フィルテ橋にて
その日、フィーリアは画廊に展示するための作品をいくつか小脇に抱えて、フィルテ橋を渡っていた。この作品展が、彼の今後の、画家としての生命の行方を左右することになっていた。そのため彼は数日間寝ておらず、足取りは頼りなく、今にもキャンバスの重みに耐えかねて潰れてしまいそうに見えた。
彼の脇を浮浪児が駆け抜ける。フィーリアはその拍子によろめいて、欄干に手をつき体勢を立て直そうとしたが、右手は呆気なく宙を切り、彼は地面にしたたかに頭を打ちつけた。途端に視界はブラックアウトしていく。
「おい君! 大丈夫か?!?!」
薄れゆく意識の中、フィーリアはある青年の叫び声を耳にした。駆け寄ってくる足音を内耳にこだまさせながら、彼は気がかりながらも、そっと意識を手放した。
彼が再び意識を浮上させたとき、彼の体は清潔なベッドの上にあった。
「ここは……?」
「私の家です、フィーリア・スタニスワフ」
思いがけずすぐに返答があり、フィーリアは思わず身を起こした。
ベッドの横の椅子に腰掛けて、こちらを見つめている青年がいた。
ラピスラズリ色の瞳に、漆黒の髪。膝の上には一冊の本が広げられている。
「私の名はアンジェル・ベルナルテ。フィルテ橋を馬車で通りかかったところ、あなたが倒れているのを発見したため、病院に連れていった者です。医師の診断によると過労とのことだったので、自宅に運び込ませていただきました」
「それは……ありがとうございます」
フィーリアはひとまず頭を下げた。あのまま倒れていたら、泥酔した者に暴力を振るわれたり、泥棒に身につけた物を盗まれたりしていたかもしれない。しかし。
「……なぜ私の名前を?」
おずおずと問えば、アンジェルと名乗った男は、そんなことか、というようにふわりと微笑んだ。
「あなたが持っていた作品に書き込まれていたからですよ。失礼ながら、何か身元が分かるものがないかと少し持ち物を調べさせていただきました。あえて申し上げるならば、あなたの作品があなたを救ったのです」
フィーリアは苦笑した。
「そうでしたか。しかし、過労も作品がもたらしたのですから、とんとんといったところですね」
アンジェルはふふふと笑った。
「でも、私はあなたに出会えて嬉しい。私にとっては、あなたの作品は善しかもたらしていません」
フィーリアは少し当惑した。なぜ私はそこまでこの親切な人に買われているのだろう。
「私はあなたにまだ何もしていませんよ。それどころかもらってばかりいる」
「あなたはそうお思いでしょうね。でもそうではないのです」
アンジェルは、どこか羨望を滲ませた瞳でフィーリアを見た。
「あなたの作品。私はあれをひと目見て心を奪われてしまったのです。もちろん、だからあなたを介抱したわけではありません。あなたが何も持っていなかろうと、私はあなたをここへ運び込んだでしょう。しかし、私があなたが寝込まれている間、飽かずあなたの作品を眺め続けたのもまた事実なのです。率直に申し上げたい、私をあなたのパトロンにする気はありませんか」
フィーリアはくらりとし、頭を押さえた。こんなことがあるのか。本当に。僕が。貴族のパトロンを。
「それはありがたいお話です。しかし、本当にいいのですか。私などよりふさわしい人が大勢いるのでは」
「私があなたの絵に惚れ込んだのです。それは、客観的に見れば他にもいらっしゃるかもしれませんが、私はこれからもあなたの作品を見たいと願います。どうか前向きにご検討いただきたい」
フィーリアは熱に浮かされそうになる気持ちを必死で押さえた。まだ浮かれるには早い。何か裏があるかもしれない。冷静にならなければ。
そう思う一方で、フィーリアはほとんど直感的に、目の前の人間が信頼に足る人物だと判断していた。実際、アンジェルの言葉は一言一句嘘ではなく、フィーリアの作品を見た彼はすでに熱に浮かされており、真から出た言葉が持つ力強さを、直感の鋭いフィーリアは聞き分けていた。
「そこまで仰ってくださるのなら、喜んでこの恩恵に預かりましょう。元より身寄りのない、貧困の身です。あなたの援助によって、私の作家人生は大きく飛躍するでしょう。あなたの美しき心映えに、神が然るべき報いをもたらしますように!」
その日の画廊は大盛況だった。フィーリアの才能に気づいている者はたくさんいたが、貴族ではなかったから、みな金銭的援助をしたくてもできなかったのだった。彼がパトロンを得たという事実はまたたく間に広まり、彼を祝福するために画廊中を歩き回り、彼を探した者は後を絶たなかった。
「おめでとう! 君の作家人生に、神が溢れんばかりの愛と祝福と幸運をもたらしますように!」
フィーリアは微笑み返した。
「ありがとう。私は今日、その全てを得たのです」
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