#27 夢の中でも

「……ん……ぅ……」

「目、覚めた? 怖い夢見なかった?」

「……うん、だいじょうぶ……」

(……お兄さん、ずっとなでてくれてたんだ……)


 ぼやけた視界で窓の外を見ると、すっかり暗くなっている。結局、祈りはどこにも届かず、どきどきが治まることはなかった。よく眠れた気はしなかったが、ただただぼーっとしていた頭に感じる温もりだけで巧人は癒された気がした。


「良かった。食欲はある?」

「うん……ご飯、食べられるよ……」

「じゃあ用意するね。お母さん、何作ってくれてるのか分かる?」

「えっと……カレーだと思う。朝、いいにおいしてたから……」


 今朝はその匂いで目を覚ましたのだと巧人は話す。仕事前の時間のない朝であっても、人参やじゃがいもはほくほく柔らかく煮て、玉ねぎは飴色になるまで炒める徹底ぶりらしく、母親の愛情が話す口調から手に取るように感じられた。


「カレーかぁ……ちょっと重いかなぁ。おかゆとか作った方がいい?」

「大丈夫……だけど、おかゆ……お兄さんが作ってくれるの……?」

「うん、俺が作るけど。どうする?」


 巧人は天井を見上げ考えた。身体の重だるさはあったが、食欲には何も変化はない。カレーの一皿くらい食べられたが、誠弥の手料理を食べてみたいという欲がどんどん湧き上がってくる。


「お兄さんが作ってくれるおかゆ……すごくおいしそう……」

「あんまり料理得意じゃないけどね。俺も食べていいならカレーと半分ずつ食べる?」

「どっちも、食べられるんだ……しかも、お兄さんと一緒……。うん、そうする。お母さん、お兄さんの分も考えて多めに作ってたはずだから」

「よし、じゃあ作ってくるから待っててね」


 誠弥は巧人の顔を覗き込み微笑みかけ部屋を出た。

 頭から温もりがなくなると、クーラーの冷風が寒いくらいに当たって鳥肌が立つ。一人になった部屋は広くて持て余してしまい、静けさが際立きわだった。


(……静かだなぁ。おかゆって、どれくらいでできるんだろ……? 三十分くらい? ……長いなぁ)


 ゆっくりとしか動かない時計の針を見つめていた巧人は堪らず起き上がり、ふらつく足取りで扉まで歩いていく。そこに耳をあてキッチンの様子が聞こえないか神経を研ぎ澄ました。


「あれ〜、こうじゃなかったかなぁ……?」

「!」


 誠弥の独り言がかすかに聞こえてくる。巧人は夢中になって扉にしがみついた。


「おかしいなぁ、ちょっと足してみるか……あぁ! 入れ過ぎた……」


(……大丈夫かな……)


 あたふたしているのが伝わってきて気がかりで仕方ない。見に行きたいが、大人しくしていないと心配をかけてしまうと思うと巧人はその場から動けなかった。


「こっちも足せばいっか、多分大丈夫だよね……。変なことなったら全部俺が食べるし。あー……ごめんね、たくとくん……」


(お兄さんが僕のためにがんばってくれてる……うれしい……)


 巧人は思わず笑みがこぼれる。それからしばらく、壁にもたれ体育座りで危なっかしい音を聴いていた。


「よし、あとはこれで……熱っ!」

「⁉ お兄さ……っ」


 突如響いた大きい声に反応し、巧人は扉を開け部屋の外へ出た。階段の前まで歩いてきたが、下っていったところで何もできることはないと気付き意気消沈いきしょうちんする。そんなときに限って、いつもは見ないようにしていたさらに上へと続く階段を視界に入れてしまう。上っていった先の暗闇が恐ろしくて足を震わせながら部屋に戻りまた布団に入った。




 * * *


「おまたせ〜。ごめんね、ちょっと手こずっちゃって時間かかっちゃった……」


 誠弥は苦笑しながらテーブルに鍋を置くと「カレーと飲み物も持ってくるね」と言って、巧人が声をかける隙も与えずまたすぐに部屋を出て行ってしまった。


(ああ、行っちゃった……。『大丈夫?』って言いたかったのに……。僕、いっつもこんな感じだなぁ……なんにもできない……)


 横になったまま半開きになった扉の方をじっと見つめ巧人は一人、悲しくなる。


(こんなんじゃ、友達なんてできるはずない……。みんなにきらわれて当たり前だ……。お兄さんも、僕のこと、きらいになっちゃうのかな……。そんなの、ぜったいにいやだ……っ)


 考えがどんどん悪い方向へ向いてしまっては、視界が潤みだしよく見えなくなる。涙が頬を伝って流れていくのが分かった。声を上げて泣きたかったが、これ以上誠弥に心配も迷惑もかけたくないと、壁の方を向いて布団に潜り込みすすり泣いた。


