#40 運命座

「柞木、槙野にフラれたんだ」


 バーベキューコンロを前に秋と楓は二人で残っていた。他の生徒たちも大半が宿舎に戻り始めていて周りから人影がどんどんなくなっていく中、木々の騒めきだけが耳に届いてくる。


「待ち時間の間に告ってフラれた。オレ、ちゃんと巧人のこと大好きだったわ。付き合えなくていいとかぜーんぶ嘘。だからしっかり傷付いた、キスしてやれなくて泣いた」

「そっかー、そっかそっか。こーいうとき、なんて言ってあげるのが正解なんだろ? とりあえず、気持ちはっきりして良かったね……ってとこかな?」


 夏の前の夜の風はまだ冷たい。カーディガンの隙間を吹き抜けては秋の身体を震わせた。切ない気持ちが押し寄せてくる。


「はは、無理になぐさめたりしようとしないとこが茜センパイっぽい。うん、すっきりした。すっきりし過ぎてぽっかり穴でも空いてる感じがする。なんも失ってなんかねーはずなのにな」


 胸に残る違和感の正体が分からない。更地になった場所にかつてどんな建物が建っていたのか思い出せないように、存在している間は意識することもなかった何かが足りない気がするのだ。ヒューヒューと冷たい風だけがそこを通り抜けていき寂寥感せきりょうかんを漂わせた。


「言葉だけで言うなら、恋を失ったんじゃない? 恋心は恋をしてるときじゃないと持てないものでしょ。いや、ホントはずっと持ってるのに恋をしてるときじゃないと気付けないのかな」


 たとえば、数式のようなもの。いざ使おうとする度に覚え直すものではなく、使うときになって初めて思い出すものなのではないか。ただし、その感覚は数式を覚えてすらいない者には分からない。


「そうなんかな。でもこんなの初めてだ、オレの今までの恋ってもしかししたら恋じゃなかったんかも。思い返しても可愛いなって思う子はいっぱいいたけど、自分から告白までしたのなんて初めてだったし」


 秋は今までの恋愛を振り返る。

 小学五年生、初恋。クラスの学級委員をしていてスポーツ万能で頭も良い、ショートヘアの女子だった。初めて同じクラスになって話すようになるうちに、気が付くと彼女のことは好きな人から友達に変わっていった。

 中学一年生、思春期を迎えた。そこで好きになったのは、同じ陸上部に所属する短距離選手の女子。何よりも走ることが好きで常に体操服姿で過ごしていた彼女とは、いつしか切磋琢磨せっさたくまし合える大切な仲間同士になっていた。

 中学二年生、初めて告白された。陸上部のエースとして活躍が期待され始めていた夏休み前、共にグラウンドで部活に励んでいた女子テニス部の同級生からだった。練習やトレーニングの合間に少し言葉を交わすくらいで秋自身はそういった目で彼女のことを見たことはなかったが、嫌いというわけでもなかったので告白を了承し付き合うことになった。年頃の男子にとってモテることは気持ち良く、彼女がいることは最高のステータスだったのだ。

 手を繋いだりデートを重ねたり、仲は良好なまま続いていた。しかし、日々増えていく友人からの「どこまでいった?」という質問が次第に秋にとってのストレスとなっていった。当然その意味を分かってはいたもののどこか他人事のように捉えていて、「水族館」などとわざと頓珍漢とんちんかんな回答をしてはぐらかしていた。

 その気になればいくらでも行動に移せたが、秋はそうしなかった。その階段を上る為に付き合ったわけではないのだ、周りに言われてするものでもない。

 そうしてプラトニックな関係を続けていたある日、突如愛想を尽かされ別れてしまった。同じような失敗を中学卒業までに二、三回繰り返した。


「キスとかしてみたいとは思ってたけど、キスしたいって思った相手は巧人が初めてなんだ。巧人と出逢ったときにオレの恋心は生まれて、そんでさっき消えてった。それが穴の正体なのかどうかの答え合わせは、次の恋が始まるまで分かんねーってことか。あーあ、いつになんだろそんなん。オレ、巧人以上に誰かのこと好きになれんのかな」

「さー、それは分かんないよ。運命は誰かが連れてくるものでも探せば見つかるものでもなくて、自分で決めるものだと思うから。ず――――っと先になるかもしれないし、案外すぐのことかもしれないじゃん」


 楓はテラスの端まで歩いていき屋根の更に上に広がる夜空を見上げた。空気が澄んだ田舎から見た空は、普段過ごしている土地の空とは別物ではないかと錯覚してしまう程に星が瞬いている。


「あの星とあの星を繋げば何座になるとか知らなかったら絶対分かんないし、知ってたってピンと来ない」


 いくつも輝く塩の粒みたいな光。その中ではまだ大きい方だと言える粒を起点に指さし点つなぎをしていく楓は「あれがしし座なんだってー」と言った。隣で同じように空を見上げ楓の描いたように頭の中で光を繋いでみるが、何をどう見れば獅子——つまりはライオンに見えるのか秋には分からなかった。


