7月9日 午後 私は人魚姫じゃないよ

 描いては消して汚くなったら新しいページをめくって描くの繰り返す。

 防波堤から座って見る景色はいつもの俺ならぼーっと見ているがそんな暇はない。


「イチくんこんにちは」

「…おう」


 俺の隣に座っている白いワンピースの少女は青い空と相まってとても綺麗に見える。


「できた?」

「…できてない」

「そっか」


 波の打つ音と紙の擦れる音が聞こえるだけだ。


「そう言えばさ筆記用具何で持ってこいって言ってたの?」

「あ、やべ」


 集中してて忘れていた俺は慌ててカバンからレターセットを取り出した。


「これに書いて」

「何を?」

「お前の家族に言えなかったこと書いて欲しい」

「…もう十分言った」

「言ってないよ」


 俺は不服そうな顔をするレイに笑って言った。


「お前はまだ言ってないよ。お前はどっかで後悔してるんじゃないの?」

「…してないもん」

「なぁ、お前今日何て言って家出てきた?」

「さよならって見送りなかったけど言うのが礼儀かなって」

「寂しかったよな」


 俺はレイの頭に手を載せた。


「な、何して…」

「頑張ったお前を労わってるんだよ」

「そんなこと言われたら泣くじゃんかっ…」


 レイの目から静かに透明な暖かいものが溢れてくる。

 俺はそれを少し汚いと思ったが、首にかけていたタオルで拭う。


「いつかは家族みんなで笑えるって思っていた」

「うん」

「また抱きしめてもらえるって思ってた」

「うん」


 いつも笑っていた彼女の顔は涙ですごいことになっている。

 少しだけ鼻声でレイは俺の名前を呼ぶ。


「鼻…かんでも良い?」

「おお別に…おい!もうやってるじゃねぇか!」


 レイは俺のタオルで思いっきり鼻をかんだ。

 泣いていてもレイは変わらない。


「ごめん」

「怒ってないけどさ、事後報告は流石に笑った」

「私も」


 レイは泣いたせいか目を真っ赤になっている。


「さてと、イチくん」


 レイはニコリといつもの笑顔に戻って俺を見る。

 その手にはシャーペンが握られている。


「私が書き終わるのが先か君が描き終わるのが先か勝負しようよ」

「その勝負乗った」

「負けて吠えずらかかないでよ」

「誰がかくかよ」


 俺の描きたいものあったかもしれない。


 俺にとって絵はなんなのか分からなかった。

 楽しいものだったはずなのに1番になれないイチと佳作止まりと言われて楽しさが分からなくなった。

 ただ周りから評価される絵を描けばいいと思っていたのかもしれない。


 今の俺は描くことを楽しんでいる。

 1番にならなくてもいいただ1つ描きたいもののために手を動かす。


「……」


 俺は一心不乱にスケッチブックに描いていく。

 先程まで止まっていた手の動きは嘘のように動いている。


「ねぇイチくん」

「何だよ。降参するのか?」

「するわけない」

「じゃあ何?」

「なんでもない!後で教えれたら教える」


 レイはそう言って手紙に視線を戻す。


 彼女をチラリと見ると彼女は真剣にまっすぐ手紙に向き合っている。

 綺麗だなと俺は思った。


「イチくん」

「…今度は何だよ」

「ありがとう」

「急だな」

「言える時に言わないとさ、後悔するから」

「じゃあ俺も言おうかな」

「あ、いいよそういうの」

「はぁ?!お前俺の純粋な気持ちを…!」



 俺が怒るとレイは微笑む。

 そんな風に笑われると怒りたくても怒れないだろう。


「そう怒らないでよー?幸せがドン引きして離れていくよ?」

「それため息とかの場合じゃね?」

「いや、幸せは笑ってないとやってこないからこれで合ってる」

「あーはいはい」

「ちょっと!そこは感動して泣くところでしょ!」

「泣かねぇよーだ」


 絶対に泣いてやらない。

 最後の瞬間まで俺はこいつの前で泣いてやることはない。


「…書けた!」


 空が真っ赤になった頃にレイの声が嬉しそうに言った。


「負けた、か」


 俺は書き終わって達成感のある顔をした彼女を見つめながら呟いた。

 もう少しで描き終わりそうだったのに本当に数秒の差で負けてしまった。


「もう少しだったじゃん惜しかった惜しかった。これ渡しとくね」


 俺に2つの手紙を渡した。

 1つが家族宛てなのは分かるがもう1つは誰宛なのだろうか?


