#25 心の声の届け方

 この日は予定通り、一時間目の授業の時間を使い健康診断をすることになった。巧人と秋は体操服に着替え他のクラスメイトの男子と共に多目的教室へ来ていた。身長は伸びているか、昨日の寝不足はたたらないか……などと秋を含めた周りがざわざわと騒いでいる中、巧人の胸は全く別の意味でざわついていた。


(……兄さんの目の前で服を脱いで、身体を見せる……耐えられるだろうか……)


「……なーって、巧人? めっちゃ深刻そうな顔してるけど大丈夫か?」

「っえ。あ、ああ……」

「身長なんか気にすんなよ、巧人は今くらいのサイズ感が可愛いんだからな!」

「え……いや、別に気にしてないが、それは褒めてるのか……?」

「決まってんだろっ。ちょっと見上げられるくらいの身長差が一番じゃん」

「はあ……」


 そういうものなんだろうか。今一つ理解はできなかったが、もし誠弥も同じように考えているならと思うと巧人はもう少し身長が欲しくなった。




 * * *


 一組から順番に名簿順で測定や検診が始まる。身長や体重は誰でも簡単に扱える機械を使って測定するので、体育委員が数人担当しスムーズに進んでいった。

 検診も心音や肺の音を聴く程度の簡易的なものだからか思っていた以上にさくさくと回転しているようで、一歩また一歩と止まることなく足を前に運ばざるを得なくなる。「次の人ー」というかけ声が聞こえてきて目の前の列からどんどん人がいなくなり誠弥に近付いてくると、だんだん緊張してきて身体が熱くなり手汗が噴き出してきた。このままではまずい、巧人は体操服で手を軽く拭き無心で深呼吸をした。


「次の人ー」

「すぅ……はぁ……」

「あれ、次の人ー」


 誰も入ってこないので、誠弥はパーテーションで囲まれたスペースから顔を覗かせた。


「タク? 早くおいで」

「!」


 誠弥の声で我に返ると巧人は息が止まりそうになる。そのままぎこちない動きでスペースの中に入っていった。


「はい、上脱いで」

「…………」


 機械的な指示に素直に従えない。他の生徒はみんな何の戸惑いもなくすぐに脱いだのだろう。ということは、その数だけ誠弥は身体を見たということではないか。そのことに気付くと巧人は途端に胸の中で熱くてどろどろした何かが渦巻いている感覚がした。


(兄さんは、どんな気持ちで他の奴らの身体見てたんだろ……)


「タク?」


 黙って動かないままでも埒が明かず巧人は体操服のすそに手をかけるが、震えてしまって捲ることすらできない。


「大丈夫?」

「ああ……」


 これ以上は誠弥を困らせてしまうだけだ。巧人は覚悟を決め一思いに服を脱いだ。

 今、目の前に大好きな誠弥がいて、自分の身体を見ている。恥ずかしさだけでなく、嬉しさや高揚感まで湧き出してしまう。息が荒くなり、心臓なんて聴診器なしでも聞こえてしまうくらい激しく脈打っている。顔なんてもちろん見れないし見せたくない。俯き巧人は脱いだ体操服を握り締めた。


(いっそ、心の声まで聞こえてしまえばいいのに……)


「じゃあ、診せてもらうね」

「っ!」


 冷たい聴診器が身体に触れた瞬間、反射で肩を跳ねさせ変な声が出てしまった。それが恥ずかしくてまた身体が熱くなってくる。


「あれ、脈早いね。それに息も荒い。今日体調はどう?」


 誠弥は俯いている巧人の顎を持って正面を向かせた。合った目はうつろで口をぽかんと開けて息をしている。


「大変、顔真っ赤……!」


 誠弥は咄嗟に前髪を上げてやり巧人の額に自分の額を当て体温を確かめた。


(…………!)