「運命がそんな風に決まってたらイヤでしょ。『あれが運命だったのに気付かなかったあなたが悪いんですよ』なんて言われたらウザすぎるじゃん。だから、運命は自分で決めるんだ。好きに描いて自分だけの星座を創り出す。その中で一番輝いてるのが運命ってヤツかもしれないし、逆に一番暗くて目立たないのがそうかもしれない」


 楓はまた別の星を指さす。北極星。他の星と比べても一際明るいわけでもないのに意識を向けられている。一年中見られるのだと楓に教えられ秋は初めて知った。

 暗闇に姿を消している木の葉が激しく擦れ合う音がしたと思えば、ビュンと風が吹き荒れた。楓はセーターの袖を引っ張り外気に触れないように中に引っ込めている。


「茜センパイ、寒い? オレのカーディガン貸すよ」

「それじゃー柞木が寒いでしょ、僕は大丈夫だよー」

「オレ、バカだから風邪引かねーし大丈夫! それに寒そうにしてる女子に上着一枚貸してやれねー男とかダサいじゃん」

「…………」


 ふわりと楓の肩にベージュ色のカーディガンが掛けられる。秋の体温が残っていて暖かい。上半身をすっぽりと包み込み持て余してしまうサイズと染み付いた健康的な汗の匂いが、彼との差を楓に分からしめた。


「柞木は僕のこと、ずっと女の子扱いしてくれるよね」

「そりゃあ、女子なんだから当たり前じゃん」

「僕、全然女の子らしくないのに。僕を女子だって認識したのもこの髪型だからでしょ? 短かったらきっと男子だと思ってた、そんで女子だと分かると扱いが面倒な奴だって思って避けてた」


 楓は秋のカーディガンの前立てをぎゅっと握った。だんだんと温もりは逃げて空気に溶けていく。


「どうだろ、髪短いセンパイ見てねーから分かんね。どんなだったか見せてよ、写真とかねーの?」

「写真はないけど、見せられないことはないよ。これ、地毛じゃないから」

「え、そうなん? っあ、イヤなら見せてくれなくていいから!」

「イヤってわけじゃないよ、そっちがホントの僕なんだし。正直に言うなら、受け入れてもらえるか……ちょっと怖い」


 そう言いながら楓は辺りを見回し、秋以外は誰もいないことを確認する。暗闇に潜んでもいない限りぼやけた人影さえ見当たらない。完全にこの場には二人きり。それを確信すると、楓は慣れた手つきでウィッグを外した。

 風に靡かないベリーショート、秋よりも短い。


「え、可愛いじゃん!」

「どこが」

「ショートめっちゃ似合ってる! オレはって話だけど、こっちのが好き!」

「こんな男子にしか見えない見た目してんのに?」


 パンツスタイルの制服を選んでいてネクタイもきっちりと締めている。身長こそ低いものの女性らしい曲線や柔らかさをシルエットから感じさせない。楓は中性的とも言えず、十中八九男子だと判断されるであろう見た目だ。去年まではこのスタイルで表に出ていて上手くいかずに失敗を繰り返していた。


「茜センパイは女子だよ。あっ、もしかしてそーゆーこと言われるのイヤ? 可愛いとかもダメだった?」

「いや、そんなことないよ。柞木がそんな心配するってことは……さては、槙野に可愛いって言い過ぎてなんか言われたねー?」

「うん、『男に可愛いってどうなんだ』って。だから茜センパイもそーゆー感じだったら悪いと思ってさ」

「僕は女だ。今だからそう割り切れてるけど、お察しの通り僕はつい最近まで男として生きようとしてた」


 テラスから一歩外へ出て楓は振り返る。月明かりと散りばめられた小さな光だけが照らす彼女の微笑みは、秋の目にはとても儚く映った。


「昔からオシャレに興味もプリンセスに憧れもなくて、ピンクもスカートも嫌いだった。女子の『可愛い〜』とか『分かる〜』が理解できなくて、男子に交じって外でドッジボールとかサッカーをしてた方が楽しかった。だから、僕はでいることにした。小学生までならそれでどーにかなってた。でも、中学生になったらそーはいかない。男女ははっきりと区別されて、選ぶ余地も迷う時間も与えられないまま生まれた瞬間に持っていたものに従って機械的に分けられる。制服に心を縛られて『分かる〜』が分かんない奴は居場所を失うんだ。まー、それに耐えらんなくて僕は逃げてたんだけど」


 思い出したくもないのだろうと輪郭が暗闇にぼやけていても伝わってきて、秋は「話したくねーなら無理しなくていいからな」と声をかけてやる。しかし、楓は「大丈夫」とだけ返し、持て余していたカーディガンの袖口を握って話を続けた。


「逃げ続けてたら僕まで僕を否定してることになる気がして、高校からは心を入れ替えてちゃんと向き合おうって決意した。うちの高校ならパンツもスカートもリボンもネクタイも自分で好きなものを選べるし、僕は環境も大きく変えられたから大丈夫だと思ってた。だけど、服装なんて関係なかった。環境だって変わんない、どこにいても『分かる〜』が分かんない奴に居場所はなかった。僕のことを分かってくれない奴らはのうのうとのさばってるのに」


