#37 答え

 十八時。自習時間が終わり、夕飯までの約三十分を一行は自由に過ごしていた。とはいえ、売店や他の娯楽施設もないので、自然と各自の部屋で待機する形となった。

 巧人と秋は自分たちの部屋に着くと、二人ともネクタイを解き、秋はさらにシャツのボタンを緩め一息ついた。


「はぁ〜疲れた、一生分の勉強した……」


 秋は荷物を脇に放り投げ、ベッドに飛び込み大の字になって溶けた。


「三時間と少しだぞ、それで一生を使い切ってどうするんだ」

「例えじゃん! でも絶対十五年分は頭使ったって、めちゃくちゃ頭痛いし!」

「頑張ってたのはよく知ってる。三十分、ゆっくり休んでるといい」


 そう告げると巧人は、部屋に初期不良がないかチェックリストを持って見回り始める。二人部屋はそう広くはなく、窓や収納の扉を開ける以外はその場でぐるっと目視するだけで確認できた。どこにも異常はなさそうだ、各項目に丸を付けていく。


「巧人の方がオレの何倍も頑張ってたのになんでそんな平気そうなんだよ〜」

「勉強ならいつもしてるからな。あれだけ大勢と話したのは初めてで緊張したし疲れてるはずなんだが、不思議と大丈夫なんだ」

「アドレナリンが出てる感じ?」

「そうかもな。さっきは……すごく楽しかった」

「だろうな、見てるだけで分かったもん」


 秋は身体を起こし巧人を見上げた。電球色の灯りのせいか、男子にしては小柄で頼りなさげな背中から幸せそうな暖かい色のオーラが出ているように見えた。ちらりと振り向き見えた横顔は目尻を下げ口角を上げていて、思わず心を奪われてしまう。


「……なあ、ぎゅってしていい?」

「え?」


 困惑を漏らしながら巧人が振り返ると目の前に秋が立っていて、そのまま腕の中に吸い寄せられる。手にしていたクリップボードとシャーペンがカーペットに落ちる鈍い音が響いた。


「すげぇ、巧人抱き締めたら疲れ全部吹っ飛んだ」


 全身を強く包まれ、巧人はされるがままただじっとしていることしかできない。


「巧人、すっかりみんなのものになっちゃった。オレだけの特別なんて一瞬だったなぁ……。ただの友達の一人、たまたま初めに仲良くなっただけのクラスメイト――そんな風に巧人の中でオレの存在ってどんどん薄くなってくんだろな」

「そんなこと……」

「けど、全然辛くなんてなくて寧ろ嬉しくて仕方ないんだ」


 巧人の否定をさえぎり秋はありのままの言葉を続けた。巧人は耳を傾けることに専念すると決め、力んでいた身体を秋に任せてみる。


「巧人の笑っていられる場所がどんどん増えてくの、自分のことみたいに嬉しいんだ。後先考えずに告白するくらい好きだって思ってる奴が、遠くに行っちゃうの喜んでるとかおかしいよな。恋ってもっとその人のことを独り占めしたいとか、ずっと一緒にいたいとか思うもんじゃん。巧人だってそーゆーこと考えたりするだろ?」

「俺は……。今すぐにでも秋が俺にしてるみたいに抱き締めたいし、俺以外のことは何も考えてほしくない。だが、そうやって自分勝手なことばかり考える俺が俺は大嫌いだ。秋みたいに考えられたらどれだけ良かったかって思ってる」


 巧人も心の内をさらけ出す。誠弥は今、何をしているのだろう。秋の腕の中でも巧人は誠弥のことで心も身体もいっぱいだった。


「オレみたいじゃダメだよ、自分の気持ちすら信じられなくなる。今だってオレはホントに巧人のことが好きなのかどうか分かんねーもん」


 秋は巧人の身体に回していた腕を解き、両肩に手を置く。そして、気持ちばかりに猫背になり視線の高さを合わせた。


「だからさ、ズルいことしていい?」

「?」

「オレだけで考えてても答えは出ねーから、巧人の答えが聞きたい。オレの気持ちが分かるのはオレ自身だけかもしんねーけど、気持ちを測る物差しはオレ自身でなくてもいいと思うんだ。――返事を聞かせてほしい」


 肩に置いた手に力が入る。そこから秋の熱が巧人に伝わってくる。お互いに緊張の糸が張り詰めるが、目を逸らしてはいけない。暗黙の了解で通じ合った視線は二本、真っ直ぐに繋がったままだ。


「オレ、巧人のことが好きだ」


 驚かない。一度聞いているその告白に、巧人は動揺しなかった。反対に秋は一度目以上に意識しているようで、頬を紅らめている。

 部屋の真ん中でじっと見つめ合ったまま沈黙が続く。巧人の中で答えはもう出ていたが、なかなか声に乗せられないのだ。抱えている想いによって測られる秋の気持ちはどうなってしまうのだろうか。友達としての関係も崩れてしまうのではないか。そう思うと上唇と下唇がぴったりと接着されてしまったようにぴくりとも動かなかった。

