#41 巧人と誠弥

「バーベキュー楽しかった?」


 誠弥は顔だけ振り向き、腕を両手で掴んだままの巧人に何気なく問いかけた。巧人は一瞬目が合ったきり伏し目がちに俯いている。


「ああ、みんな肉の焼き方とかすごく詳しいんだ。あれは勉強になったな」


 平常心、不自然さを出さないように巧人は慎重に受け答えする。


「バーベキューしながらそんなこと考えてたの? 本当にタクは真面目だね」

「火の熾し方が分からなくて兄さんも困っただろ。ああいうことを知っていて損はないはずだ」


 いつも通り、そうであると確かめながらかつスムーズに返す。やることが少し増えるだけで脳の処理はいっぱいいっぱいだ。


「それはそうかも。タクもいつかプライベートで友達とバーベキューすることがあるかもしれないしね」


 誠弥の部屋はロビーから左手に伸びる廊下の一番手前に割り当てられていた。到着すると誠弥は鍵を開け巧人を招き入れる。中は巧人たちの部屋より二畳分程広く、ゆったりとくつろげる一人がけのソファと小さなテーブルが置いてある。

 ベッドに腰掛けた誠弥は「座っていいよ」と促したが、巧人は「いやいい」と返し誠弥の前に立っている。


「ところで、話って何かな?」


 誠弥は巧人を見上げながら本題に入るよう誘導した。部屋まで来て改めて話すということは立ち話や雑談の類ではないと分かっていたが、身構えることなく寧ろ体勢を崩し楽にしている。


「えっと、その……」


 空気感ががらりと変わり、塗り固めていた日常が一気に崩れ去る。告白をする——そう決意はしていてもいざ誠弥本人を前にすると、考えていた言葉が全部火照った身体に熱せられ蒸発していった。


「タク?」

「…………」


 何か言わないと。言葉を探して深呼吸した。鼻に誠弥の匂いが通り抜け、一泊とはいえ誠弥が寝泊まりする部屋に何も考えずに足を踏み入れてしまったことに気付いてしまう。意識した途端、心臓がドクンドクンと騒ぎ出した。


「なんか、初めてタクを家に呼んだときのこと思い出すなぁ」

「え?」

「誰かの家に来たの初めてだからって緊張してて、ずっと下向いてぎゅって拳握り締めててさ。ちょうど今のタクみたいにね」


 誠弥は幼子をいつくしむように巧人を見る。震える腕を押さえ巧人はかつての自分が感じていたどきどきは今抱いているどきどきとは違うのだろうかと、記憶に付随する感覚を思い出し重ね合わせてみる。


 ——大好き!


 たったそれだけの言葉をき止めてくる余計なものを捨ててしまいたい。そんなものを持っていなかったあの頃の純粋な心が欲しくて堪らなくなった。


「部屋じゃない方が良かったかな? 落ち着けると思ったんだけど逆効果だったみたいだし」

「いや、ここで大丈夫……。兄さん以外には聞かれたくないから……」

「そっか」


 誠弥はそれ以上何も言わず、ベッドに楽な姿勢のまま座っている。何を伝えたいのか今でなければならないことなのかそうでないのかも分からなかったが、巧人には巧人のペースがあり考えがあるのだと急かすことも進んで猶予を与えることもしなかった。


「……俺、いつもこうだな。言いたいこと全然言えなくて、さっきもクラスの奴に言われたんだ。黙ってたって仕方ないから抱え込むのはもう辞めようと思ってたのに」

「タクは今、すごく大事なことを俺に話してくれようとしてるんだね」


 誠弥は立ち上がって俯いたままの巧人の頭を撫でてやる。もし、触れて考えがテレパシーで伝わってくるとしたら巧人を苦しみから解放してやれるのだろうか。今自分には何ができるのか考えていると、撫でる手に力が入り動きがゆっくりになっていった。

 誠弥ならきっと受け入れてくれる。頭の先から伝わる熱が全身に広がっていき安心感に包まれ、巧人はそんな確信を抱く。


「兄さん。俺……兄さんが……好き……」


 巧人は身体の奥に溜まりに溜まった純粋な想いも醜い思いも込めた声を絞り出す。喉が焼けるように熱い、床に落としたままの視線が揺らぎながら狭くなっていく。血の巡りも早くなって酸素を上手く取り込めず、口で浅く息を吸っては吐くを繰り返した。

 結局思い付いた言葉は『好き』だけだった。だがそれだけで十分だと思った。他の言葉は気持ちを飾ると同時に覆い隠してしまう余計なものなのだ。


「俺もタクのこと好きだよ」

「……っ。そうじゃ、ない……。そういうことじゃ……ないんだ。だから――」


 伝わらない、すれ違う。同じ道を歩いているはずなのに向かってくる顔にピンと来ずに素通りされてしまったようにむなしいショックが身体中を走った。誠弥の頭の中の想像と現実が食い違っているから気付かれない。

