第3章 自分らしさ

#23 同級生A

 次の日、金曜日。昨日の無茶が響いているのか一週間の疲れが溜まっているのか、巧人はどこか本調子ではなかった。休んだり保健室の世話になる程ではなかったが、気が付くとその足は保健室へ赴いていた。

 いつものように引き戸をノックしようと左手を構えたその時、確実に誠弥ではない誠弥よりも高い声が部屋の中から聞こえてきた。


「ねー、いーじゃんかー」

「だめだよ」


(……⁉)


 一瞬、息が止まる。気だるげなようで甘えたようでもある知らない声と誠弥の優しい声。巧人は引き戸に背を向け深呼吸するが、よく考えれば何も焦ることではなかった。保健室は生徒全員のものだ、巧人の為の部屋ではない。単に知らない生徒がいるだけだろう。タメ口なのは頂けないが、生徒が教師に対してそういった態度をとることは珍しいことではない。

 先客がいるなら顔を出すだけというのも迷惑だろうと、教室に向かい一歩踏み出したのと同時にまたその声が聞こえてくる。


「……せーやのケチ」


(え、今、兄さんの名前……)


 ガタンッ。それは巧人にとってはあまりに衝撃的な出来事で、ふらっと力が抜けそのまま引き戸に寄りかかった。


「? 外、誰かいるみたい」

「本当だ」


 誠弥はりガラスに人影が映っていることに気付き、引き戸を開ける。巧人の頭頂部で一束だけ跳ねている髪が見えた。


「タク? こんなところで何してるの?」

「に、兄さん……おはよう……」


 上目遣いで誠弥を見る。何事もないように微笑みかけられ、見知らぬ声の主について尋ねられない。


「うん、おはよう」

「その……誰かいるみたいだったから……」


 恐る恐る部屋の中を覗くと、ベッドに座るツインテールと目が合った。


「あれ? 君、せーやの〝弟〟クン?」


 ツインテールが巧人に近付く。パンツスタイルの制服に頭が混乱しそうになるが、以前秋が言っていたことを思い出し納得する。青のネクタイをしているのでどうやら同級生らしいが、見覚えがない。他のクラスなら無理もない、そう思いながらも誠弥と妙に親しげなことが引っかかっていた。


「かわいー」


 ツインテールは背伸びをしてまで子犬を可愛がるように巧人の頭をわしゃわしゃと撫でた。冷たく細い指の感触に巧人は顔をゆがめた。


「ほら、困ってるからやめてあげて」

「あー、困ってたー? 表情変わんないから分かんなかった、ごめん」


 離れるとツインテールは眉を下げて笑っているようだが、前髪が長くて重く微妙に表情が読めない。どうも苦手に思えてしまい、巧人は早くこの空気から解放されたかった。


「なんなら初めからずっと困った顔してたよ。ごめんねタク、この子……茜川あかねがわも悪い子じゃないから」


 茜川――やはり知らない名前だ。自分たちのクラス以外にも知り合いや友人の多い秋からも聞いたことがない。第一、これだけ誠弥と親しげなのに誠弥の口からその存在を明言されたこともなかった。


「……俺以外にもよく話す生徒がいたんだな、しかも名前で呼ばれてるし……」


 一年生ならまだ出会って間もないはずだ。そんな短期間でここまで距離を縮めているなんて、ただならない関係に違いない。自然と巧人の目付きが鋭くなる。


「怖い顔しないで。茜川は元々保健室登校だった生徒ってだけだよ。名前呼びも、俺は他の先生に比べたら歳が近いからその方が親しみやすいってだけじゃないかな。なめられてるとも言える」


 茜川は「せーやのこと、なめてなんかないよー」と言いながらも、平然と誠弥の椅子に座ってくるくると回り遊んでいる。細いツインテールがなびいて波線を描く。


「本当にそれだけ?」

「うん、それだけ」

「じ、実は他の人には言えないような関係だったり、そういうことは……」

「ないない! タクは本の読み過ぎだよ」


 笑いながら大きく手を振って否定する誠弥を見てひとまず安心し、続けて茜川の方を見ると首を縦に二回振っているので確信を持って胸を撫で下ろした。


「だが、保健室登校って、入学してからほとんど毎日保健室来てたのに俺はこんな人見たことない」

「だって、茜川が保健室登校してたのこの三月までだし」

「は? この人、俺と同じ一年だろ?」

「いやまあ、それはそうなんだけど……」


 参ったと言わんばかりに腕を組みながら誠弥が茜川の方を見ると、椅子に両手をつきにたっと笑っている。


「僕、一年生三回目なんだー。だからほら、赤のネクタイも緑のネクタイも持ってる」


 茜川はベッドの脇に置いてあった鞄からそれぞれ今の二年生と三年生の学年の色のネクタイを手品のように引っぱり出した。「リボンも全色あるよー、今は持ってないけど」と何故か得意気で、巧人は呆れることしかできない。それよりもと言ったことが気になり、先程得た納得が崩され意識がそちらへ集中してしまう。


