第五話 氏名を持つ者(一)
鬱蒼とした木々の中、四本の大きな牙を生やした猪のような妖魔が、蹄で土を踏み鳴らしていた。鼻息が荒く気性が激しそうだ。妖獣は五体で、大きさは成体の猪と変わらず、突進されれば一溜まりもないだろう。
モミジは茂みに潜んでいた。妖獣に気を遣りつつ、モミジは腰帯の鞄から投石紐と胡桃を取り出した。胡桃に実は詰まっておらず、殻の中身は痺れ毒の粉末だ。モミジは投石紐に胡桃を仕掛けると、ヒュンヒュン――と振り回した。
「いいぞ、やれっ」
木の上に潜むトウシロウが号令をかけた。
モミジは妖獣に目掛け、胡桃を勢いよく放り飛ばした。胡桃は妖獣の頭部に当たると割れ、中身の痺れ毒が霧散した。別の方向からも胡桃が飛んで妖獣に激突し、更に矢が飛んで妖獣の首の付け根に刺さった。
妖獣達は雄叫びを上げ、ドドドドド――と、それぞれが一直線に猛進した。木にぶつかっては、幹をしならせて木の葉や細枝を落としたり、岩に衝突しては、それを粉砕するまで足を止めなかった。妖獣達は方向転換をして、また闇雲に駆け出そうとした。しかし、痺れ毒が効いてきたのか、妖獣達の足元が覚束なくなっていた。特に、痺れ毒が塗ってあった矢に刺さった二体の妖獣の動きが鈍かった。
その瞬間、木の上に潜んでいたトウシロウが、大剣を手にして飛び降りた。トウシロウは、矢の刺さった妖獣に目掛け、その頭部を切り落とした。
モミジも茂みから飛び出し、矢の刺さったもう一匹の方の妖獣へ向かった。鋭い四本の牙がモミジに振り返ったが、モミジは牙の餌食にはならずに、双剣で妖獣の首元を切り付けた。
その間にも、茂みの奥から矢が飛び、残りの妖獣の首元に突き刺さった。
そうやって、痺れ毒が効いて右往左往と暴れずに麻痺している妖獣を、トウシロウとモミジは次々に倒していった。
「それにしても、全部の矢が首元に命中していますね」
全ての妖獣を討伐すると、次に素材の採取に取り掛かった。トウシロウとモミジはそれぞれ別の妖獣を解体していき、その際に、妖獣の頭部の付け根に突き刺さった矢を抜いていった。
「見事に急所に刺さっています。鹿養様、ミモリ様も、素晴らしい腕前ですね」
モミジは抜き取った矢から目線を隣に移し、感心して言った。隣には、袴姿の道着に胸当ての防具を付けた娘がいた。
「ありがとうございます、モミジ様」
モミジと同じ年頃の娘は、にっこりと笑った。きりりとした眉に、長い黒髪を高い位置で一束に結び、弓を携えた娘は、とても清廉とした佇まいでいた。
「私に敬称は不要です」
「では、私も敬称は結構です。村の皆も、気安く呼び合っていますし」
ミモリはそう言って、モミジから矢を受け取って矢筒へと回収した。
「しかし、急所に命中しても、妖魔相手では太刀打ち出来ませんでした」
ミモリは、そのきりりとした眉をひそめて言った。
「霊具も無く、——あったとしても扱える者は村に居ませんし、
霊剋薬とは、霊具ではない武器に塗れば、妖魔を討つ事が可能になる霊薬である。村で調合出来る者がいなくても、行商人が販売していそうだが、どうやら入手出来ないようだ。
「本当に、あなた方がこの依頼を引き受けて下さって、感謝しております」
ミモリと同様に袴姿で弓を背負い、また彼女と同じ形の眉で髭を蓄えた中年の男性が、トウシロウとモミジに感謝を示した。
「しかし、
解体の準備をしていたトウシロウが、意外そうに口にした。
「満足な報酬額も払えずに、ご負担を強いる訳にはいきませんから」
ミモリは申し訳なさそうに言うと、彼女の父である村長——鹿養ユキマサも、娘に同意して頷いた。
「それに、我らは鹿養家の者。『養』の
鹿養は真摯に言った。
只の平民は、
土地を治める貴人は、その土地を統括し、守る義務がある。土地を脅かされれば、武人の血筋らしく民衆の前に立ち先陣を切る者や、武の才が乏しい者は徴集した兵を指揮し、守護した。
トウシロウとモミジに同行した鹿養家の
「お師匠様、少し失礼しても宜しいでしょうか?」
鹿養父娘の手も借りて輝り火を焚いていると、モミジがぴくりと何かに反応した。行動をいつも共にしているトウシロウは、モミジのその反応をよく理解していた。
