第一話 退魔士


「そうら、行ってこい」


 モミジは「えっ?」と声を上げる間も無く、ドンッと背中を押され、滝壺へ落ちていった。


 突如として体が宙に投げ出され、頼りない浮遊感に内臓が戦慄き、モミジは青褪めた。——と、恐怖を感じたのも束の間に、ドブンッと、滝壺の中へと沈んでいった。モミジは何とか水を飲む事無く、水底に体が着く前に手足を動かして浮上した。ドウ、ドウと、滝が激しく打つ水面へと向かい、モミジは水面から頭を出すと大きく息をし、空気を求めた肺に惜しみなく送った。


 そんな状況に陥ったモミジに対して、彼女を滝壺に突き落とした男が、滝の轟音に掻き消されないように声を張って、モミジに伝えた。


「こっちは俺に任せて、お前はそっちを片付けろ」


 モミジは顔を上げた。逆光で男の姿はよく見えないが、きっとにやにやとした表情を浮かべているに違いない。


 宣告も無く己を突き落としてきた男に、モミジは一言物申したい所ではあった。だが、それどころではないので口を噤んだ。モミジは底に足が着く場所まで移動し、立ち上がった。


 濡れた前髪が重く、後ろに掻き上げ、うなじに張り付いた短い髪を払った。水で滴った顔も拭いたいところだが、邪気避けの付与が付いた退魔の面を着用しているので、それは叶わない。面具は、両目と口元だけ開口しており、モミジはそこに滴る水滴だけを拭った。


 邪な気は、当てられると心と体を蝕まれる。今、退魔の面を外す訳にはいかない。——これから、退魔士としての戦いが始まるのだ。


 モミジは滝壺に目を遣った。すると、ゆらゆらと動く三つの影が、水面に浮上してくるのが見えた。魚のようだが、只の魚ではない。


 邪気を放ち、災厄をもたらす存——妖魔だ。


「そっちには三体いるが、雑魚妖魚の相手なら、お前一人でも討伐出来るだろ?」


「はい、お師匠様」


 モミジは妖魚達から目を逸らさずに、彼女の師である男に、声を張って答えた。


 腰帯に差している二本の短剣を抜き、モミジは構えた。その双剣は、己の霊気を以て妖魔を打ち滅ぼす事が出来る霊具だ。


 水面近くまで寄ってきた三体の妖魚達は、兎を一飲み出来る程の口をしており、のこぎりのような歯が見える。ひれを動かし段々と近付いてくる妖魚達に、モミジは焦らず視覚に集中し、妖魔の気を探った。


 妖気を放つ三体の内、二体は水の気が見え、一体は金の気が見えた。モミジ自身が生来宿っている気は、土の気だ。土は水にち、土は金を生じる。このまま戦えば、水の気を宿す妖魚なら問題ない。だが、金の気を宿す妖魚に土の気を当てれば、逆に相生そうせいしてしまい妖魚に力を与えてしまう。そうならない為に、モミジは霊気を引き出す霊具の双剣に、相生となる陽の気が流れないよう静める。


 陰陽は万物に宿る気であり、生成する陽の気と消滅する陰の気——二つの調和が成り立つ事で、万物が存在するとされている。


 下手に陰陽の気の調和を乱せば心身を崩す為、鍛錬が必要とされるが、退魔士として修行を積んだ今のモミジは、均衡を保ちつつ陰陽の気を練れた。


 双剣を持つ手に陽の気が薄まり、陰の気が濃くなる。今、モミジの手から双剣へと放出される霊気は、己の属性である土の気と相剋そうこくとなる陰の気——戦いの準備は整った。


 妖魚達は水面を跳ね、モミジに襲い掛かる。宙を跳び、真っ直ぐに向かって来る妖魚達に、モミジは刃を振るった。弧を描くように一本目の刃が妖魚達を捉えて切り付け、二本目の刃が後を追って更に深く切り付けた。黒い体液が宙に散った。


