ハッピーエンドを君に

 フィーリアは水晶の街を歩いていた。紫、青、透明――。ここはどこだろう。不思議と、夢の中であるということは分かっていた。さんざめく水晶たち。ああ、このままではここの住人になってしまう。ここは美しいけれど……。

「……リア。フィーリア」

 愛する人の声がした気がして、フィーリアは振り向いた。

「……アンジェ?」

 その瞬間、彼の意識は急速に現実に引き戻されていった。重力を全身に感じながら、彼はやがて目を開き、眠たい目をこすった。

「……ここどこ?」

「部室だよ」

 冷たい声が帰ってくる。声の主は他でもないアンジェだった。

「人がPCを叩いている横で、よくそんなに呑気に寝てられるな」

「へへ。いい子守唄だったよ」

「なんだそれ」

 呆れたような声を出し、アンジェは席を立った。帰ってきたと思ったら、手には2つ分のカップが握られていた。

「アンジェ、僕に優しくしちゃだめだよ」

「そうだった」

 沈黙。安い可動式椅子を引く音がする。

「……アンジェ」

「……あーもう! なんなんだよ! 甘えたか!? お前は3歳児なのか!?!?」

「違うよ、白衣に糸くずついてる」

「え、どこ」

「ここここ」

 指でつまんで取ってやると、アンジェはバツの悪そうな顔で礼を言った。

「……訂正する。お前は5歳児だ」

「ふふ、なにそれ」

「糸くずが取れたからな、成長だ」

「なるほど」

 フィーリアはソファを逆向きに座り、背に腕と顔をのせながら笑った。

「アンジェ。僕と喋らなくてもいいよ」

「それができたら苦労しない」

「ハナさんは元気?」

「ああ、めちゃくちゃ元気だ。新エネルギーの源力になるくらいには」

「それはよかった」

 再び沈黙。

「……君と結婚できたらよかった」

「それは言わない約束だろう?」

 フィーリアは猫のようにソファから飛び起きてアンジェをじろりとにらんだ。

「ハナさんは好きな人と結婚できる。アンジェは世間体を保てる。これ以上ないくらい収まりがいいって前から言ってるじゃないか」

「その言葉が本心じゃないことくらい分かってるさ」

 ええい、と頭をかきむしり、フィーリアはアンジェに詰め寄った。

「いいかい? まだまだ時代は狭量なんだから、贅沢言っちゃだめだ。君は教授のお嬢さんと結婚して安泰な学者人生を歩まなきゃだめなんだ。俺が退場することくらいどうってことない」

「俺にも自分にも言い聞かせるのはやめろ」

 うめき声をあげてフィーリアはソファに沈み込んだ。

「この……2ヶ月後には結婚するくせに……」

 アンジェは振り向かずに答えた。

「そうだな。2ヶ月後にはハネムーンだ。段取りを立てなくては。フィーリア、協力してくれ」

「君には人の心ってものがないのか?」

 その時初めて、アンジェはくるりとフィーリアに向きなおり、にたりと微笑んだ。

「君と僕のハネムーンだぜ? 俺が全部手配しなきゃだめなのか?」

「……へ?」

 フィーリアは戸惑った表情で、アンジェの顔を見つめた。

「ハナには両親同士がゴリ押しで話を進めていた当初から話をつけてある。君とは結婚はできない。どうしてもというならするが愛する気は全くないと。両親にはなんのかんのと理由をつけて破棄したことを、2ヶ月後に伝える。猛反対されるだろうが、その時には僕は君を連れて空の上さ。怖いものなんてなにもない」

 フィーリアはしばらく沈黙していたが、やがて首を振りながら言った。

「やっぱり君には人の心がないんだね。知ってた」

 「よし、そうと決まればさっそく準備にとりかかろう」

 なぜだかフィーリアはその後の人生において、二度と水晶の街の夢を見ることはなかった。

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