#26 恋の病

 ――五年前、槙野家。


 夏休み。大学の試験期間が終わったことに合わせて巧人は誠弥を家に招いていた。誠弥を家に招くのは大抵勉強をするときであり、この日も例に漏れず夏休みの宿題を教えてほしいとお願いしていたのだった。


「お兄さん、テスト終わったばっかりで疲れてるのに来てくれて……ありがと」


 少し緊張した様子で巧人は誠弥を迎え入れ、部屋へ連れて行った。室内は整頓されていて、日頃からこまめに掃除していることが一目で分かる。程良く冷房が効いていて、扉を開けた瞬間ひんやりとした空気が漏れ出てきた。


「いいよいいよっ。……これからの方が疲れると思うし……成績的なあれで精神的な意味で……」

「?」

「あはは〜なんでもないよ〜! そんなことより、夏休みの宿題ってワードがもう既に懐かしいなぁ」

「それ、去年もその前も言ってたよ」


 巧人は「あははっ」と笑いながら誠弥にテーブルの前に敷いた座布団へ座るように言い、「飲み物、リンゴジュースでいい?」と尋ねドアノブを掴んだ。


「あ、俺も手伝うよ」

「え……だめだよ、お客さんにそういうことさせるのはだめなんだよ」

「いやいや、俺はお客さんカウントしなくていいって! たくとくんが重いもの頑張って運んでくれるのに、俺だけ涼しい部屋でゆっくりしてるのなんて申し訳ないし!」

「でも……勉強も教えてくれるのに……」

「いいからいいから、二人で運んだ方が早いし楽しいよ」


 誠弥は巧人の背中を押し、揃って部屋を出た。巧人は申し訳なさを感じているようで、浮かない顔をしている。そんな様子を察して誠弥は声をかけた。


「楽しくないかな?」

「ううん、そんなことないよ。お兄さんと一緒にいるの、とっても楽しい。でも、僕もお兄さんみたいに力持ちだったら良かったのになぁって思って」

「たくとくんもおっきくなったらジュースくらいひょいひょい運べるようになるよ」

「そうだといいなぁ」


 キッチンに着くと、巧人は冷蔵庫を開け二リットルのリンゴジュースのペットボトルを危なげに抱える。ふらついているところを誠弥が支えてやると「えへへ……」と照れ笑った。


「一人じゃ重くてきっと持って行けなかったなぁ……。お兄さん、ありがとう」

「どういたしまして。重いのは俺が持つから、グラス用意してもらっていいかな?」


 誠弥は軽々と片手でペットボトルを受け取る。巧人にはその姿がとても格好良く見え、目を輝かせた。

 椅子を台にして巧人は食器棚の上の段から客人用のグラスを手に取る。氷を入れるとカランコロンと涼しげな音がした。


「お菓子もあるんだよ。クッキーと……そうだ、お兄さん来てくれるって言ったらお母さんがゼリー買っておいてくれたんだ、フルーツの。モモとミカンと、あとは……ブドウのがあるよ。お兄さん、どれがいい?」


 グラスを誠弥に渡すと巧人は棚からクッキーを出し、冷蔵庫の中にゼリーがあったことを声を高くして伝えた。


「たくとくん先に選んでいいよ。甘いもの好きだもんね」

「でも、これ全部二つずつあるから同じの選んでも大丈夫だよ」

「じゃあ、せーので食べたいの言おっか。どれにするか決めてる?」

「うん! なんだか楽しそうだね」


 ちょっとしたゲームのようで巧人は小さな胸を躍らせた。お兄さんはどれを選ぶのだろう? 一緒だといいなと思っていると、すぐに決めていた意見を思わず変えたくなってくる。


「よし、それじゃあいくよ……せーの」

「「モモ!」」


 見事に一致した意見と重なった声に、二人揃って笑い合った。


「一緒だ、いえーいっ」


 掲げられた誠弥の大きな手のひらに、同じように「い、いえーい……」と恥ずかしそうに言いながら巧人は小さな手のひらでパチンとタッチした。


「お兄さんと同じ……うれしいな……」

「俺たち仲良しだね」

「うん!」


 お盆の上にリンゴジュースの入ったグラスとペットボトル、クッキーとゼリーとスプーンを二つ乗せ、誠弥が運ぶ。手持ち無沙汰な巧人は何か手伝いたいと誠弥の周りをうろうろするが「部屋まで案内してくれるだけでいいよ」と言われ、前を歩き階段を上って部屋の扉を開けて仕事は終わった。


