花束
男は孤独だった。このシマでは誰も俺に逆らわない。親しくもならない。俺の本当の名前さえ知らない。このまま朽ちていくしかないのか。膨大な財産と、からっぽの胸。花ひとつさえ送る相手がいないとは。
手下が一人、この寒々とした部屋に入ってきた。
「親分、具合でも悪いんですかい。顔色が悪い」
「いや、大丈夫だよ。お前こそ、まだ起きていたのか。早く寝なさい」
「実は……ねずみが一匹、屋敷の前をうろちょろしてたんで。ほら、前に出ろ」
首根っこを掴まれて強制的に前に出されたのは、まだ幼い少年だった。
「こんにちは」
「やぁ、こんばんは。何かようかい?」
「んーとね」
少年は、突然ズボンのポケットに片手をつっこんだ。
「親分」
切迫した手下の声。彼の手には既にチャカが握られている。
「待て」
男は手下を手で制した。
「あれぇ? あ、あった」
少年がポケットから取り出したのは、花を模した金属のブレスレットだった。
「これが落ちてて。おじさんのだよね?」
「なんで俺のものだと思ったんだい?」
「え、だっておじさんの手から落ちるのが見えたんだよ? 誰だってそう思うよ」
男はにっこりと笑った。
「君は目がいいね」
「どうしてこんなことしたの……?」
「誰かに花を贈りたかったんだ」
貧しそうな人間の前に、ちょっとした高級品を落とすのが、男のささやかな善行だった。身寄りのない男妾からヤクザ者になった彼は、己の運命を呪ってい、この世界へのせめてもの復讐に、こういったことを続けていた。
「返してくれたのは君が初めてだよ」
「そうなの? 僕もね、花を持ってきたんだ」
少年はもう片方のポケットに手をつっこみ、くしゃくしゃのリンドウを取り出した。
「おじさん、なんだか寂しそうな目をしていたのだもの」
男は声をつまらせた。
やっと絞り出したありがとう、の声は震えていた。
「君の名前は?」
「アンジェ。おじさんは?」
「フィーリアだよ」
手下が目を見開いた。
男は唇に指を当てて、微笑んだ。
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