 風が吹いてくると楓はまた寒そうに身体を丸め、秋のカーディガンに包まるようにして冷たさから逃れた。


「そんな風にずっと周りを恨んでたけど、そもそも僕自身が僕のことを分かってなかったんだ。僕はでいる方が楽だけどになりたいとは少しも思ってなかった。趣味や好みが男の子っぽいだけの女だったことに何回も失敗してからやっと気付いたんだ。そんなのいくらでもいるだろーって思うかもだけど、僕の中ではかなり大きな問題だったんだよ。周りと話が合わないって、それだけですごく寂しいんだ」

「巧人とセンセーと茜センパイが難しそうな話してたら多分ついていけねーって思うのと同じ?」

「ちょっと違うかもだけど、それでいーや。一人ぽつんと置いていかれちゃう感じ。そんで、ついていけないことすら理解されない。でも、柞木なら仮にその話題についていけなくても別の話始めるでしょ?」

「んー、多分? オレも交じってみんなで盛り上がれそうな話題振るかも」

「だよね。そーすればいーんだ、簡単な話だよ。『分かる〜』が分かんないなら別の角度から話題を出せばいい。どこかに僕も一緒に『分かる〜』って言えるものがあったかもしれないのに、僕はその可能性を見て見ぬふりして居場所を探すことを諦めてた。保健室はせーやや他の誰との間にも『分かる〜』がいらないから楽だけど、いても苦しくない場所ってだけで居場所とは少し違った」


 朝日も昇りきらないような時間に起床し一時間半もかけて登校した末に足を運ぶその空間は、決して楓を本当の孤独からは救い出さなかった。誠弥は余計な詮索せんさくはせず自分からは適切な距離感を保ったまま接していて、相談に乗ったりアドバイスを与えたりと親身にはなってくれてもあくまでそれは万人に分けへだてなく振り撒いているものに過ぎなかった。教師と生徒――その隔たりは途方もなく、立っている場所が同じになることはないのだ。


「そんな居座ってただけの保健室が居場所に変わる出来事が起こった。どーやらせーやのたくらみだったみたいだけど、槙野に出逢った。槙野は僕と考え方が似てる気がして『分かる〜』が分かんない奴だってすぐに気付いたんだ。周りとの同調の仕方を知らなくて、クラスで浮いてるんだろーなって思った。実際にそーだったでしょ?」

「まあ、そうだな。中学までは友達いなかったらしいし、教室でも話しかけにくいオーラ出しまくってたから」

「そんな槙野だったから僕もすぐに心許せたんだろーね、ポジティブな感情よりネガティブな感情の方がどーいうわけか共感しやすい。あと、男子なのにあんな可愛い顔してるから僕と近い悩み持ってたりしないかなーって、ちょっとした期待もあったりはしたけど。そして、そんな槙野の友達だっていう柞木に出逢った」


 一歩テラスの方へ戻り楓は柵に手を置く。一段高いところにいる秋とは差にして三十センチ以上あり、首の角度を空を見上げるときと同じにして目を合わせた。


「柞木はどこにいても輪の中心で笑ってて、どんな人とも気付けば友達になってるよーなとんでもない陽キャだなって思った。僕と友達になったのもたまたまそこにいたからとか槙野の友達だからとか、少し経てば友達になったことすら思い出せないくらい取るに足らない軽いこととして捉えてそーだなって、正直初めは苦手だったんだ」

「えっ、そーなん?」


 秋がショックを受けながら「ぜんっぜん気付いてなかった……」と言うと、楓は「だろーねー」と妖しく笑った。


「だけど、そんなことは全くなかった。柞木は思ってないことを口にすることも思ったことを黙っとくこともできない馬鹿だった」

「みんなしてバカバカ言うなよ……風邪は引かねーかもだけど傷は付くんだぞ」

「ごめんごめん。でも、そこが柞木の良いとこなんだよ。本気で友達だと思ってくれてるからいつでも一生懸命で、柞木が笑っていられる場所を他のみんなも同じよーに笑っていられる居場所にしちゃう。柞木と友達になれてホントに良かった」

「改めてそんなこと言われると照れんな、へへ」


 テラスの明かりが秋を照らしている。眩しい笑顔が暗闇に際立った。


「居場所ができたところで僕はまた僕のことを考えたんだ。子供以上大人未満の奴の考えなんて、あっちに行ったりこっちに行ったりで目まぐるしいくらいに変わっちゃうからね。槙野や柞木と友達になれたけど結局女子とは友達になれてない、僕はやっぱり男になりたいって思ってるかもしれない……なんて立ち止まってみたり。まー、今のところの結論は最初に言った通りだけど」


 楓は柵から手を離し、姿勢を正して胸を張る。夜も深まろうとしていて風が湖上で冷やされより一層冷たく感じられたが、不思議と寒くはなかった。


「僕は『可愛い』って言ってもらえて嬉しいだよ」

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