「結局、全部お兄さんにおまかせしちゃった……」


 巧人はしょんぼりしながらリンゴジュースを飲む。無力な自分に対する悔しさのせいか、いつもより渋くて苦い。


「落ち込まないで、運ぶだけが仕事じゃないよ。それぞれができることを役割分担した結果がこうだったんだ」

「できること……僕も役に立てた?」

「もちろん! たくとくんがいなかったらここにジュースもクッキーもゼリーもなかった、全部たくとくんのおかげなんだよ」

「そっかぁ……」


 巧人は嬉しくなりふにゃっと笑ってもう一口リンゴジュースを飲む、甘くて美味しい。

巧人の純粋な笑顔に誠弥は弱かった。巧人が笑うだけで全身がとろけるようで、気付けばだらしなく口元を緩めていた。


「? お兄さん、どうしたの?」

「あーいや、たくとくん笑うとやっぱり可愛いなって。笑顔が一番だよ」

「僕、かわいいよりかっこよくなりたいなぁ。僕だって男の子だから、お兄さんみたいになりたい」

「俺はやめておいた方がいいんじゃないかなぁ……」


 誠弥は綺麗に片付けられた巧人の部屋と、教科書や資料が散乱し出し損ねたゴミ袋で小さな玄関が埋め尽くされている自分のアパートを比べため息を漏らす。大学でも怒られてばかりで、真面目で成績も良い巧人に憧れられるには申し訳が立たなかった。


「どうして? お兄さんは背が高くて力持ちで優しくて頭も良くて面白くて、一緒にいるととっても楽しいのに」

「べた褒め……。彼女にもそこまで言われたことないよ」


 『彼女』。その言葉を誠弥から聞く度に巧人はぴくりと反応してしまう。彼女、恋人――それは特別な人。羨ましい、自分も誠弥にとっての特別になりたい。漠然とそんな風に思っていた。


「……彼女さんとは、仲良くしてるの……?」

「うん。最近はテストとかあって全然会えてなかったんだけど連絡はずっと取り合ってて、今度久々に家に行くことになったんだ」

「へぇ……」


 誠弥は彼女の家に行っても今と同じようにジュースやお菓子を囲んで楽しく笑い合ったりするのだろうか。そんな想像をしていると巧人の胸はもやもやとした不思議な感覚に埋め尽くされた。


「彼女さんは仲良しなのに、お兄さんのこと褒めてくれないの?」

「いや、褒めてくれるよ。ちょっと前に大学でやらかして怒られたときも『誠弥くんはいつも一生懸命で夢に向かってたくさん努力してるんだから、何も悪くないよ』って言ってくれたし。でも、やっぱり俺って甘え過ぎかなぁ? 俺はたくとくんみたいに真面目じゃないから怒られてばっかりなのに、優しくされてまた怠けちゃって……。そんなことの繰り返しでさ、あぁ……」

「……もしかして、テストだめだったの?」


 担当の教授である巧人の父親から怒られることを想像していると誠弥は自然とげっそりしてしまっていて、巧人はゼリーを食べる手を止め誠弥を心配そうに見た。


「そうなんだよ、今回も分かんない問題だらけで休み明けに先生と顔合わすの今から怖すぎて……」

「大丈夫だよ。お兄さん、いっぱいがんばったんだよね? だったらお父さんもおこったりしないよ」


 巧人は向かいに座っていた誠弥に近付き、しゃがんで頭を撫でてやった。


「よしよし。いっぱいがんばったお兄さんには、チョコのクッキーあげる」

「うぅ……たくとくん、ちょー優しいっ! ありがと〜〜〜〜!」


 巧人の優しさに誠弥はうるっときてしまう。可愛らしいなぐさめが愛おしくて堪らず、ぎゅっと抱き締めた。


「わ……っ」

(……あれ……なんか、どきどきする……)


 誠弥の身体に視界を奪われ真っ暗な中で誠弥の匂いと抱かれるたくましい腕の感覚だけが伝わってきて、巧人は胸がくすぐったくなる。初めて抱くその違和感は不快なようで心地が良く、何も悲しいことはないのに苦しくて涙が出そうになった。


(どうしてだろ……ずっと、こうされてたい……。離れたくない……でも、なんだか恥ずかしい……っ)