「あぁ、行ってこい」
トウシロウから許しを貰ったモミジは、トウシロウ達の元から離れて茂みの奥へと消えて行った。
「モミジさんは何処に?」
「探し物だ」
少し心配げに尋ねたミモリに、トウシロウは無難な様子で答えた。その後もトウシロウは、何処かへ向かったモミジを気にする事なく、戦地となった場に灰を撒いていった。
「さて、だいぶ素材を採取出来たんだが、半分は貴殿らが貰ってくれるか?」
トウシロウは、輝り火の煙で浄化した牙や毛皮などの素材を指差して、鹿養父娘に向かって言った。
「そういう訳には……っ」
「共に戦ったんだ。分け前は当然だろう? それに、この量だと荷運びが必要になる。運搬費だと思って引き取ってくれ」
「しかし、報酬額が儘ならない分、あなた方に納めて頂きたい」
義理堅いのか頑固なのか、鹿養はなかなか首を縦に振らず、トウシロウは思わず溜め息を漏らしそうになった。
「俺達は依頼書に提示された報酬額に納得して、討伐依頼を引き受けたんだ。それ以上は受け取らん」
トウシロウはきっぱりと言った。
妖魔によって農地が荒らされたのならば、鹿養達は尚の事、少しでも資金を得なければならないはずだ。それをトウシロウはよく理解していた。進んで依頼を受注しようとしたモミジも、同じ考えであろう。
お互いに頑として譲らない姿勢であったが、軍配を上げたのはトウシロウであった。
「ありがとうございます」
鹿養は娘共々、トウシロウに頭を下げた。その二人の姿が不憫で、トウシロウは居たたまれない気分になり、頬をぽりぽりと掻いた。
「……立ち入った事を聞くが、ここらの領地は景気が悪い——」
「赤獅子様は何処にいらっしゃるのっ!?」
突如、木々の間を縫って響き渡った甲高い女の声に、トウシロウは口を噤んだ。
「お前! 本当にこっちに赤獅子様がいらっしゃるの!? 嘘を吐いたら、ただじゃ置かないわよっ!」
甲高い女の声がだんだんと近付き、間もなく人影が見えてきた。鹿養家が治める村の若い男を先頭に立たせ、五人の兵士に守られながら歩く娘が二人いた。その内の一人の娘が、若者に対して威圧的な態度をとっていた。
「鹿養殿、あの喧しい集団は何だ?」
トウシロウは煩わしそうな顔をして尋ねた。
「領主代理のご息女と、そのご友人の令嬢です」
「代理?」
ふと、トウシロウ達に気付いた集団は下草を踏み分け、ずんずんとこちらに向かって来た。
「退きなさい」
先程から喚いていた娘が、前を歩かせた若者を押し退けた。
娘は、釣り鐘型の帽子を被って肩先程の黒髪を巻き、首元と胸元には真珠とダイヤモンドの飾りを付け、膝下丈のアコーディオンスカートをベルトで締めた洋装をしており、見た目からして裕福そうだ。
若者は、申し訳なさそうに鹿養達をちらりと見て、後ろへ下がった。
「御機嫌よう。鹿養様に、ミモリさん」
ずいっと前へ出た娘は、敬称を付けているとはいえ、明らかに見下した態度で鹿養家父娘に挨拶をした。
「ご機嫌麗しく。コトリ嬢」
鹿養はミモリと共に、娘に会釈をして挨拶を返した。
不遜な態度をとる娘は、鹿養とミモリから目を離してトウシロウを見遣ると、恍惚とした表情を浮かべた。
「ミモリさん。そちらにいらっしゃる殿方を、わたくしにご紹介してくれないかしら?」
真っ赤な紅を引いた唇から出た言葉は、お願いでは無く命令であった。
ミモリはちらっとトウシロウを窺い見た。それに対して、トウシロウは構わないと言った風に、小さく頷いた。
「……赤獅子と謳われております、英雄のトウシロウ様です。赤獅子様、こちらは——」
ミモリがトウシロウに娘の紹介をしようとしたところを、娘はドンッとミモリを押し退け、トウシロウの前に出た。
「わたくし、イナノホリ領主代理が娘——渡守コトリと申します。こちらは、お友達の隆成カホ嬢ですわ」
コトリは淑女らしくトウシロウにお辞儀をすると、彼女の横にいる胸元まである淡い髪色をした娘を紹介した。コトリから紹介されたカホと言う令嬢も、顔を赤らめつつトウシロウにお辞儀をした。「隆」の字は「守」と同列の身分だ。
「まさかあんな農村に、英雄の赤獅子様がいらっしゃるとは思いもしませんでしたわ! ねぇ、カホさん?」
