#36 垣根を越えて
盛り上がっている様子は部屋の外まで伝わっていて、前まで来ていた楓は恐る恐る部屋の引き戸を開け中を覗き込む。どうやら話題の中心に上っているのは顔見知りの友人らしいと分かると、
「なんか楽しそーだねー」
「あ、茜センパイ! 今、巧人と梅田が友達になったんだ!」
「へー。おめでとー、槙野もすっかり人気者なんだねー」
「俺はそんなんじゃない」
照れながらも巧人は謙遜するが、周りにはどんどんクラスメイトが集まってきていた。
「槙野くん、良かったら私にも勉強教えてくれないかな……?」
「俺も数学でどーしても分かんねーとこあんだ!」
「ウチは英語なんだけど、いい?」
「これで人気者じゃないってのは無理あるでしょー」
教科書や参考書を抱えて言い寄られている巧人を、楓は腕を組みながら傍観しにやっと笑っている。
「教えることは構わないが、一度には無理だ……。茜川もたしか成績良いんだよな? 協力してくれ」
「えー、僕この人たちと初対面なんだけどー。それに、みんな槙野に教えてもらいたいんじゃないのー?」
「理解さえできれば誰に教えてもらうかなんてどうだっていいだろ」
巧人がそういうとクラスメイトたちは各々頷いたり腕を組んで悩んだりしている。ただ、その中で楓の存在を
「もう班とか気にしないでみんなで勉強しようぜ! 誰が教えて誰が教えてもらうとかもぜーんぶなし! 巧人だって分かんねーとこあるかもしれねーし、逆にそれは分かるって奴もいるかもしれねーじゃん!」
部屋全体を見回しながら手をいっぱいに広げて演説するように言い切ると、桐原が真っ先に「いいなそれ!」と賛同し続いて梅田は「秋は教えてもらうの専門だろうけどな」と
そうと決まると三組の生徒たちは整然と並んでいた長机やパイプ椅子を自由に移動させ「数Aする人は一緒にこっち集まろー」と普段は違うグループに属する者にも声をかけたり、「私、古文なら教えられるよ!」と巧人や楓以外にも先生役を買って出る者も現れた。
「つーか、英語なら瑞樹ちゃんに訊くのが一番早いじゃんね」
生徒だけでなく担任までも巻き込み、クラスが一丸となっていく。楓も自分のクラスに一人でいたままでは考えられなかったくらいにこの環境に馴染んでいて、暖かい空気感に居心地の良さを感じた。
「いーなー……。このまま三組にいれたらいーのに」
「茜川さん……だったっけ? あたし、六組に友達いるから声かけてみるよ。六組の人たちもきっとあたしたちが槙野くんのこと誤解してたみたいに、茜川さんのこと誤解してるだけだと思うから」
数学を教えてもらっていた
「ありがと。でも、気持ちだけ受け取っとくよ。君に迷惑かける訳にはいかないし」
「あたし迷惑だなんて思ってないよ」
「でも、君は僕とどう接するのが正解か顔色伺ってる」
どきり。考えていることをそっくりそのまま読み取られたと、広瀬は無意識に身体を後ろに引いた。
「そりゃあ分かんないよねー、こんな女子なのか男子なのかはっきりしない奴の扱い方なんて。それで正解だよ、だから気遣って友達差し出さなくてもいーよ」
広瀬はそれ以上言葉を紡ぎ出せず視線を床に落とした。すると秋が「だったら……」と話に入ってくる。
「茜センパイは女子と男子、どっちと仲良くなりてーの?」
「僕? 僕は……そんなのどーでもいーよ。どっちであっても仲良くなれるなら、そんなの関係ない」
「じゃあ、えーっと……なんだっけ? オトコバ? なんかそんなんに甘えちゃえばいーじゃん!」
「ふっ、なにそれ」
思わず失笑してしまう楓に秋は「オレ、真剣なんだけど!」と珍しく不満気に口を尖らせた。
「それを言うなら、オコトバだよー」
「ん? あっ、そーゆーこと? へへ、間違えた……恥っず」
「柞木らしいよ。……そーだね、その通りだ。やっぱり、せっかくなら僕のこと、君の友達に話してほしーなー。でも、その子が考えてることが誤解だとかそーいう説得はしないで。君が思ってたのと同じで今はそれが正解だから」
「うん、分かった」
広瀬は優しく微笑んだ。可愛らしいその顔が楓に焼き付く。
「オレは六組に知り合いいねーけど、笹森とか部活一緒の奴いたりする?」
「六組なら結構いるよ、話してみる」
「さんきゅー、やっぱ笹森は分かる奴だな」
秋は後ろに座っていた笹森と肩を組む。笹森は「へへっ」と照れくさそうに笑った。
「ありがと柞木。でも、なんで僕にここまでしてくれるの?」
「なんでって、友達だから? あんま深い理由はねーけど、友達は助けたいし笑っててほしいって思うじゃん」