「たくとくん?」


 腕の中にいる巧人の様子がおかしいことに気付き、誠弥は離れて巧人の顔を見る。服を掴んでいる巧人は普段は血の気の少ない白い顔をしているのに紅くなっていた。


「……へ? な、なに……?」

「顔、紅いけど大丈夫? 熱あるんじゃない?」

「だ、大丈夫だよ……僕は元気……あ、れ……っ」


 口で言うことに反して立ち上がろうとした途端頭の中がぐるりと回るような感覚がし、巧人は誠弥の膝元に崩れ身体にもたれかかった。


「たくとくん、大丈夫?」

「うん……。だけど、なんか……ふわふわする……。宿題、しないとなのに……」


 勉強机に置かれた問題集を見上げ起き上がろうとする巧人を、迎えるように自分の額をくっつけ誠弥は体温を確認する。熱い。体温計を使わなくても分かる程の熱を帯びていた。

 突然目の前に誠弥の顔が現れ、巧人は緊張のあまり硬直してしまった。


(……うわぁぁぁ……お兄さんの顔、近い……。動いたら、キ、キスしちゃいそう……っ。……ちょっと、してみたい……かも…………)


 あと少しのところに誠弥の唇があるのに、その僅かな距離さえ詰めることができない。数センチの距離感に耐えきれず、巧人は目をぎゅっと瞑った。


「だめ。熱あるんだから勉強のことなんて考えないの」


 誠弥の『だめ』はまるでキスすることを制止するようで、巧人は冷静さを取り戻す。


「でも……せっかく、お兄さん来てくれたのに……」

「また来るから別の日にしようね」

「いつ、来てくれるの……?」


 次の会える日の約束ができると思うとわくわくが止まらず、巧人は前のめりになって食い気味に問いかけた。


「呼んでくれたらいつでも行くよ。だから、早く元気になれるように休んでようね」

「じゃあ……今日はおやすみする……。お兄さん、ごめんなさい……」

「謝らないで、たくとくんはなんにも悪くないよ」


 膝の上で悲しそうな顔をしている巧人の頭を誠弥は優しく撫でる。巧人は誠弥の服の裾をすがるように強く掴んだ。


「今日もお父さんとお母さん、帰ってくるの遅くなりそうなんだよね?」

「うん……。で、でも、大丈夫……。一人でもちゃんと大人しくしてるし、ご飯はお母さんが作り置きしてくれてるのあっためたらいいだけだから……」

「だめだめ! たくとくんは休んでないと。あとは全部兄ちゃんに任せなさいっ!」

「え……?」

「俺がたくとくんを看病してあげる! これでも医者目指して勉強中の身だからね。あっ、もちろん怖いことはしないから安心してね」


 誠弥は巧人を抱きかかえるとベッドまで運んでやった。ちょこんと座っている巧人は誠弥を無垢な目で見上げている。


「パジャマに着替えた方がいいよね、どこにしまってある? というか、引き出しとか開けちゃっても大丈夫?」

「えっと……大丈夫。パジャマは、クローゼットの引き出しの中だよ」

「クローゼットね。えーっと、これかな?」


 クローゼットの中もきちんと整頓されていて、誠弥はまた気後れしてしまう。三段重ねになっている引き出しには『夏物』『冬物』『パジャマ』と手書きのラベリングがしてあったので、一目でパジャマの在処ありかに辿り着くことができた。


「あ、あのね……ヒーローのやつがいいな……」

「よし、分かった。じゃーんっ、これ着たらヒーローと一緒にしんどいのやっつけられるね」

「うん……!」


 パジャマを受け取った巧人は、中央に大きくプリントされたヒーローを眺め笑顔を咲かせた。


「冷えピタは冷蔵庫の中かな? 探してくるからその間に着替えといて」


 誠弥が部屋を出ていき、巧人は部屋に一人になった。言われた通りに着ている服を脱いでパジャマに袖を通す。誠弥を待つ間、どうしていようか。食べかけのゼリーを食べたいが、それは大人しくしていないことになるかもしれない。あれこれ悩んだ末に巧人は結局ベッドに座ったままだ。


(たぶん、熱のせいだよね……どきどきしてたの。だけど、お兄さんにぎゅってされたら急に身体が熱くなってきて……)


