雪のバレリーノ
町の青年役の彼は、双眸に燦めく星を宿らせて、四肢伸びやかに舞台中央へと躍り出る。英雄とその花嫁を迎え入れる、凱旋のダンスだ。細やかなステップに華々しい飛翔の交錯。爆発的なエネルギー。観客の誰もが、その瞬間彼に魅入られた。
新たなスターの誕生だった。熱狂した観客は、惜しみない拍手を彼に送った。こうして、フィーリア・スタニスワフは初舞台にして花形バレリーノとなった。
そして、彼は一夜にして消えた。
圧倒的な才能を持つバレリーノの失踪は、翌日の朝刊で大々的に報じられた。彼の半生を追う記者がごまんと現れた。行方を推理する者が、犯罪を示唆する者が、駆け落ちを唱える者が、面白がる者が、才能を嘆く者が絶え間なく議論した。しかし、誰も彼の行方を言い当てることはできなかったし、彼を見つけることもできなかった。
彼は異国の寒々とした街路を歩いていた。襤褸を着て、裸足で、冷たい石畳を歩く少年の面影を残した青年が、あのフィーリア・スタニスワフであるとは誰も思わなかった。それでいい。それでいいんだ。彼を食いものにした人間は、隣国で動転していた。それでよかった。
初めは望んで入った道だった。踊ることが楽しくて仕方なかった。町の青年、道化師、英雄、色男、乞食、踊ると他者の心が分かるような気がした。
劇団長に気に入られてから雲行きが怪しくなった。言うことを聞かなければ舞台には出さないと脅され、実力で抜擢してやると練習に励んだものの、劇団長を恐れて誰も彼を起用しようとしなかった。他の劇団に移ると言えば、あることないこと吹聴すると囁かれた。フィーリアに選択肢はなかった。彼は男に屈した。体を暴かれた。心までは明け渡さなかったが、蝕まれた。初舞台のとき、全て忘れて踊ると決めた。それは成功したが、もはや彼にはどうでもよくなっていた。知らない土地に行こうと思い立ち、彼は身をやつし、ジプシーの集団に紛れて国を出た。
風が冷たい。ここはどこだろう。……どこでもいいか。とにかく、僕を知らない人ばかりいるところに行かなくちゃ。ここは人が多い。いつ顔がばれるとも分からない。
気づいたら橋の下を覗き込んでいた。あそこなら誰もいない。冷たくて、柔らかい水が、すぐに僕を知らないところへと運んでくれるだろう。
「こんにちは」
すぐ側で声が聞こえた。飛びのく力はなく、ゆっくりと顔だけ上げると、見知らぬ青年が立っていた。
「ここは寒いですね」
「……ええ」
「ジプシーの方ですか。近くにホテルをとっているのですが、用があって私には必要でなくなったのです。キャンセルすると料金がかかってしまう。よろしければ使ってはいただけませんか……?」
「はぁ……。失礼ですが、どなたですか?」
青年はにこりと笑った。
「私も最近この国を訪れた者です。寒さがしみますが、景色が綺麗なところですね」
「そうですか……。景色はまだちゃんと見てなくて」
「これから見ることになるでしょう。ホテルにご案内します。まずはゆっくり休まれてください」
連れられるままにホテルへと入ったフィーリアは、入口で青年と別れた後、浴場で体を清め、食事もそこそこに眠った。
翌日、迎えにきた青年にまた連れられて、市内を観光した。ガイドブックを手にした青年は、時に歓声を上げ、時に唸りつつ、聖堂や美術館や高台に魅入った。フィーリアはといえば、景色を見ていくにつれ、腹の底からふつふつと活力が戻ってくるのを感じていた。故郷にはこんな風景はなかった。優美、嫣然、可憐、荘厳。こんな所があったのだな。生きているうちに知ることができてよかった。
「……お名前を聞いてもいいですか」
青年はためらいがちに口を開いた。
「私の名前はアンジェ・ベルナルテです」
「最初に会ったとき、私も、と言ったね。僕を連れ戻しにきたのかい」
青年ははっとした後、努めて微笑んだ。
「いいえ、フィーリア・スタニスワフさん。私はあなたの名誉を回復するためにきたのです。私はあなたの所属する劇団がよくお使いになっていたある劇場のボーイでした。まだ新人だった私は、迷って地下の練習場へと迷い込み、そこであなたを知ったのです。あなたの踊りは、他の誰とも似ていなかった。優美、嫣然、可憐かつ荘厳。一瞬であなたの虜になりました」
フィーリアに切々と語りかけるアンジェは、大理石のような色の頬をしていた。
「……同時にあなたに対する劇団長の仕打ちも耳に入ってきた。私はずっとあなたを伏魔殿から解放したいと考えていました。こうなることは予想できませんでしたが、とにかく追いかけてきたという次第です。……劇団長を免職させれば、あなたはまた自由に踊ることができる」
「もういい」
フィーリアはそっと手で制した。
「僕はもうあそこには戻りたくない。君は国にお帰り。ここでは誰にも会わなかったことにして、全て忘れて生きていくんだよ。じゃないと、何をされるか分からない」
「フィーリア」
「さようなら。君に会えてよかった」
フィーリアはアンジェに背を向けて歩き出した。もう川底を覗き込んだりしない。……ここは僕のいるべきところだ。
しばらくして、隣に並ぶ者が現れた。彼は黙っていたが、意思は伝わってきた。
フィーリアは彼の存在を許した。劇団長と同じ碧い瞳をしたアンジェは、まるで父親の罪を背負っているかのようにがっくりと俯き、慟哭し始めた。
フィーリアは静かに問いかけた。
「僕の踊りを見たいかい?」
アンジェは声もなく何度も頷いた。
「よし。じゃあ今夜僕の部屋においで。一夜限りの特別公演だよ。主演は僕、観客は君。演目は『ダレノの脱獄』。罪のない人間が収監される場面から始まる民衆演劇なんだ」
それは喜劇だった。腕を掴まれてひったてられていく男。収監され落ち込むが、同じ牢屋にいる人間を先導して脱獄を試みる。何度捕まってもめげることはない。ついに彼は再び青空の下に戻る。
フィーリアは幾人もの登場人物を演じきった。頼りない男も、頭の固い看守も、気のいい酒飲みも、陰気なヤク中も。暴力的な男も、獄中の男妾も、冷酷な監獄長も。
アンジェは拍手をした。知らぬ間に涙を流していたが、それは先程の涙とは違っていた。
「アンジェ、これは喜劇だよ」
フィーリアは彼を茶化した。
二人をかくまった町に、静かに雪が降り始めていた。
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