「えっと、じゃあ、本当は三年生……?」

「うん。でも、敬語で話そーとしたり意識しなくていーよー。一年六組、茜川あかねがわかえで――ただの同級生A」




 * * *


 楓は自室にいるかのように奔放ほんぽうに振舞っていて、喉が乾けば断りもいれずウォーターサーバーの水を飲み、ベッドにだらしなく寝転がっている。そんな様子を巧人は冷ややかな目で見ていた。


「ん、君も寝っ転がりたいのー? いーよー、隣おいで」

「…………。兄さん、こんなの放っておいていいのか?」

「うーん、だめなんだろうけど赴任してから二年もずっとこんな光景見てたらなんか慣れちゃってさ。茜川の場合、登校してるだけで偉いというか……。一年生三回もやることになったのも出席日数が足りなかったからなんだ。だからあんまり口出しするのも気が引けるんだよね」

「それじゃー僕が問題児みたい。せーやは僕が注意しても聞かないか、注意されたくらいでメンタルやられて引きこもるよーな奴だと思ってんのー?」


 楓は不服そうにして起き上がると誠弥をにらんだ。誠弥は「そんな顔しないで」と言って宥めてやる。


「思ってないよ。だけど、四月からは調子良く教室行ってると思ったら、昨日突然顔出してきて『やっぱつまんない、疲れた』なんて言い出したから心配なんだよ。今年こそは上手くやるって決意してたのに」

「だってクラスの奴ら、みーんな上辺だけで仲良いフリして気味悪いんだよ。グループで固まってそれがまるで当たり前みたいに同じものを好きだって口揃えてさ。〝自分〟ってヤツがまるでなくて宗教みたいで……怖い」


 楓はベッドの上で体育座りをし背中を丸め「そーいうのって、どの学年でも同じなんだ」と続けた。


「僕が否定したら『ノリ悪い』だの『ありえない』だのって、意味分かんないよ。もう耐えらんない」

「周りの話についていけない、でもついていく為に合わそうとするのもいやだってことだね。タク、そういうのどう思う?」

「えっ、俺?」


 不意打ちに指名され巧人はとりあえず楓を見た。クラスや与えられた環境には馴染めないと諦めに満ちているようで、その奥では「寂しい」のだと訴えかけている目をしている。少し前の自分に似ている気がした。


「別に、周りに合わせる必要なんてないと思う。俺だってそういうのは苦手だ。だが、俺には胸を張れる程の〝自分〟ってやつもない」

「そんなの僕にだってないさ。ただ、誰とも同調できない自分をちゃんと〝自分〟として認めてあげたいだけ」

「自分を、認める……」

「そー。自分が考えてることとか抱えてる思いとか、世界中の人から否定されても理解されなくてもいいから、僕だけは僕を認めたい」


 楓の言葉が巧人に深く突き刺さった。考えていることも思っていることも全く違うはずなのに、きっと根底は同じなのだろうと感じさせる。

 男性として誠弥を愛している自分をちゃんと認めたことがあっただろうか。巧人は考える。こんな風に思うのは間違っているだとかどうにもならないだとか、初めから諦めてばかりだ。認められていれば、もっと前向きになって何歩も先まで踏み出せていたのではないのだろうか。立ち止まり続けている地面の土はすっかり乾ききっていた。


