達の……っ」
ミモリが悲鳴が響いた方向へ、急いで振り返った。
「さっきの
モミジはそう口走ると、元来た方へと駆け出した。その後を、ミモリが直ぐ様に追った。
「二人共、待って! 罠かもしれないんですよ!」
ヨシノリは慌てて言った。しかし、モミジの足は止まらなかった。それはミモリも同じで、ヨシノリは疑いつつも、二人の後を追った。
「あれは——!」
穢溜まりの場所まで戻ると、モミジは信じられない物を目にした。そこには、倒れている男と、穢溜まりを囲んでいるはずの錫杖が一本、地面から抜けて落ちていた。
「いけないっ!」
モミジは真っ先に錫杖を手に取った。倒れている男も勿論気になるが、優先順位は明らかに穢溜まりだ。穢溜まりからは、もうすでに邪気が少しずつ漏れていた。モミジは、急いで元にあった場所に錫杖を突き立てた。
「注連縄を繋ぎ直して下さい!」
モミジは誰にともなく叫んだ。すると、ミモリが駆け寄り、たらりと垂れていた注連縄を錫杖に繋ぎ直してくれた。それが終わると、モミジは自分の霊力を引き出し、陰と陽の気を手に持った錫杖を通して結界を張り直した。
陰の気が穢溜まりから溢れる邪気を静めて内側に留め、陽の気で邪気が外側へ漏れないように
モミジの内から、霊力が一気に抽出されていく。目が霞み、汗は流れ、錫杖を持つ手がぶるぶると震えた。モミジの視界が暗くなりかけた時、穢溜まりから邪気の漏れを感じなくなった。結界が張り直された——モミジは、ばっと錫杖から手を離し、膝をついた。
「——何とか、結界を……、張り、直せ……ました……」
霊力をかなり消耗したモミジは、酷く疲れ、息切れしていた。そんなモミジを隣で見ていたミモリは、ぽかんとしていた。
「モミジさん、穢溜まりの結界を張る事が出来るのですか?」
「いいえ……。私が出来るのは……、妖魔の動きを縛る程度の力量です……。今出来たのは、錫杖一本分だったからです……。それでも、ぎりぎりの所でした……」
「でも、結界は浄化の力が必要では?」
「邪気と相反する浄化の力は、元々誰でも備わっている力です。人は邪気に当てられやすい存在ですが、休息を取る、身体を動かす、談笑する、笑う——など、こういった事で、自然と微弱な邪気なら自力で祓う事が出来ます」
だがやはり、穢溜まりなどの強力な結界を張るには、霊力と浄化の力を膨大に有する者でなければならない。安易に結界を張ろうものなら、命を落としかねないのだ。
話している内に、呼吸が幾分か落ち着いてきたモミジは、周りの状況を見渡した。
「倒れいている男性は?」
モミジは後方に振り返った。そこにはヨシノリがおり、屈んで倒れいた男の安否を確認していた。
「……死んでいます」
ヨシノリが静かに言った。
モミジは「そう、ですか……」と声を落とし、遺体の男に近付いて状態を確認した。
「……っ、惨い……っ」
遺体の頭部からは血が流れ、男の顔面は赤く濡れていた。目は恐怖に見開かれ、口元は絶望した形に歪んでいた。損傷した頭部を見れば、頭骨が見えており、穴が開いていた。……中身は空のようだ。
明らかに、妖魔に襲われたのだろう。退魔士であるモミジは、助けられなかった事を悔やんだ。
――しかし、先程まで確かに五本の錫杖で穢溜まりを囲っており、結界は完璧な状態で張られていた。なのに何故、一本だけ地面から抜け落ちていたのだろうか……。
「この男、渡守家の私兵です」
厳しい声に、モミジは遺体から目を離して顔を上げた。目の前にいるヨシノリは、複雑そうな表情を浮かべていた。
「この手の甲を見て下さい」
「……古傷ですね。何か刺された痕のような――」
モミジは、はっとして、思わずミモリに目を遣った。
「……はい。暴漢者と思われる内の一人、ですね」
ミモリも、難しい顔をしていた。
「結界を破ったのはコトリ嬢達——もしくは、コトリ嬢に命令されたこの男だと思います」
「そんな馬鹿なっ」
ヨシノリの発した言葉に、モミジは信じられない思いで声を上げた。
穢溜まりは、百鬼夜行が起きるかもしれない、恐ろしく危険な物なのだ。だから結界が張られている。——それを破った……?
「妖魔が新たに出現すれば、赤獅子様はこの土地に留まる事になるでしょうし、あわよくば、近くにいたミモリさん――俺達を害そうとしたかもしれません。ここに、この男が居るって事は、俺達がここにいたのを、あの女達は何処かから見ていたんだと思います」
ヨシノリは怒りの形相で、ギリッと歯を食い縛った。ミモリは、ヨシノリの文言を否定せずに、目蓋をきつく閉じていた。
モミジは絶句した。
そんな幼稚で浅慮な思いで、結界を解いたと言うのだろうか?
「コトリお嬢様は……」
――そんなにも、愚かな人間なのですか?