 至近距離に誠弥の顔がある。ちょっとでも動けば唇を重ねてしまう近さに、巧人は気を失ってしまいそうだった。


「……熱いね、昨日のが響いたかな。もしかして今日、ずっとしんどかった?」

「……ちょっと、だけ……」

「そっか、ごめんね気付かなくて。保健室で休んでて、今は茜川がいると思うから。俺も終わったらすぐに行くね」

「あ、ああ……」


 巧人は体操服を着て、ふらつきながらパーテーションの外へ出た。




 * * *


 多目的教室を出て前髪と息を整えながら巧人は誠弥の額がくっついていた感触を思い出す。


(熱い……。朝から少し調子が悪かったのは熱があったからなのか……。いや、それより兄さんに見られたことの方が……っ……まだどきどきしてる……)


 熱があると意識すると巧人の身体は倦怠けんたい感に包まれたが、この熱っぽさの大半は誠弥が原因だと思うと保健室へ向かうのも気乗りしない。しかし、教室に戻ったところでどうにもならない。

 ある程度火照ほてりが冷めてから巧人は渋々そのままの足取りで保健室に辿り着いた。


「おかえりー……って、あれー槙野じゃん。どーしたのー?」


 退屈そうに引き戸の方を見ていた楓が気だるげに声をかけてくる。相変わらず自室のようにくつろいでいる。


「ちょっと熱っぽくて……。体温計どこにあるか分かるか?」

「んーと、多分そっちの棚の真ん中の引き出しだったはず」


 二年間も保健室登校していただけのことはあり、楓はすぐにベッドから指さしで体温計の場所を巧人に教えてやった。


「……あった、ありがとう」

「どーいたしましてー。あ、ベッド使うよねー? 病人なんだったら」

「ああ悪い。大したことはないんだがな」


 巧人は楓が立ち上がり空いたベッドに腰掛ける。直前まで楓が座っていた名残の温かさに居心地悪さを感じながら、体操服の裾から腕を突っ込み体温計を脇に挟んだ。


「せーやに保健室行けーって言われたのー? 今の時間って男子はたしか健康診断だったよねー?」

「ああ、その通りだ。ちょうど兄さんに診てもらってるときに……っ」


 思い出しただけでせっかく元通りになろうとしていた巧人の身体はまた熱くなってくる。ちらっと体温計を覗き込むと数値が上昇していってるのが分かった。


「せーや、槙野のことよく見てるもんねー。そのくせ、肝心なとこは見落としてる」

「え?」

「槙野、せーやのこと好きなんでしょ?」


 唐突に核心を見抜かれる。それはあまりに衝撃が強すぎて。巧人には何も返す言葉が見つからず、血の気が引いていく感覚だけが身体に残される。

 体温計からピピピと音がした。


「何度だったー? えーっと、三十七.五度……微熱かなー? 平熱低かったらそれでも十分しんどいかもしんないけどー」


 楓は平然としていて体温計を見てそう言った。まるでさっき言ったことはお得意の冗談か取るに足らないことだと言っているようだ。しかし、巧人にとっては微熱などどうでもよくなる重大な事柄だった。


「俺が……兄さんを好き……だって、どうして……」

「見てたらそれくらい分かるよー。僕、人付き合いが苦手な代わりに人間観察は得意だからー」

「だ、だが、じゃあなんでそんな平気そうなんだ。この好きは、教師としてとか〝兄〟としてとかそういうのじゃないんだぞ?」

「分かってるよ。恋、してるんでしょ? 手繋いだりキスしたくなったりするヤツでしょ?」

「…………」


 はっきりと明言されると照れてしまうが、キスどころかその先まで何度考えたことか。反対に考えない日の方が少ないくらいだ。当然そんなことは言えるはずもなく、巧人は言葉を発さず静かに頷いた。


「いーじゃんいーじゃん、そーいうの僕は良いと思うよ」

「だが、俺は男で兄さんも男で……」

「そんな下らないこと気にしてんだ」

「下らないって……そういうことは普通、異性同士ですることだろ……」

「ふーん。その普通が何か知らないけど、僕は気にしないなー」


 楓は相変わらずあっけらかんとしていて、巧人の隣に腰掛けた。


「まー、僕はどっちの班に入れればいいのかって毎年行事の時期になるとクラスで大々的に議論されちゃうよーな奴だしー? そーいう風に考えてないとやってらんないっていうか?」

「何を言ってるんだ、茜川は女なんだろ?」

「そーいうことにはなってるけど、制服もこっち選んでて自分のことなんて言い続けてたら簡単に誤解もされちゃうんだよー。それになんて思われても『好きに言ってれば?』って返してるのもダメなんだろーなー」


