私の甥は優しい子だ。彼は言葉を愛している。全ての人間が発するどんな微弱な信号でさえ、彼にかかれば独特の美しい言語となる。端的に言えば、フィーリア・スタニスワフは人間の身体動作を言語化するスペシャリストだった。

 彼は今、私の講義を聴いている。目を閉じ、耳をすませて――。彼は生まれつきの盲目だから、いつでもこのように人の話を聴く。その姿勢は、さながら幼子イエスの声を、慈しみながら拾い上げる聖母マリアのようだと、私は常々思うのだった。チョークの音が響く。

「先生」

「なんだね、スタニスワフ君」

「その解法では遠回りなことにお気づきですよね」

「よく気づいたね。この後で、君の想定しているだろう解法を説明するから、待っていなさい」

「分かりました」

 フィーリアは頷き、長い睫毛をわずかに揺らした。

 私は彼が金色の産毛に太陽光を乗せていた赤子の頃から、彼が常人より繊細に育つことを予感していた。だから、妹には「美しい音楽を聴かせてやりなさい」と伝えた。彼の主要な受容器に、なるべく愛を降り注いでやってほしかったのだ。母親の円やかな声色は、それだけで愛情に満ちている。彼女もそれは十分承知していただろうから、「たくさん話しかけてやりなさい」という無粋なことは言わなかった。

 彼は音楽科の大学生だが、同じキャンバスにある数学科にもたまに顔を出し、私の授業を見学しにくる。杖をつきながら、美しく慎重な足取りで戸口に現れる彼を見る度に、私は快い気持ちになった。

 彼の存在は教室の空気を整える。彼の中に流れる音調は、恐らく、常に優しく、清らかで、押しつけがましくなく、大聖堂の荘厳さと野原の軽やかさを漂わせて、周りの生徒の背筋を伸ばさせるのだ。

 授業後、彼はゆっくりとした足取りで教壇に来、僕をちょんとつついた。

「叔父さん。素敵なGdurだったよ」

「ありがとう。君の指摘には参ったよ。君ほど頭の回転が早くはない傾向の生徒に理解してもらわないといけないから、ああいったやり方になったんだ。勘弁してほしい」

「言ってる途中で気づいたんだ。僕が発言しているときも、叔父さんの息遣いは変わらなかったから、ああ、ちゃんとこの後で説明する段取りになってるんだって。流れを遮ってごめん」

「いいんだ。君ほどの人がいれば場も引き締まる。現に、今回は生徒からの質問も多かったよ。素晴らしい先導役だった」

「どうだろ。でもいつも質問する人多いよね。魅力的な授業だと僕も思う」

「も?」

 フィーリアは微笑んだ。

「みんな言ってるよ。心音で分かる。すれ違う時のね。おしなべて年齢の平均脈拍数より少し速い」

「聴診器屋は仕事がなくなるな」

 私は額に手を当てて、彼の感受性の鋭さを褒め称えた。

「ふふ、なにそれ」

 こういう時にちょっと笑ってくれるのが彼の可愛いところである。

「今日ここに来たのはね」

「よし、当ててみせよう。コンクールだな?」

「調べて……たわけじゃないね。僕のコンディションで分かった?」

「その通り」

「シャーロック・ホームズも仕事がなくなるね」

「あいつなんか目じゃないよ」

「でも叔父さんには相棒がいないから可愛そう」

「確かにその通りだ。君はワトソンにしては優秀すぎるし。数ページで物語が終わってしまう」

 フィーリアは不敵な笑みを作った。

「モリアーティをものの数秒で仕留めてみせるよ。……第57回フィドリア・バイオリンコンクール、来てくれる?」

「もちろん。燕尾服を着てくるよ」

「若手の指揮者さんかなって噂されちゃうよ」

「それが目的さ」

「だめだよ。……ちゃんと僕を見てくれないと」

「ふふ、そうだな」

「叔父さん。たくさんレコード買ってくれてありがとう。おかげで音楽が大好きになったよ。叔父さんの中に響く音楽の音色を僕は聴いてみたいと思う」

 私の優しい甥は、僕の目に触れて微笑んだ。

 


 満場一致でコンクールに優勝したフィーリアは、喝采の中こちらに手を振って何かを言った。私は、彼の口の動きから、彼が「ありがとう、アンジェ叔父さん」と伝えてくれたがはっきりと分かった。

 この時私は、自らの障害を初めて愛せたような気がした。

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