 斬撃を喰らった幼魚達は、二体は水辺へと落ちるとそのままぴくりとも動かず、もう一体はバシャバシャと飛沫を上げながら鰭を動かし暴れていた。


 モミジが振るった一撃目の斬撃は、妖魚を二体仕留めたが、一体仕留め損ねた。仕留め損ねた幼魚は二本目の刀傷が浅く、且つ相剋関係にない金の気であった為、やはり攻撃力が低かった。


 仕留め損ねた妖魚は右往左往と暴れながら、水底へ逃げようと鰭を動かしていた。


 モミジは妖魚を逃すまいと、地を蹴って跳躍した。両手に持つ双剣を逆手に持ち直し、水中に潜ろうとした妖魚に目掛けて振りかぶった。二対の刃は妖魚の脳天を突き、顎下まで貫いた。双剣に貫かれた幼魚は一度背鰭震わせると、他の二体と同様に落命した。


 妖魚から双剣を抜くと、モミジは一息ついた。


 滝壺にいた妖魚を全て討伐出来た事に、モミジは少なからず、ほっとした。倒した妖魚達は、モミジの退魔師としての力量で言えば充分に格下の妖魔であったが、モミジは決して侮る事はしなかった。格下だからと甘くみて、凄惨な末路を辿った者がいる話はよく聞く話であった。


 モミジは全ての妖魚を陸に上げると、そう言えば、己の師はどうしただろうかと、滝の上に目を遣った。すると——。


「本命がそっちに行ったぞぉ」


「は?」


 師の声が聞こえたと思えば、滝の上で、太陽を遮る程の巨大な魚の影が宙に現れた。


 それは滝壺に落ち、その巨体で大量の水飛沫を上げて、陸にいるモミジの所にまで雨を降らせた。激しくモミジの体を打った水飛沫はすぐに止んだが、水煙が濃く立ち込めり、バシャバシャと水が跳ねる音しか聞こえない。その間にモミジは双剣を手にし、目の前の物に警戒した。だんだんと水煙が晴れると、落ちてきた物の姿が明らかになった。


 それは巨大な妖魚であった。大きさは二メートル強でモミジの身長を遥かに凌ぎ、髭が二本生えている下顎は鎧の兜のように厳つく硬そうだ。鱗も硬そうで、赤子の掌程もあるそれは、きらきらと陽の光を反射して七色に光り、所々に裂傷があって妖魔特有の黒い体液を流していた。


 モミジは、直ぐさま巨大妖魚の気を探った。巨大妖魚は水の気を纏っている。剋てる関係性であるが、妖魚の力量である妖力が、モミジの霊力より上回っている。モミジより格上の妖魔だ。


「お前には少々手の余る妖魔だが、お前とは相剋関係だし、瀕死状態だ。しっかりと体外で発生している自然の気を取り込んで、自分の中の気と重ねて練れ」


 上の方から師の声が届いた。


「だが、取り込み過ぎるなよ。内臓狂うから。あと、瀕死状態であっても油断はするな。相侮そうぶ関係で、逆にあっさり殺られるぞ」


 相侮とは、相剋関係が逆転する意味で、例えば、水の気が強すぎると逆に水が土に剋つ関係になる事だ。


 相手の宿る気が剋てる関係だと侮ると、恐ろしい末路を辿る事になる。モミジは、自然界に宿る五つの気の中から己と同じ土の気を感知すると、少しづつそれを取り込んでいった。


 同じ気が重なっていくと気は盛んになり、相剋関係で滅する側であれば強化する。逆に、滅される側であれば弱体化する事になる。


 そうしてモミジは、土の気を取り込んで己を強化した。


 モミジが改めて双剣を構え直すと、巨大妖魚のぎょろっとした目玉がモミジを捉えた。瀕死状態で怒り狂う妖魚は、二本の髭を水面に浸すと、その巨体が宙に浮かんだ。すると、水面を滑るようにしてモミジに向かって突進した。黒い体液を撒き散らし、口を開けてモミジを食い殺そうとしている。その強靭な顎に捕らわれれば、簡単に食い千切られてしまうだろう。