 楓は窓の外を見ながら独り言のように話す。隣にいるはずなのに巧人にはどこか遠くにいるように感じられた。


「……って、僕の話はいーんだよ。せーやのこと好きだから、さっき僕がハグしても何も感じなかったんだ」

「そうかもしれない」

「そうだ、なんであんな来室カード書いたのー?」


 今朝、秋が拾ったと切り出し始まった話を再び持ってくる。楓が一度無責任にも展開させ、そのあとしまい込ませた話題。

 記入済みの来室カードに目を通す人間は、予期せぬ例外を除けば誠弥だけだ。そのことにさえ気付いていれば、内容を見れば誰に向けて書いたかはすぐに分かった。


「やっぱり、茜川は見てたんだな……。俺の気持ち、一生伝えられない気がしたから、せめてどこかに残しておきたくて。書いたのは本当に勢いだったから、すぐ冷静になってくしゃくしゃに丸めて捨てるつもりで持って帰ったんだ」

「それじゃあ、このままずっと伝えないつもり?」


 巧人は頬を紅く染めながらも苦しそうに俯き、それ以上何も言おうとしない。


「あーごめん、熱あるのにそんなこと考えたくないか」

「悪い……。だが、いつかは伝えたいと思ってる。そう思えるようになったんだ」

「そっかそっか。何の知識も経験もない僕でも良かったらいくらでも相談乗るから、今はゆっくり休みなよ」

「ああ……」


 立ち上がった楓は掛け布団をめくり、横になった巧人にそっとかけてやる。


「そうやって寝てると病人感増すねー」

「たしかに、横になったら気が抜けたのかどっと身体が重くなってきた……」

「看病とかはできないからせーやに任せるけど、眠れるまで話し相手くらいにはなるよー」

「別に、気にしてくれなくていい……。勝手に寝てるから」


 寝返りを打つのも辛いのか、巧人は顔だけ楓から逸らし目を閉じた。


「そー言われちゃったら仕方ないねー、静かな方がよく寝付けるだろーしー。しんどいときって僕でも寂しくなったりイヤなことで頭いっぱいになっちゃうから、槙野もそーだったら少しでも和らげてあげよーと思ってたんだけど」

「…………。兄さん、俺のこと嫌いにならないかな……」


 ボソリと弱った調子の声が聞こえてきたので、楓はベッドの横に椅子を持ってきて巧人に背中を向けるようにして座った。


「どーして?」

「俺、兄さんの前だとどきどきして、変な行動ばっかりするから……」

「せーやのこと、そんなことで槙野を嫌いになるよーな人だと思ってんの?」

「思ってない、思いたくないけど……。もし、告白なんてしたら……すごく困らせることになると思う。自分勝手に人を困らせるような迷惑な奴、嫌われて当然だ。それなのに、俺は……」

「教師と生徒だなんてもってのほか、〝兄弟〟でもまだ足りない。せーやのたった一人のパートナーになりたい――そー思ってる」


 楓の言っている通りだ。全てを見通されている感覚がし、巧人は恐怖感と安心感が混ざり変な心地がした。


「傷を負うリスクの方が圧倒的に高くても、もしかすればたったの一パーセントもないかもしれない可能性を掴み取る為に、槙野はせーやを困らせる。僕はそれ、大賛成だよ」

「えっ」


 巧人は思わず首を楓の方へ向けた。顔は見えない。その代わりに見える楓の背中は小さく一見頼りなさそうだが、一本強い芯が通っている強さが伝わってくる。


「だってそれ、仮に異性同士でも同じことだよ。想いを伝えたら困らせる、迷惑になる、嫌われたらどうしよう……。そんなのきっと、片想いする人全員が一度は通った道だ。槙野があれこれ考えて悩んでたところで、よーは、せーやが槙野のことを好きなのかどーか。嫌いだったら困るだろーし迷惑だろーけど、想いを伝えよーが伝えまいが嫌いなのには変わりない。だけど、せーやはどーよ? 僕から見たら、せーやは槙野のこと大好きだとしか思えない」

「それは、俺が〝弟〟だからで……」


 その『好き』とこの『好き』が決して同じ方向を向くわけでもなく交わることもないと巧人は分かっていた。いくら誠弥が巧人を〝弟〟として好いていても、巧人の抱える重い重い爆弾の前では何の力にもならない。