 何の音も聞こえてこず、キーンと耳鳴りがした。不快感と焦りで寒気がしてくる。不安定になっているのか、口の中はからからで唾を飲み込むのもやっとであるのに汗が全身から噴き出してきた。それでも、答えないといけない。

 巧人はようやく上唇と下唇を震わせながらなんとか引き離し、第一声を探った。


「……俺、好きな人がいるんだ。前にも言った、小学生の頃からずっと好きな人……」

「うん、知ってる」

「その人と付き合ったり、ましてやこの先結婚とか将来の約束なんて到底できないと思ってる。だが、どうにもなれないとしても、俺はきっと一生その人以外を好きにはなれない。それがたとえ、秋だったとしても」

「うん、そっか」

「だから、俺は……秋とは付き合えない」

「……分かった」


 秋の中で何かがすとんと落ち、納得したように頷いた。そして、力なく巧人の肩から手を離す。向けた笑顔はいつもと変わらない形をしていたが、部屋の明かりの逆光が悲壮感ひそうかんを滲ませた。


「ごめん……」

「謝んなって、それが巧人の正直な答えなんだからさ。巧人の好きな人って、杜松センセーだろ?」

「えっ、なんで……」


 何もない平坦なアスファルトの道を歩いていて突然落とし穴を踏み抜いてしまったようだった。まさかそんなはずはないと思っていたところから突如その衝撃が巧人を襲い、壁に手をついた。


「うーん、なんでってなぁ……。一旦そうだと思ったら、もうそうしかねーじゃんってなったし」

「そうか……。なら、黙っていても仕方ないのかもしれんな。そうだ、俺が好きなのは兄さんだ」

「そんなの、適いっこねーじゃん。だからオレ、今、悔しくも辛くもねーんだ」


 秋の乾いた笑い声が部屋中に響いた。剣を交えるまでもない圧倒的格上を相手にすれば、負けたところで笑うことしかできない。


「良いな、両想いじゃん」

「そんなわけないだろ。兄さんが俺のことを好きだとすれば、それは〝弟〟としてに過ぎない。俺の気持ちは、兄さんには届かないんだ」

「好きだって伝えてもねーのに何言ってんだよ。もし、好きって言ってそれでも足りなかったら……こうすれば?」


 秋はだんだん巧人との距離を詰めていく。巧人は既に壁際にいたので完全に追い詰められた状態になった。なるべく身体を壁にくっつけるようにして距離を取ろうとしているが効果はなく、そのまま右手で口を塞がれる。抵抗する声を上げる前にその上から唇を重ねられた。

 時が止まる。至近距離で聞こえるはずの息遣いさえ、気が遠くなって耳に入ってこない。閉じてしまった目は瞼の裏だけを巧人に見せ、何も分からない無音の暗闇に迷い込ませた。


「初めては大好きな人に捧げろよ」


 離れてもなお巧人は何が起こったのか分からず口元を押さえ硬直したままだ。一方の秋は眩しいくらいの笑顔で、ぽろぽろと涙を零した。


「はい、これがオレの出した答え。オレ、ホントに巧人のこと……好きだったみたい……っ」


 溢れ出てくる涙を拭う手が追いつかない。ベージュ色のカーディガンの袖口に暗い色の染みが広がっていった。


「いや、そうじゃねーな。巧人にどれだけ好きな人がいても、オレは巧人のことが好きなんだ。巧人の特別でいたい、これは恋人じゃなくて親友としてってことなんだけど……ダメ?」


 涙をしたたらせたまま、秋は充血した目で巧人を見つめる。こんなにくしゃくしゃになって不格好な秋を見るのは初めてだった。だからこそ、想いはいつも以上にストレートに胸に届く。


「親友……。駄目じゃない、すごく嬉しい。俺と秋は親友だ」

「ホント? ありがと〜っ!」


 秋は再び巧人に抱きつく。今度は優しく心地の良い温もりをいっぱいに感じさせた。


「それはこっちの台詞だ。俺の方こそありがとう」


 巧人もそっと抱き返す。泣きながら笑っている秋の声が耳元ではっきりと聞こえてきた。


「これじゃ、悲しいのか嬉しいのか分かんねーな。へへっ、いつか巧人くらい可愛い奥さんを紹介してやるんだって思ったら今から楽しみで仕方なくなってきたんだ」

「気も立ち直るのも早いな。秋の奥さんに会える日が俺も楽しみだ」


 それでこそ秋だと巧人は安堵の表情を浮かべる。

 時計を確認するとちょうど三十分が過ぎようとしていることに気付き、秋に「そろそろ行こう」と声をかけた。


「え、もう三十分も経ったん⁉ 早ぇ……。でも、巧人ぎゅーってしたらばっちり充電完了したし、腹もいい感じに減ってきた!」

「充電したのに腹は減るんだな」

「別腹ってヤツだよ」


 足取り軽く部屋を出ようとする秋に「そういう意味じゃないだろ」とぼそりとツッコミを入れ、巧人は部屋の鍵を持って後をついて行った。

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