 ならば、声をあげなければならない。


「――さよなら、


 巧人はめいっぱいに背伸びをして誠弥の肩に手を置き、唇を重ね合わせた。バーベキューソースとリンゴジュース、そして鼻を刺す煙の匂い。同じ場所で同じようなものを食べてきたはずなのに、全く違う味がした。甘酸っぱくて、少し苦みもある。複雑で知らないはずなのに懐かしくて、ずっと味わっていたい。

 前傾姿勢の体重がそのまま誠弥にかかり、ベッドに押し倒す形になる。唇だけでなく身体も重なり脚が絡み合う。


「ん……った、く……っ」


 目と鼻の先に巧人の目と鼻がある事実と、ゼロ距離で触れ合う唇の薄くて少し硬い感覚に脳が追い付かない。力任せに引き剥がし全体がよく見えるようになった巧人の顔は、頬を紅く染めうっとりとした目を寂しげに細めていた。


……大好き、愛してる……」

「……それは、こういうことをする対象としてってこと?」


 口元を震わせながら改めて告白する真剣な巧人の恋をしている眼差しを見上げ、誠弥は真意を読み解くように尋ね見つめる。

 巧人は静かに一回頷いた。


「やっぱり、そうなんだね」

「やっぱりって、気付いてたのか……?」

「もしかしてってくらいだけど、最近ちょくちょく思うことはあった」

「じゃあなんで……」


 分かっていて気付かないふりをしていたのか。だとすればその先の答えに希望はもう残されていない。合ったままの誠弥の目がどうしてか巧人には堪らなく恐ろしかった。


「俺がどうしたらいいか分かんなかったから。タクのことをそういう目で見たことはないし、傷付けるようなことになるくらいならただの俺の勘違いであってほしいと思ってた」

「…………」


 一切の動揺もせずに言葉にされた答えで巧人は全てを理解した。誠弥の上に覆い被さったままベッドに押し付けている両腕が痺れて仕方ない。刺されてなんていないはずなのに胸がずきずき痛んだ。誠弥の顔を見るだけの力もなくがくり首を落としてゲームオーバー、初めから勝算などどこにもなかったのだ。重ならない、伸ばした腕の分だけ溝ができて見えない分厚い壁がある。この気持ちは、届かない。


「ちなみに、いつから俺のことそういう風に思ってたの?」

「……小学生の頃、五年生くらい……」

「え、そんなに前から……。それが初恋?」

「うん……」

「ごめんね、今まで気付いてあげられなくて。苦しかったよね……」


 誠弥の方から抱き寄せられ巧人の全身から力が抜けた。緊張で張り詰めていた分、涙が溢れ出してくる。


「うぅ……ずっと、苦しくて堪らなかった……っ。伝えたいけど口に出せなくて、なのに、気持ちだけどんどん大きくなっていって、消すことも忘れることもできなかった……。っ……俺が悪いのに……。それでも傷つきたくないからって今まで言わないでいた俺が悪い、だけなのに……っ」

「タクが悪いんじゃないよ、気付けなくて受け止めてあげることもできない俺が悪い。それだけじゃない、俺のせいでタクの価値観や人生まで狂わせちゃったんだ。俺に出逢ってさえなければ、あの時俺が先生に怒られたくない一心で無理に仲良くなろうとしたりしなかったら、それっきりだった。タクはきっと普通に同年代の女の子を好きになって、こんな苦しみ味わうことなかったのに……」


 強く抱き締められながら、突き放される。誠弥は何の悪気もなくそれが当たり前だという誠弥の中の価値観で、巧人の全てを根本から否定した。


「本気でそんなこと……思ってるのか……? それじゃあ、俺の人生、全部間違ってたって言ってるようなものじゃないか……っ」


 怒りで抜けきっていた力が戻ってくる。顔を上げて誠弥を見ても目の前の水滴が邪魔をして、ぼやけて歪んだ水彩点描みたいにしか捉えられない。視界をクリアにする役割を果たさない眼鏡は邪魔でしかなくて、巧人は床に投げ捨てた。見えるものは抽象画に変わっただけだった。


「俺のこと、嫌い……? やっぱり、気持ち悪いって思った? そんな風に、関わらない方がっ、良かった奴だって思ってるんだろ……っ」

「まさか! そんなことこれっぽっちも思ってない! タクのこと大好きだよ! 先生の息子だとか今じゃ関係ない。親しみやすいかなって思って〝兄弟〟なんて肩書き作ってみたけど、多分本当に血の繋がった兄弟以上にどうしようもないくらい大事だと思ってる。だって、秋に嫉妬しちゃってたんだよ? だからこそ、俺を好きでいてくれるのはすごく嬉しい。けど、それと同じくらい俺のせいで苦しんでほしくもないんだ。ねえ、どうしても今のままじゃだめなのかな?」


 至近距離で気持ちをぶつけ合う。言葉のドッジボール、お互いに受け止められないからキャッチボールにはならない。ただ嫌なだけなら向き合ったりしない、今のままで良いならこんな行動には出ていない。