「んじゃ、せーやがただのブラコンだとして……んー、兄弟からの告白って困るかなー? 基本付き合えないし困るか。でもさ、せーやはその辺の女と槙野、どっちに『好き』って言われた方が嬉しーと思う?」

「……その辺の女って?」

「そこは別に誰でもいーんだけど、誰が相手でも負けない自信付けないと」

「自信なんて……」


 後ろから弱音ばかりが聞こえてくるので、楓は堪らず振り返った。巧人は変わらず具合が悪そうで、汗をかきながら浅く息をしている。


「あー、やっぱり僕は下手だなー。全然勇気付けらんない。他人の不安な気持ちなんて完璧には理解できないって分かってるけど、悔しいなー」


 全く感情の籠もっていない棒読みが引っかかり巧人は楓の顔を見るが、やはり何を考えているのか分からない顔をしている。

 開いた窓から入ってくる風が熱を帯びた巧人の頬を心地良く撫で、気持ちばかりに身体を楽にさせた。


「僕にできることなんてほとんどないんだ。槙野とせーやとの間の話なら、槙野とせーやにしかどーすることもできない」

「……元も子もないな」

「だねー。だから、槙野が自信なかったらどーにもなんないんだ。ここだけの話、せーやは槙野がここに入学してくるって分かってからずーっと嬉しそうにしてて、子供みたいに楽しみで堪んないって顔してたんだよー」


 合格したと連絡したとき、誠弥が自分のことのように喜んでくれていたことを巧人は思い出す。その後も誠弥は興奮が冷めやらなかったらしく、当時は面識もない楓を相手に嬉々として話していたことが、少し引いた様子の彼女を見ていると伝わってくる。


「それってホントに〝弟〟だからってだけだったのかなー? 実の兄弟じゃないからこそもっとそれ以上の感情があるよーに僕は思ったんだ。本人が気付いてるかは別だけどー」

「……兄さんも、俺のことが好きかもしれない……?」

「ただの憶測だよー。せーやが槙野のこと好きなのは確定だけど、恋かまでは分かんない。でも、告白されて迷惑だなんてことはまずないだろーねー。自信持って」


 楓は巧人の肩をそっと叩き励ます。上がりっぱなしだった肩から力が抜けていった。

 確証のない言葉だらけでそれは一見無責任な後押しだったが、巧人にとっては心の内を誰かにさらけ出し受け入れられただけで十分だったのだ。


「そうか、そうだよな……。兄さんを信じないとって、昨日も思ったのに……」

「身体が弱ってると心も弱るものだから仕方ないよ。それに、迷惑くらいかけていーじゃん、この世界は迷惑のかけ合いでできてるんだから。みんなが迷惑かけないよーにって遠慮して生きてたらどーなる? 槙野とせーや、仲良くなれてた?」

「…………」


 病院で初めて出逢った日、白衣に怯えて泣いていた巧人に誠弥が遠慮していたら。「一人でもだいじょうぶ」という言葉を真に受け部屋から立ち去っていたら。「仲良くなりたい」と言ってくれなかったら――。きっと、それっきりだった。あのとき、巧人はたしかに困惑した。明らかに避けていた巧人に声をかけ続けることを、迷惑ではないかと誠弥も悩んだに違いない。それでも声をかけてくれたから、二人は今日に至るまで一緒にいられたのだ。


「迷惑かもなんて考えて気遣って遠慮して、お互いの間に『これだ』って言えるものが何もないことが一番悲しいじゃん。だから、迷惑なんてどんどんじゃんじゃんかけちゃえ。僕は応援してるよ」


 楓は立ち上がり、椅子を元あった場所へ戻した。窓の外を見ると体育の授業が始まるのか、体操服姿の生徒が数人見えた。騒がしくするだろうと予見し、窓を閉める。

 ベッドの方を見ると、巧人は掛け布団の端を握り穏やかな寝息を立てて眠っていた。


「最後まで聞いてないだろーなー。しゃーない、早く元気になりなよー」


 小さな声で囁くと楓はベッドの周囲を囲むカーテンに手をかけるが、「閉めたらひとりぼっちになったみたいでイヤか」と言ってそのままにしてやる。しばらく様子を見たあと、ソファに寝そべった。

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