 モミジは巨大妖魚の最初の猛撃を躱した。巨大妖魚の側面へ周ると、すかさず双剣を振るった。しかし、巨大妖魚の尾鰭がそれを阻み、モミジを払い飛ばした。弾かれたモミジは攻撃を受けたものの、ちゃんと気を練った甲斐あって大した傷も痛みも無く、受け身を取ってすぐ立ち上がった。


 巨大妖魚は先程の突進で半身が陸に乗り上げてしまったせいか、動きが少し鈍っていた。二本の髭がうねうねと水を探していた。モミジはその隙を逃さずに、巨大妖魚へ突き進んだ。時を同じくして、二本の髭が水を探し当て、巨大妖魚は再び宙に浮いた。浮いた体の下腹に、師が切り付けた刀傷が見える。モミジは滑走し、上体を反らして巨大妖魚の腹の下を潜ると、師が負わせた刀傷痕に双剣を突きつけ、そのまま反対側まで潜り抜けた。腹の下から滑走したまま出てきたモミジは振り返った。すると、巨大妖魚の腹は見事に切り裂かれていた。


 相剋を纏った霊具で深く腹を切り抜かれた巨大妖魚は、耳を塞ぎたくなる程の雄叫び上げた。目玉をぎょろつかせ、鰭をビチビチと忙しなく動かした後、その巨体は糸が切れたように、ズシン……ッと倒れた。


 モミジは巨大妖魚の死を確認すると、ハァ……と深い息を吐き、腕と足を宙に投げ出し、その身を水辺に沈めた。


 瀕死状態であったとは言え、自分より格上の妖魔を討伐出来た事に、モミジは安堵して気が抜けた。それに、戦闘中は気が昂っていたので痛覚が鈍っていたのが、今になって鋭くなり、巨大妖魚から受けた尾鰭の打撃の痕がじわじわと痛み出した。その上、相手が格上であったので、霊力も著しく消費しており、体力切れを起こしていた。


 フゥッと息を吐いていると、モミジの頭上の方でパチャッと静かな水音が聞こえた。モミジは面具越しから細めた目を見開くと、視界いっぱいに大剣を背負った赤毛の男が映った。


 額から頬までを覆った面具を着用している男は、雄々しい眉に吊り目がちな金茶の眼の端正な面立ちで、特徴のある赤毛は襟足が長く、どことなく獅子の毛並みのように思わせた。


「どうした、モミジ?」


 赤毛の男は心配して……と言うより、面白げに声を掛けてきた。


「まさか、へばったとか言うなよ」


 あの程度で? ——と言わんばかりの物言いであった。


「問題ありません。お師匠様」


 そう言ってモミジが起き上がろうとしたが、屈みこんだ師が唐突に、彼女の胴当ての中に手を突っ込んできだ。


「骨も内蔵も異常はないな」


「……お師匠様、断りも無く体を弄るのはお止め下さい」


「弟子を心配してやってんだろ」


 師はおもむろに立ち上がって、モミジに手を差し伸べた。


「ほら」


「どうも」


 モミジは師の手を取り、立ち上がった。


 妖魔の討伐が終われば、次はその妖魔から素材の採取だ。


 モミジは背嚢はいのうから小刀を取り出したが、それを師から奪われると代わりにチャプチャプと水音がなる瓢箪を渡された。


「先にそれを飲んで、邪気を祓え」


 そう指示されたモミジは素直に従い、瓢箪の蓋を開けて口を付けた。喉を通る水は冷た過ぎず、心地が良い。嫌な物が全て洗い流されるような爽快感だ。そうして、モミジが瓢箪の水を飲んでいる間に、彼女の師が小刀で巨大妖魚を解体を始めていた。