「イチくんそれ私がいなくなってから開けてね。目の前で開けられるの恥ずかしいから」

「俺宛?変なこと書いてないよな?」


 俺がそう聞くとレイは口を尖らせた。


「私がそんなことする子に見えますかぁー?」

「見えてなかったら言ってないんだよな…」

「え?!」


 レイは初耳ですといわんばかりの顔をしている。

 おいおいなんで自分のことなのに分かってないんだ。


「…ふふっ」

「急に笑うな寒気がした」

「キモイって言わないあたりイチくんって優しいよね言葉選んでて」

「だろ?」

「ドヤ顔はちょっと…」


 この時間が永遠に続けばいいのにそしたらもっとこいつの笑顔を見ることができるのに。


「ねぇイチくん」


 空は赤から濃い青に変わっていく。

 もうそろそろで1日が終わることを俺は理解する。


「私ね自分の名前嫌いなんだ」

「…どうして?」

「だって私の名前ってさ数字の零奈でレイナなんだよ?零ってついててさ終わるみたいで寂しいじゃんか」

「俺はそうは思わないけどな」

「え?」


 俺は立ち上がってレイの目の前に立った。


「0ってさ初めの数字でもあると思うんだ終わりもあるかもしれないけど、スタートする意味だと俺は思ってる」

「そうなんだ…そういう考え方もあるんだね…へぇ」


 レイは顎に手を当てて考えるような仕草をした。

 そして俺の方を見て「ありがとう」と言った。


 彼女は自身の手を見てため息をついた。

 よく見ると手が少しだけ透けているように見えた。


「…3日ってあっという間だったね」

「そうだな」

「改めてありがとうはじめくん素敵な絵を描いてくれて」

「まだ鉛筆描きだけど」

「塗るつもりだったの?」

「もちろん」

「じゃあ完成したらお墓まで来てね、待ってる」

「墓の場所知らない」

「手紙に書いといたから」


 何ら変わらないいつもの会話。

 これから消えるはずの彼女は笑って俺を見ている。


「うーん時間か…早いなぁ」


 レイは立ち上がって歩き出す。

 月の光が彼女から透けて見える。

 これを綺麗だと思ってしまう俺はおかしいのだろうか。


「ねぇ、一くん!…名前好きになれた?私はね君のおかげでちょっとだけ好きになったよ!」


 レイは腹から大きな声を出して俺に向かって言った。

 俺はすうっと思いっきり息を吸って返す。


「俺も!お前のおかげで1ミリくらいは好きになった」

「良かった」


 フニャリとレイは笑う。


「なぁ、イチって呼べよ」

「どうして?イチくんって呼ぶの嫌がってたじゃない」

「お前に名前で呼ばれるのすっごい違和感感じるから」


 俺は確かにイチって言われるのが嫌で仕方なかった。

 面倒だから言ってないけど彼女は分かっていたらしい。


「…イチくん」

「おう」

「イチくん」

「なんだよ」

「私は人魚姫みたいに悲しい最後じゃないんだよね。だって私今すごく幸せなんだから」


 そう満足そうに言って彼女は笑って夜の空に溶けて消えていった。

 ポツンと暗い夜の海に俺だけがいる。

 静かな波の音が鼻をすする音をかき消してくれる。


「…泣いてやらないからな」


 俺はじわりと出てきそうになるものを必死に我慢して笑った。

 だって不幸じゃないからあいつは笑って最後の瞬間まで生き続けたのだから。





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