「……変な奴」
そんな恥ずかしいことをよく平気な顔で言えるものだ。底なしの善人である秋と目を合わすことすら楓は躊躇いたくなり、隣に座る広瀬に「他に分かんないとこある?」と参考書を忙しなく捲りながら尋ねた。
いくら先生役が増えてもやはり入試をトップで通過した事実は大きく、自習開始から一時間が経過しても巧人の周りから人が絶えることはない。自分の勉強をする隙すら与えられないが、頼られることや大勢の輪の中心になる初めての経験がそんな不満を全く感じさせなかった。数学の次は現代文、その次は英文法、そしてまた数学に戻る。目まぐるしく教科が切り替わるが、冷静に淡々とそれでいて丁寧に解説していく。感謝の言葉を何度も投げかけられ、巧人はその顔にはっきりと笑顔を刻み込んだ。
「こんなの、せーやが見たら泣いて喜びそう。呼んでこよっかなー」
「そんなことする必要ねーよ。だって、これからはこれが当たり前になるんだ。いつでも教室の前を通りかかれば見られる普通になる」
「そっか。やっぱり柞木はすごいね、みんなを繋いで上手くいくようにする潤滑油で接着剤。僕はそーいうとこ、見逃さないで評価するよ」
「なんかよく分かんねーけど、さんきゅっ」
机に向かわず横を向いて座っていた楓は巧人の方を見ていた視線を、机を挟んだ向かいに座る秋の方へ遣り僅かに笑って頬杖をついた。
「実はオレさ、ちょっと前に巧人に好きだって告白したんだよ」
「それはまた急にすごいこと言うねー」
こそっと囁くように告げられた爆弾発言に楓は姿勢を正し、秋の方へ向き直った。一方の秋も背筋を伸ばしている。
「巧人、めっちゃ可愛いじゃん。初めは女子だって勘違いして一目惚れしちゃって、そのあと男だって分かっても気持ち変わんなくてさ。でも、やっぱただの勘違いだったんかな? 巧人にオレ以外の友達ができたら絶対もやもやして嫉妬すると思ってたのに、今全然そんなことなくて、寧ろめちゃくちゃ嬉しいんだ」
今、巧人の隣には自分ではない他の誰かがいる。特等席だった場所は誰でも座ることができる自由席になってしまった。しかし、それは秋にとって悲しいことではなかった。居場所を奪われたわけではなく、席が大きく広くなっただけなのだ。ただ、玉座からベンチに座る椅子が変わったことを本来ならば悔しがるべきなのではないかと思い悩んでいた。
「うーん、柞木良い奴だから分かんないなー。ホントに好きでも独占欲剥き出しになんてしなさそうだし、普段見てても仲良いなーって思うくらいだしー。ホントの気持ちが分かるのは柞木自身だけなんじゃない? こればっかりは勉強と違って教えらんないよー」
「オレ自身だけ……か。うん、もうちょっと考えてみる。巧人にも好きな人いるみたいだから、いつまでもこんな中途半端な気持ちぶつけたままなんは申し訳ねーし!」
「健気だねー。相手に自分以外の好きな人がいるって分かってて、それでも相手のことを一番に考えられてさー」
「? 好きな奴のことは何があっても一番に考えるもんだろ?」
「そーいうもんなのかな、僕にはまだ分かんない」
その気持ちがどんな感覚なのか分からなかった楓は、退屈そうに椅子の前脚を上げ危なっかしくゆらゆらと揺れた。
一段落ついたタイミングで巧人は秋の隣に戻ってきた。「順調にできてるか?」と秋に声をかけ、一息ついて自分のノートを広げ始めた。
「おう! 茜センパイも梅田もみんな頭良いからなんとかな。ほら、もうここまではカンペキだぞ!」
意気揚々と秋は参考書を巧人に見せつけた。先程までは新品同然であったのに、どの教科のものも表紙には折り癖がついていてあちこち書き込みがされている。ページもかなり進んでいて、数学に関しては授業で習った範囲にほとんど追いついていた。
「でもまだまだ分かんねーとこいっぱいあるから、巧人も教えて!」
「それはもちろんだ、どこが分からない?」
「現代文のこっからここまでと、古文のこの辺りと……あと英語はこっから先全部だな」
「……ホントにまだまだ、だねー」
横目で楓は呆れ顔をしてみせ巧人も間に合うのかと焦りをあらわにし、人望で集まったものの一人に対しては持て余す事態となった先生役も同じように困り果てている。そんな中、秋だけは一人やる気に溢れていた。
この部屋にいる大半が憂鬱に感じていた自習時間は、誰も想像し得なかった盛り上がりを見せ、誰一人時計の方を恨めしく見ることはなかった。
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