 ああ。〝兄弟〟なんて、こんなものか。


 二人して同じように思い、頭を冷やす為に力を抜いた。隣り合わせで横になる、顔は見合わさず揃って同じ天井を見上げる。真っ白。気を紛らわす隙も与えてくれない。

 先に口を開いたのは誠弥だった。


「タクは、俺と〝兄弟〟だったことをなかったことにしてまで恋人になりたい?」


 空白に言葉を並べる。するとすぐに返事が来た。


「なかったことになんてしなくてもいいだろ」

「そうかな。もし、恋人になるなら俺はタクが〝弟〟だったことを全部忘れないとタクに恋人らしいことをしてあげられる自信がない。俺の中でタクはいつまでも泣き虫で寂しがり屋な男の子のままだから。なかったことにして一からタクと向き合えば、俺もタクのことそういう目で見られるようになるかもしれない。タクだってそうでしょ? 俺を見る目は〝兄〟としてと恋愛対象としてじゃ全然違うはずだよ」


 空白に投げかけられた疑問符に巧人は、誠弥と唇を重ねたときに口の中に広がり混ざり合ったリンゴジュースの味と香りを思い出す。それに紐付いた昔の記憶も手繰たぐり寄せられ走馬灯が白を彩る。

 病院にいて白衣を着ているのに優しいお兄さん、勉強を教えてくれて遊びも教えてくれるお兄さん、両親に内緒で遠くへ連れ出してくれたお兄さん、楽しいという感情と笑顔をくれたお兄さん。

 〝好き〟の意味を何から何まで気付かせたお兄さん誠弥

 隣にいるだけでどきどきして、触れられれば体温が上がり、誰にも言えない妄想がどんどん膨らんで、四六時中頭を離れない――。それは全部〝兄〟ではなかった。

 〝弟〟と言われる度、傷付いてきた理由。「誠弥」……そうは呼べない代わりの「兄さん」は、知らず知らずのうちに巧人自らを痛め付けていた。

 死ぬことさえ許されず、見えた走馬灯ごと杜松誠弥の〝弟〟である槙野巧人はここで白に還らないといけないのだろうか。何も返してはくれない空白に問いかけた。


「たしかに違った。でも、俺は兄さんとの思い出を棄てたくなんかない……。〝兄弟〟として一緒にいたから俺は兄さんを好きになったんだ、それを全部なかったことになんてできない」


 ただの養護教諭と生徒として出逢っていたところで、それ以上にはならなかっただろう。誰も愛することなく恋を知らないままどこかで死んでいたかもしれない。今、巧人が存在しているのは誠弥のおかげと言っても過言ではなかった。

 お互いに首だけ横を向けると、目がぴったりと合った。


「俺はずっと兄さんの傍にいたい、一生一緒にいたい。〝兄弟〟だったからこそそう思えたけど、こんな嘘の関係のままじゃいつか絶対離れ離れになるだろ? 俺、兄さんのいない生活なんて堪えられる気がしない」

「もう一回告白されたみたい。寧ろ飛び越えてプロポーズみたいだね」

「……ぷ、プロポー……っ。……茶化すな」


 誠弥の目を見ていられなくなって巧人は顔を逸らした。壁も白くてうんざりしてくる。


「そんなつもりじゃなかったんだけど。でも、俺たちはどんな関係であってもずっと一緒にいられるよ。信じられない?」

「だって……俺が大人になればだんだん会えなくなるだろ……。その……もし兄さんが結婚なんかしたら、ますます会えなくなる」

「結婚かぁ……。前にも言ったけど本当に全然考えられないんだ。これから奥さんになるような人に出逢うことも子供がいて家庭を築いてる姿も想像できない。それなら、今ここでタクのプロポーズを受け入れる方が余程リアルに捉えられるな」

「は……?」


 そもそもしてもいないプロポーズを受け入れられようとしている。冗談に対する仮定はつまるところ何なのか、そんなどうにもならないことを考えていると巧人の口から声が漏れた。


「いや、他の誰かと一生添い遂げるよりタクと一生一緒にいる方が想像できるなーって。それに〝兄弟〟だとか恋人だとかってのは単なる肩書きに過ぎないと俺は思ってるんだ。もちろん、その肩書きに力があるからそれなりの覚悟がいるんだけど。そんなのに囚われないでも俺たちはもう十分絆を深められてると思わない?」

「俺たちには肩書きなんていらないって?」

「うん。俺たちは他の何にも代えられないしたとえることもできない。誰かの真似事なんてしなくても離れ離れにならない。何度だって言うよ、ずっと一緒にいられるって。信じられなくても俺が保証する」


 そっと右隣から温もりが巧人の全身を包んだ。誠弥が大切な宝物を扱うように抱き締めてくれている。優しい温かさに巧人はまたうるっとしてしまった。


「兄さん……っ」

「ごめんね。もう〝兄弟〟だったことなかったことにするなんて言わないよ。でも、タクのくれたこの気持ちは一生かけてでも受け取りたいから。返事ができるその日まで、待っててくれる?」

「うん……待ってる、ずっと待ってる……っ」

「ありがと。俺、頑張るね」


 巧人は誠弥の腕の中で目を閉じ微睡まどろんだ。

 勉強合宿の夜は更けていき、巧人たちにとって忘れられない高校行事が終わった。


 カチ、カチ……カチ――。揺れ動いていた鉄球はぴたりと止まった。

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