 足をぶらぶらさせながら巧人は自分の身体に起こっている異変についてぼんやりと考える。体験したことのない異変は巧人にまた身体のどこかの具合が悪くなったのだと勘違いさせ、早くなる心臓の鼓動と共に不安を煽った。


(さっきも、キス……したいなんて思っちゃって、おかしいな……)


 それが単なる風邪の症状だとはとても思えなかった。何か別の病気に違いない。元通りになるには医者から怖いことをたくさんされ、苦しい思いをたくさんしないといけない。考えただけでも巧人の身体は震えた。嫌な思いをするくらいなら、このままでいた方がずっと良いと思ってしまう。


(どうしちゃったんだろ……。お兄さんと一緒にいるの、とっても楽しくてうれしいのに……ちょっとだけ辛くて苦しい……)


 しかし、誠弥に会う度にこんな調子になっていれば、もう会えなくなってしまうかもしれない。そんなことには絶対になってほしくない。そう強く思った巧人は目を閉じ首を激しく横に振っていた。


「おまたせ。あ、たくとくんずっと座って待っててくれたの? ごめんね、寝ててよかったのに」

「す、座ってたかったから……大丈夫」

「そう? だったらいいけど。さ、冷えピタ貼ろうね。ひんやりしたら少し楽になるはずだよ」


 誠弥はベッドに座る巧人の前で膝立ちになり、額に冷えピタを貼ってやる。巧人は「ひゃっ」と声をあげ身震いさせたが、すぐに穏やかな顔をした。


「冷たくて気持ちいい……」

「でしょ? じゃあ、あとはゆっくり休んでてね」

「うん、おやすみなさい……」


 巧人は布団に入り横になって一旦目を閉じるが、眠気は全くやって来ず真っ暗なまぶたの裏だけが見える。得体の知れない何かがうごめいているように見えるのが怖くなり、目を開け誠弥の顔を弱々しく見上げた。


「眠れない?」

「うん……。まだ外明るいし、ぜんぜん眠くない……」

「カーテン閉める?」

「ううん……。外見えないの、さみしいから開けてて……」

「分かった。でも、兄ちゃんが傍にいるから寂しくないよ」


 誠弥は巧人の柔らかい前髪に触れ、頭に手を置いた。優しい温もりが、頭を包み込む大きな手から伝わってくる。


(……やっぱり、どきどきしちゃうな……。お兄さんの手、おっきくてあったかくて……落ち着くのに、どうしてだろ……)


巧人は胸に手を当てドクンドクンと速いペースで脈打つのを不安そうに感じ取ると、不安の色をそのまま瞳に映し誠弥を見つめた。


「……お兄さんは、僕と一緒にいるの楽しい……?」

「楽しいよ」


 即答。全てを包み込んでくれるような慈愛に満ちた微笑みに、巧人の心はまたくすぐられる。


「苦しかったり、辛かったりしない……?」

「しないよ、そんなわけないじゃん。いやなこと、考えちゃってるのかな」

「分かんない……。でも、なんだろ……もやもや……? どきどきもして、いろんなものがいっぱい頭の中とか胸の中でぐちゃぐちゃしてて、よく分かんなくて……」

「うーん、なんだろう? 風邪引いたときに見る特有の夢みたいな感じかなぁ。何を意味してるのか全く分かんなくて不気味で怖いやつ」


 誠弥が幼い頃に見た夢の話をしていると、巧人は背筋がひやりとし布団の中に頭まですっぽりと潜り込み身体を丸めて震えた。


「あぁっ、ごめん! 怖がらせるつもりはなかったんだ。ただの夢だしもうだいぶ前の話だし!」

「……こわい夢、見たくないな……」


 ひょこっと布団から顔を覗かせた巧人は目をうるませ誠弥に助けを求めているようだ。


「俺がずっと隣で頭撫でててあげるから大丈夫だよ、安心して」

「……お兄さんがいてくれたら、こわくない……かな」

「怖くないよ、なんにも怖くない。よしよし、ぐっすり寝て早く元気になろうね」

「うん……」


 頭を撫でられていると次第に瞼が落ちてとろんとしてくるが、それに反してどきどきが治まらない。


(……早く寝ないといけないのに……。眠くなってきたけど、どきどきもしてて、へんな感じ……。でも、お兄さんになでられてるの、気持ちいい……。ほんとにずっと、なでてくれたらな……)


 巧人はうるさく脈打つ胸の前で手を組み、少しでも治まるように祈りながら静かに目を閉じた。

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