「ほらカレー良い匂いだよ〜……って、あれ? たくとくん、また寝ちゃった?」


 誠弥はカレーを盛り付けた皿と麦茶をテーブルに置き、ベッドで丸くなっている巧人の様子を覗き見た。


「……っ、寝てない……よ……っ」

「えっ、たくとくんどうしたの? やっぱり怖い夢見ちゃった?」


 泣いている声が布団越しにも聞こえてきて、誠弥は布団の上から巧人の小さな肩を揺らした。


「ううん……違う……」


 巧人は目元を擦り涙を拭うと、布団から顔を出し背中を向けたまま誠弥の顔をちらりと見る。


「僕……お兄さんに、きらわれたくなくて……。でも、僕……なんにもできないから、迷惑ばっかりかけちゃうから……」

「またいやなこと考えちゃってるのかな? 俺はたくとくんを嫌いになったりしないよ」


 小さく丸まって震えている背中を誠弥はゆっくりと安心させるように撫でてやる。しかし、腫れぼったくなった目にはまだ不安が滲んでいた。


「……どこにも行かない……?」

「行かないよ、ずっとたくとくんの傍にいる。たくとくん、本当は寂しがり屋なんだね」

「……ひとりぼっちはいや。だけど、お兄さんにきらわれちゃうのが一番いやだ……。だから……お兄さんに迷惑かけないためなら、こわいし、さみしいけど……お留守番も平気だし、もう泣かないよ」


 巧人はゆっくり起き上がり誠弥の目をじっと見た。誠弥の優しい眼差しに吸い込まれてしまいそうで、また心臓の鼓動がうるさくなってきて顔も熱くなってくる。


「お留守番が苦手だったり泣き虫なたくとくんも俺は好きだよ。でも、たくとくんは強くなろうとしてるんだよね。それならその意志はちゃんと尊重してあげないと。兄ちゃんは全力でたくとくんを応援するよ」

「僕のこと……好き……?」

「うん、大好き」

「うれしい……泣いちゃいそうなくらい、うれしい……っ」


 目を細めて笑う巧人の目尻から、溜まっていた涙が零れた。


「そこまで喜んでくれたら俺も嬉しいよ。よし、じゃあたくとくんが笑ってくれたところで、ご飯食べよっか!」 

「うん……!」


 巧人はベッドから出てテーブルの前に座った。カレーの良い匂いがしてくる。母親が作ってくれたカレー、隠し味にリンゴが入っている辛みの少ない甘口カレーは巧人の大好物だ。

 さらに、テーブルの真ん中には誠弥が作ってくれたおかゆの入った鍋が置かれている。見えない中身が気になりふたを開けた。


「うわぁ……」

「あんまり上手にできなかったから、美味しくなかったらごめんね」

「ううん、すっごくおいしそう……」

「だと良いけど。はい、あーん」


 誠弥はおかゆを茶碗によそうと、何度か冷ましてスプーンを巧人と口まで持っていった。巧人は驚きのあまり動けなくなってしまう。


「? 食欲ない?」

「う、ううん……! 大丈夫……。それに、自分で食べられるよ」

「強くなろうとするのはいいけど、強がりはいけないな。ここは兄ちゃんに甘えてて」

「うん……」


 巧人は思い切ってスプーンを口に入れるが、熱くて反射的に離してしまった。


「ごめん! 熱かった? ほらお茶!」


 慌てて誠弥はグラスに麦茶を注ぎ巧人に渡した。巧人は麦茶を一気に飲み干すと「はぁ……っ」と一息ついた。


「大丈夫? ごめんね、たくとくん猫舌だったもんね。もっとちゃんとふーってしないとね」


 誠弥は今度は先程よりも念入りに冷まし、一度口をつけてみて温度を確認した。


「よし、これくらい冷ませば大丈夫かな。はい、あーん」


(……これって、もしかして……かっ、間接キ……っ。どきどきしちゃう……! どうしよう……どうしよう、身体が……熱い……)


 スプーンの誠弥が口を付けた箇所に巧人は意識が集中してしまう。おかゆももどんな味がするのだろう。幼い好奇心が湧き上がってきてどきどきしているのを押し切り、目をぎゅっとつむり口を開けた。


「……っ。おいしぃ……」

「ほんと? どれどれ……。ほ、ほんと……?」


 誠弥は思わず戸惑った。自分の作ったそれは、米には芯が残っていて味も塩辛く美味しいとはとても言えないのだ。


「……もっと、食べたい……」

「たくとくん、こういう味付けの方が好きなのかな? 気に入ってくれたなら好きなだけ食べてね」

「うん……お兄さん、だい……す……き……」


 巧人は熱がさらに上がったようで、そのままこてんと誠弥に膝枕される形で意識を手放してしまった。


「あらら寝ちゃった? うーん、熱上がってる……。でも、息は苦しそうじゃないな」

「…………ん…………おにぃさん、ずっと……いっしょ……」


 誠弥の服を掴みふにゃふにゃと寝言を言う巧人は、うなされている様子ではなく幸せそうな顔をしている。


「楽しい夢見てるのかな。ふふっ、可愛いな」

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