「多分、あーいう奴らはこんなこと考えもしないんだろーけど。君はそーじゃなさそーだね」

「俺は……そうだな、俺も俺のことを認めたい。否定されたり理解されないのは少し胸が痛むが」

「君となら友達ってのになれる気がする。せーやの〝弟〟クンなら悪くないかもー」


 楓はベッドから降り巧人の目の前に立つと顔を見上げ「名前、なんて言うの?」と尋ねた。


「槙野巧人だ」

「苗字呼びか名前呼びか〝弟〟クンかどれがいい?」

「どれでも……いや、せっかく名乗ったから苗字か名前か好きな方で呼んでくれ」

「じゃー槙野。僕のことは茜川でも楓でも落ちこぼれでもなんとでもどーぞ」

「落ちこぼれって、成績自体は良いでしょ。なんならトップクラスだったじゃん」


 誠弥が口を挟むと楓は「勉強なんてできたって仕方ないよ、人間としてダメだったらね」と返す。秋が聞けば即座に教科書も参考書も投げ捨ててしまいそうだなと巧人は頭の中で空想を描いた。


「落ちこぼれかはともかく、茜川と呼ばせてもらう」

「ほーい。よろしくねー槙野」

「ああ」


 どこかニヒルな雰囲気を持つ楓はそれに反し何の躊躇いもなく巧人にハグした。一方の巧人は抱きつかれた瞬間こそ驚き肩を跳ねさせたが、その後は至って冷静だった。


「ねー、どっちだと思う?」

「え?」


突然の的を射ない問いかけに巧人は首を傾げる。どっち――今置かれている状況に於いて二択になり得る事柄にぴんとくるものはなかった。


「僕。男か女か」


 抱きつかれている感触を改めて確かめる。細い腕、身体から柔らかさは感じられない。声や第一印象や話し方……判断材料を集めれば集める程、巧人の中で決め手を欠いた。

 男か女か。正解か不正解かの確率は等しく五十パーセントずつのように思えるが、簡単に答えは出せず言い切ることも容易たやすくはない。間違えれば相手を深く傷付けることになってしまうと巧人はよく知っていた。


「えっと……女?」

「理由は?」

「……髪型」


 散々悩んだ結果がそれだった。一番駄目な答えだということは痛い程分かっていて、巧人はばつが悪いと顔を逸らした。


「ふむふむー。それでその反応、槙野ってもしかして女子に興味ない?」

「えっ」


 思わぬ鋭い指摘と顔を上げた瞬間にじっと見つめられた目に固められる。どう返答するのが正解なのか全く分からない。


「いやー、心拍数とか体温とか全然変わんないなーって。落ち着いてて冷たいまま。男子ってこーいうこと女子からされたら誰が相手でもちょっとはどきどきするもんだと思ってた。まー、僕は女子って感じじゃないけどー」


どうやら少なくとも選んではいけない選択肢は回避したらしく、巧人は胸を撫で下ろした。かく言う楓も巧人に対して全くと言って良い程意識していないようで、どう捉えるのが正解なのか悩んで結局答えは出なかった。


「何はともあれ、二人が友達になれて良かったよ」


 誠弥は密着している二人の肩を持ちそれぞれに微笑みかけた。楓に抱きつかれていることよりも遥かに巧人の心臓に負荷がかかる。悟られないように慎重に口を開いた。


「どういうことだ」

「茜川もタクと同じで友達作るの苦手だから、二人とも上手くいってなかったらお互いのこと紹介しようってタクが入学する前から実は考えてたんだ」

「へー。普段なら余計なお世話って言うとこだけど、ナイスー」


 楓は悪戯いたずらっぽく笑い、誠弥にグーサインを出した。


「僕だって一人でいたいなんて思ってないしー。気が合う奴ならいつでもウェルカムってスタンスだったから、み取ってくれてたせーやはさすがだよー」

「何目線? でも、二人はきっと仲良くなれると思ってたんだ。何がって明確には言えないけど、雰囲気みたいなのが似てる気がしてさ」

「本当に俺に友達ができるように考えてくれてたんだな……」

「もちろん。教師としても〝兄〟としてもタクには笑っててほしいからね。タクが自分の力で友達を作れたのは嬉しい誤算だったけど、友達はたくさんいる方が良いもんね」


楓の肩に手を置いたままの一方で、誠弥は巧人の頭をもう片方の手で優しく丁寧に撫でてやる。無意識のうちにできた対応の差は、単に一緒にいた年数の違いだとあっさり各々おのおのの中で咀嚼そしゃくされ消化していった。


「ありがとう……兄さんも茜川も」

「どーいたしましてー? せーやがずっと槙野の面倒見たくなる気持ち、分かるなー。見た目だけじゃなくて性格まで可愛い」


 楓はもう一度ぎゅっと巧人を抱き締める。そして小さく「羨ましい」と巧人にだけ聞こえる声で呟いた。

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