その時、ブゥ……ンッと羽音のような音がモミジの耳に届いた。それと同時に邪な気配も――。
「伏せてっ!」
モミジが二人に向けてそう叫ぶと、腰帯に差した双剣を手にした。
耳障りな羽音を立て、何かがモミジ達の元へ向かって来る。それは蜂のような見た目であるが、大きさは人の掌よりもあり、毒針も長くて錐のように鋭く尖っている——蟲型の妖魔だ。
咄嗟の事でモミジは気を練らなかったが、妖蟲は下級妖魔だったので、相生、相剋の関係性など考慮せずに倒すのは容易であった。だが、すばしっこく宙を飛ぶ上に、数が多い。まだ十体程の妖蟲が、モミジ達の頭上をブンブンと耳障りな音を立てて飛んでいた。
「援護します!」
モミジが苦慮していると、伏せていたミモリが上体を起こして弓矢を構えた。同じくヨシノリも弓矢を構えると、二人は矢を放ち、宙を飛ぶ妖蟲を射ち落としていった。だが、霊具では無い武器から受けた攻撃では、妖魔は滅する事は出来ない。損傷した部位はすぐに再生してしまう。その前に、モミジは刃を振るって妖蟲に止めを刺した。
そうして、襲い掛かって来る妖蟲をモミジは切り払った。手の届かない位置で後方から不意を突こうとする妖蟲をミモリとヨシノリが矢で射ち、モミジが仕留めるまで地面でのた打ち回る妖蟲を矢や狩猟用の小刀で縫い留めた。
やがて、羽が千切れたり切断された蜂のような妖蟲達の遺骸が全て地面に落ち、黒い体液で辺りを濡らした。その光景にヨシノリは「ウヘェ……」と声を漏らした。
「俺……、初めて妖魔と、対峙しました……」
「大丈夫ですか? 私、気付け薬などを持っていますが、要りますか?」
戦いの抑圧から解放され、へなへなと膝に手を付いて項垂れるヨシノリに、モミジは心配げに声を掛けた。腰帯に付いた鞄に手を入れてがさごそとするモミジに、ヨシノリは断って「平気です」と、へらっと力のない微笑を浮かべた。
モミジが「そうですか――」と頭を上げると、途端に視界がぐらついた。
「モミジさんっ!」
ふらついたモミジの体をミモリが咄嗟に支えた。
「——っ、すみません」
「モミジさんの方こそ、大丈夫ですか? 唇の色が真っ青ですよっ」
唯一、面具から露出しているモミジの口元を見て、ミモリは眉を寄せた。
「少し、霊力を使い過ぎました。回復薬を飲めば、大丈夫です」
モミジは鞄から小箱を取り出した。蓋をずらして小箱を開けると、丸薬を一粒手に摘まんだ。モミジは「この薬、苦いんですよね」と溢し、口に含んでゴクリと飲み込んだ。これで徐々に霊力が回復するとはいえ、舌の奥で感じた苦みと臭気に、モミジはぶるりと体を揺らした。
「あの男は、この蟲達に殺られたのでしょうか?」
ミモリが、妖蟲達の死骸と男の亡骸を見比べて言った。
「……違うと、思います」
男の頭にある風穴と妖蟲の毒針の直径の大きさが違う。それに妖蟲は群れていたので、襲われたのであれば体中が穴だらけだったであろう。——という事は、他に妖魔が出没しているという事になる。モミジがその仮説を話すと、ミモリとヨシノリは顔色を無くした。
「とにかく、師に連絡します」
モミジは、鞄から白い紙を取り出した。
「しばらくすれば、師もこちらへ駆け付けてくれます。しかし、妖魔は他にもいますので、くれぐれもご用心を——」
その時、多くの鳥の群れが喧しく鳴き喚いて、木々の葉を揺らして飛び立って行った。そして、また女の悲鳴が轟いた。
「あっちの方からです!」
ミモリが走り出した。ヨシノリも、妖魔に襲われた男の遺体を見た後なので、躊躇う気持ちも無くミモリの後に続いた。
「あ! 待って下さいっ!」
妖蟲の遺骸の処理は後回しだ。未だにふらつく身体に叱咤し、モミジも駆け出した。
深い緑の中、枝や茂みを避けて縫うように走った。悲鳴のあった方向に進むにつれ、モミジの肌が粟立った。
――嫌な予感がする。
そこへ、鬱蒼とする木々の切れ間から、へたり込んでいる
「コトリ様!」
ミモリが、腰を抜かしているコトリに駆け付けた。
「お一人ですかっ? カヨ様はっ?」
目を見開き、がたがたと全身を震わせるコトリの目が一点に向いていた。ヨシノリ、モミジもコトリの元へ駆け寄ると、三人は彼女の視線の先に目を向けた。
「……あぅ! ……ぁっ! ……グぁっ」
木々の影の中から、途切れ途切れに女の喘ぐ声が聞こえた。それと共に、ジュルルルル――と何か啜る音も。
「……?」
薄闇の向こうに何かがいる。目を凝らして見詰めた。そこには――。
「——っ!」
全員が、戦慄した。
そこには、大猿の
二メートルは軽く超える大猿は、大きな獣の手で、骨が砕けそうな程にカヨの胴体と顔面を無遠慮に掴み、頭に
その凄惨な光景に、誰もが声を失った。
――あぁ、駄目だ。
モミジの手が震えた。
——あの妖魔には、勝てない……。
気を探るまでもない。邪気の濃さと妖力の圧が、モミジの全身を圧迫した。
力量に差があり過ぎる。全身が総毛立つ。冷たい汗が流れる。ドクドクと血が体中を巡るのに、温まるどころか冷えていく。逃げろと、本能が言う。だが、逃げられない――逃げきれない。
モミジは否応なく、己の死を覚悟した。
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