「外皮の状態は悪くない」


 師が巨大妖魚の遺骸を見定めると、素材となる鱗付きの外皮を捌いていった。次は肝を開き、中から鶏卵程の黒い石を取り出した。


「魔晶石に傷は無し。上手く気が練れたな。上出来だ」


 魔晶石は、妖魔の肝から生成された妖力が凝縮された結晶石だ。魔晶石は邪気を纏っている為、僧侶や錬金加工師などの手により浄化しなければならない。浄化されると霊晶石と言う結晶石に変化し、武具に石を装飾すれば強化されたり能力が付与される。また、霊晶石は気の性質によって、利用用途は様々だ。例えば、水の気を纏った霊晶石などは、生水を浄水したり、何処からともなく水を引いたりする事が出来た。


「満足のいく成果で良かったです」


 モミジは、精到に討伐が出来た事に安堵した。


「あとこっちは下顎と髭を採取するから、お前はあっちの妖魚から魔晶石を取り出して、かがり火の準備をしてくれ」


「はい」


 モミジは言われた通り、三体の妖魚から魔晶石を採取した。黒い魔晶石が二つと白い魔晶石が一つ――それぞれ小石ぐらいの大きさであった。三体の妖魚からは他に採取出来る部位が無く、モミジは輝り火の準備をする為に湿気っていない枝を集め始めた。


 輝り火は、妖魔の死骸を消し炭になるまで焼いて浄化する作業だ。妖魔の死骸をそのまま放置すれば、その周辺は妖魔の腐敗臭と邪気で穢れてしまい、新たな妖魔が生みだしてしまう事になる。下手をすれば、妖魔の大発生——百鬼夜行が起こってしまう可能性があるので、討伐後の輝り火は必ず行わなければならない作業だ。


 充分に枝を集め終えた頃には、モミジの師も巨大妖魚の採取が終わったようだ。モミジは妖魚達の死骸に枝を置き、背嚢から火口箱ほくちばこと扇子、小袋を取り出した。小袋の中身は、加工された際に削られた霊晶石の粉末だ。それを死骸の上に撒き、消し炭を置いた。


「火を着けます」


 そうしてモミジは、火打石と火打金を打ち合わせて火花を飛ばした。火花が消し炭に落ちると、瞬く間に白い炎が燃え上がった。白い炎は妖魚達の遺骸を包み込むように燃え広がり、光の粒子を纏った煙が昇った。次にモミジは扇子を広げると、煙を採取した素材に向かって扇いだ。こうすれば、妖魔から採取した素材も粗方は浄化される。少々手間が掛かるが、少しの浄化も無しに素材の買取となると売値が下がってしまうので、妖魔の死骸の始末と同様に欠かせない作業だ。


 やがて白い炎の勢いは弱まり、間もなく消えた。そこに残ったのは大量の真っ白な灰だ。モミジと彼女の師は、その灰を手で掬うと戦いの場となった地へ、その灰を撒いていった。


「滝壺の方は、こちらも注ぎましょうか?」


 モミジは先程まで口にしていた瓢箪を掲げ、滝の上の方へ灰を撒きに行こうとした師に問うた。


「いや、あれだけの灰を撒けば充分に浄化出来るだろう」


「分かりました」


 モミジは、滝壺に向かって残りの灰を撒いた。水面に落ちた灰は一瞬きらっと光り、消えていった。満遍なく灰を撒けば、確かに滝壺は妖魔が巣食っていたとは思えない程に、清浄な気を放っていた。


 灰を全て撒き終えれば、討伐の後処理は終了だ。二人は素材を背嚢に詰め、詰め切れない分は風呂敷に纏め、紐で背嚢に括り付けた。


「それじゃ、ミナノモリの街に戻るか」


「はい」


 そうして二人は、再び清浄に戻った滝壺を後にした。

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