「そうですわね、コトリ様!」
コトリに話を振られたカホは、へりくだった態度で彼女に同意した。どうやら同じ位の令嬢でも、力関係はコトリの方が上のようだ。
「赤獅子様、妖魔討伐でお疲れでしょう? どうぞ、領都にある我が渡守家の屋敷でお休み下さいな」
コトリは両手を胸の前で組み、上目遣いでトウシロウを見上げた。
ぱっちりとした目に、彫りが深くはっきりとした顔立ちのコトリは、なかなか美しい容姿であった。だが、鹿養やミモリ、村民を蔑むさまを間近で見せられたトウシロウは、只々この娘が醜悪であるとしか認識しなかった。
「結構だ」
「え?」
トウシロウから冷たく断られた事に、コトリは呆然とした。
「既に村の旅籠に部屋を取ってある。それに、わざわざ領都まで足を運ぶなんて面倒だ」
「でも、あんな村の旅籠なんかよりも——」
「只今戻りました」
コトリが何とかしてトウシロウを自分の住まう屋敷へ招こうとした所に、モミジが戻って来た。モミジは、いつの間にか人が増えている事と、その場にいる全員の目がこちらに向いた事にぎょっとした。
「おう、あったか?」
トウシロウは目の前にいるコトリを放って置き、モミジの元へ体を向けた。
「あ、はい。あちらの方に泉——」
モミジがそう言い掛けると、トウシロウはさっと腕を伸ばしてモミジの首を絡めると、ぎゅっと彼女の口を塞いだ。
「——うぶぅっ!」
「ご苦労。素材を持って、村に戻るぞ。——地酒を用意してくれているんだろう?」
モミジを締め抱えたトウシロウは、鹿養とミモリに尋ねた。
「え、えぇ。村の特産米で拵えた純米酒をご用意しております」
トウシロウの腕の中から、風船の空気が抜けるような悲鳴とは似て非なるモミジの声に、ミモリは戸惑いつつも答えた。
「他にも村で収穫した物で、料理の準備をしております……が、大丈夫ですか?」
鹿養も答えつつ、トウシロウに絞められているモミジの心配をした。
「問題ない。ほら、素材を片付けて村に戻るぞ」
トウシロウは、バンバンバンッと自分の腕を叩くモミジを無視し、締め抱えたままモミジをズルズルと引きずった。そこへ——。
「きゃあっ!」
突如として、悲鳴が響いた。モミジはトウシロウの腕から抜け出して身構え、トウシロウも警戒心を露にした目付きで振り返った。
「大丈夫ですか! コトリ様!」
二人の目に映ったのは、コトリが膝を付いて蹲り、それをカホが心配している様子であった。
「ごめんなさい。足が滑って」
そう言って、コトリは己の足首を擦っていた。
妖魔が出現したのかと警戒したモミジとトウシロウは、その様子を見て、気を張った体をすぐ緩めた。
すると、コトリが「赤獅子様……」と、弱々しくトウシロウへ呼び掛けた。
「足を痛めてしまったようで、立ち上がる事が出来ません……。どうか、殿方の手をお貸し下さいませんか?」
コトリは瞼をぱちぱちとさせると、目を潤ませて言った。
男手なら、鹿養や村の若者、コトリが連れている私兵もいる。トウシロウがうんざりした顔で兵士達を見れば、彼らは目を逸らした。
誰も動こうとしないこの膠着状態に、モミジは「お師匠様……」とトウシロウを促した。トウシロウは長い長い溜め息を吐いた後、コトリの元へ歩み、手を差し出した。
「あぁ、赤獅子様!」
コトリはその手を取って立ち上がると、ふらっとトウシロウにしなだれかかった。
「どうやらコトリは、乗ってきた馬車まで戻るどころか、自力で立つ事も儘ならないようです……」
コトリは物憂げに言った。
――何だ、この茶番は……。
この場にいる殆どの者がそう思う中、
トウシロウは無表情になって、コトリの肩と膝裏に腕を回して横抱きにした。
「……さっさと戻るぞ」
腕の中で黄色い声を上げる令嬢とは絶対に目を合わせずに、トウシロウはモミジ達に言った。
モミジは、何とも言えない師の顔を見て少々哀れみを抱きつつ、鹿養とミモリ、そして村の若者の手も借りて荷造りした。そうして、先を歩くトウシロウと令嬢達の後を追って、鹿養達の住む村へ戻って行った。
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