第20話 信玄、甲斐を出陣す

 義昭は諸国の大名に「信長討伐」の御内書を送り、信長包囲網を次第にせばめつつあった。これを後押ししたのが、さきの関白・近衛前久このえさきひさであった。

 近衛前久は本願寺、浅井、朝倉、三好三人衆を結びつけ、将軍義昭同様、信玄に上洛をうながした。さらに、三好長慶ながよしの死後、三好本宗家を継いだ三好義継よしつぐにも信長包囲網に加わらせた。

 義昭と近衛前久から上洛をうながされ、信玄は武田菱たけだびしの旗幟を京の都にひるがえすことを決意した。信長が比叡山を焼き討ちした翌年の元亀三年、三万の兵をひきいて甲府を進発したのである。

 武田軍はまたたく間に遠江とおとうみに侵攻し、徳川家康を三方ヶ原の合戦で惨敗ざんぱいせしめた。このとき、武田軍の追手から逃げる家康が、恐怖のあまり、馬上で脱糞だっぷんしたという有名な話がある。

 この状況を見て、足利義昭が二条御所で兵を挙げた。信長打倒の挙兵であることはいうまでもない。

 東からは戦国最強の武田軍が迫ってくる。信長はまたしても四面楚歌、絶体絶命の窮地に陥ったのである。

 この状況を打開する方法はただひとつ、義昭と和議を結ぶということに尽きた。将軍と和議を結べば、武田や朝倉は旗頭を失い、合戦の大義名分を失うことになる。信長包囲網を切り崩し、瓦解させる作戦であった。

 信長は日乗上人にちじょうしょうにんを使者に立て、要求通りの条件で和議を結ぶと義昭に申し入れた。

 ところが、義昭はこれを拒絶した。

「またもや子供だましの手を使うか。信長めの申す和議など信用ならぬ。あ奴と刺し違えても断固、戦う」

 義昭にしては、精一杯の覚悟を示したことになる。

 信長はこれに対し、上洛して二条御所を大軍で包囲し、恫喝どうかつした上、再度、和議を申し込んだ。それでも義昭は応じない。

 柴田勝家が進言した。

「二条御所を落とすなど赤子の手をひねるようなもの。一気呵成いっきかせいに攻め落としましょうぞ」

 信長が薄い唇を歪めた。

権六ごんろく(勝家)、お前は大うつけより阿呆あほうと見える」

「ハァ?」

「考えてもみよ。もし、ここでまかり間違って公方が死ねば、われは将軍殺しの悪逆人となる。さすれば、天下の謀叛人となり、上杉謙信、毛利元就らはもとより、日ノ本六十余州の大小名を敵にまわすことになりかねぬではないか。命がいくらっても足りぬわ」

 そこで信長は最後の手を繰り出した。

 以前にも使った朝廷に和議の勅命を出させるという方法である。天皇の和議勅命さえ出れば、それに反した者は逆賊となる。逆賊となった義昭を討つのなら、問題はない。足利幕府を倒す大義名分が得られることになるのだ。

 しかし、朝廷もまんざら馬鹿ではない。

 公卿たちは、

「二年前、勅命和議となったにもかかわらず、信長はすぐそれを反古ほごにして、叡山を焼き、浅井、朝倉を攻め申した。再び勅命を出せば朝廷の沽券こけんにかかわりましょう」

 と、まなじりを決して異を唱えた。

 それを聞いた信長は、「では、おどしてみるか」と、まず洛外に放火し、次に内裏だいりや公家の家が集中している上京かみぎょう一帯を焼き討ちした。火の海の中で、信長軍の雑兵どもは公家の邸宅や寺社を襲って財宝を強奪し、逃げまどう町民は身ぐるみがされた。

 燃えさかる火の海を見て、信長は冷たい笑みを浮かべていた。

 叡山を焼き討ちし、数千人を虐殺した段階で、信長の中で自制心のたががはずれ、持ち前の粗暴さが増幅されていた。朝廷や将軍はおろか、家臣ですら信長を怖れた。

 叱ってくれる父親はとうに死んだ。切々と諫言してくれた傅役もりやくの平手政秀は自ら命を絶った。師と仰いだ斎藤道三はあの世にいる。信長には相談相手も友といえる人間もいなかった。

 信長の暴走を止めるすべはもはやなかった。


 

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